地域社会が崩壊の危機〜5年ぶりの与那国島の旅

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天蛇鼻から眺める祖納集落=古川玲子さん(元援農隊)提供=

 2月9日は旧暦で1月16日。沖縄の八重山地方は「十六日祭」と言って、島の人にとってはこの日が本当のお正月。ご馳走を作って亀甲墓にお参りし、墓の前で先祖とともに直会をする。この日を挟んで5日間、与那国島を5年ぶりに訪れた。

5年前までの40年間、私は全国の若者に呼びかけて、与那国島にサトウキビの収穫と製糖工場を手伝う「与那国島サトウキビ刈り援農隊」を続けた。40年間、多い年で120人、少ない年で40人が参加、40年で延べ3500人が島で汗を流したが、2015年にその幕を閉じた。

島の雰囲気は大きく変貌

  15年2月、与那国島では自衛隊基地誘致をめぐって住民投票が行われ、中学生も投票に参加して、誘致賛成となった。自衛隊誘致をめぐっては、島民の意見が真っ二つに割れていたが、住民投票で誘致派が勝利すると、島の雰囲気はかなり変わっていった。その状況はさまざまな人のレポートで知り、私も気になっていたが、なかなか島を訪れる機会がなかった。
この間、自衛隊基地建設は、宮古島、石垣島、奄美大島などにも政府は積極的に推進して、これを問題視する人たちが上京して訴える集会を開いたり、政府交渉などもしてきた。それらに私もできるだけ参加して状況の推移に関心を抱き続けてきた。

 与那国に着くと、与那国町農協時代(現在はJA沖縄与那国支店)から、援農隊の世話をしてくれた職員10人が集まって歓迎会を開いてくれた。彼らは現在のJA与那国支店の現状にはあからさまな批判はしなかったが、その後、いろんな人に聞くと、支店はすっかり様変わりして、事務部門も製糖工場も島の人はほとんど辞めてしまっていた。
支店長や課長級は与那国島のことを知らないまま、本店などから転勤してくるが、彼らの業務は商社と同じようになって、預金や農具の割賦販売での信用事業、肥料や農薬、生活必需品の購買は行うが、島の農業についての展望などは考えているようには思えないともいう。転勤期間だけ無事に過ごせば良いという感覚で仕事をしているようにしか見えないのだ。それで、今ではJAの事務部門も、さらには製糖工場の職員も島の人はほとんどが辞めてしまった。

 全県1農協がもたらしたもの

  私たちの援農隊が終わってからは、JAは派遣会社を通して要員を募集しているのだが、責任者の工場長は製糖工場では機械が故障しても、農務担当はキビ倒しの要員が途中で足りなくなっても、製糖のやり方を真剣に心配する様子が感じられないとまで言う。
 それで一昨年などは、原料のキビを600トンも残したまま製糖を終えた。原料は農家が生産した命でもある。農家は原料代は受け取ったのだが、原料のキビを余らせて捨てるという発想には驚くとともに、そんな農家を愚弄するようなことを農協がすること自体、信じられない。

 そんな状態だから、今の製糖工場の状況やキビの予想収穫量、毎日の進行状況がどうなっているのかといったことは聞けなかった。元職員の皆さんも、今のそんなJAの在り方には疑問を抱きながら、半ば呆れると同時て、半分諦めているように見えた。

 与那国島の第1次産業はサトウキビ、酪農、そしてこの20年ほどは資生堂との契約栽培で急激に伸びた長命草(ボタンボウフウ)の栽培であるが、これはJAが契約に関与していない。長命草は年に数回収穫できるので農家には現金稼ぎに重宝しているが、資生堂が契約を解除するのではないかとの噂もあり、先行きは見えない。長命草はそばに練りこんだり、お茶に使うなど健康食品としての可能性がある。 
 さまざまな野菜を栽培したらとの提案もあるが、これは難しいのが現状だ。JA支店に島野菜などの新しい品種についての知識や技術のある職員がいないのだ。今のJA沖縄は、本島周辺や大きな離島は別にして、与那国などの遠く小さな離島の営農指導は積極的にはなされていないように思われる。

 今、与那国から島外に出荷している野菜はクシティ(パクチ)だけだ。これは元援農隊のHさんが夫婦で島に定住して、栽培に成功し、数年前、石垣島の市場に出荷することに成功した。与那国の野菜が島外に出荷されたのは、これが初めてである。最近では東京のレストランにも直送しているようだ。

 これまで、いろんな野菜がハウスなどで栽培実験されたが、成功したものはない。Hさんのように成功するまで徹底的に頑張るというのは並大抵ではなく難しい。長命草は資生堂が買い上げると言ってきたので栽培者がどっと増えたが、自分で売る先を開拓するとなると、与那国は大変不利だ。現在の黒糖でさえ近年は売れ残している今のJAではまず無理だろう。

 与那国の黒糖はかつては糖度が低いと言われて販売に苦労したが、20世紀末頃からは糖度は低いがミネラル成分が豊富だとして、食品や化粧品にも使われて、援農隊が終わるまではバイヤーが度々視察に訪れて、毎年売り切れていたのだが。

自衛隊員が村の行事に参加

   自衛隊基地については、やはり私は、与那国町は百年の計を誤ったように思う。基地ができたことで年間数千万円の金が入ってくる、隊員の子供が学校に転入してきて複式授業がなくなった、と町長や防衛協会は自慢するが、そのために島が失ったものは大きすぎると思わざるを得ない。島民の団結が失われ分断されたことが特に大きい。
 在沖米軍やハワイの米軍司令官が最近、与那国を訪れたが、これは石垣島や宮古島と同じように、自衛隊と米軍が一体になって作戦を行うことを示している。自衛隊の倉庫が実は弾薬庫だったことが明るみ出たのは、防衛省がその実態を隠していたからだ。与那国基地は沿岸監視部隊という触れ込みだったが、実際はそれにとどまらないのだ。沖縄の自衛隊の役割は本土の自衛隊とはかなり異質な要素がある。中国を仮想敵国扱いし、対中戦争を想定して、自衛隊が米軍の先兵の役割を担わせられているのである。そこに沖縄の自衛隊の特徴がある。

 また、自衛隊の領土としての島は守っても、島民を守るのは何まではないと防衛省は言う。中国に占領された島を奪還する米軍との合同訓練には島民救出は含まれていない。それは当該自治体の役目だと言う。しかし、そのノウハウもなければ、訓練もなされたことはない。

 しかし、多くの島民はそいうことにあまり関心を示さないように見える。自衛隊員を与那国一周マラソンやカジキ釣り大会などのイベントに参加させ、祖納東、同西、島仲、比川、久部良の集落の伝統行事にまで参加してもらっている。これではそのうち、これらの村の行事は自衛隊が参加しないと成り立たなくなるだろう。地域社会の崩壊が目に見えるようだ。そして私には、島の人たちの言葉の端々から、それが日々進んでいるように見えた。

崩壊する島の自立

 5年前に私が予想した最も悪い姿になりつつあるように思われる。島には全くと言って良いほど活気が感じられないのである。着いた夜に歓迎会をしてくれたみんなも、こんなに集まるのは久しぶりで、藤野さんがきてくれたから集まれたと言っていた。

 島を一周すると、かつてはキビ栽培のために土地改良した畑は荒地のまま。島最大の水田地帯だった満田原(マンタバル)はすっかり埋め立てられて、しかも雑草が生い茂るだけの荒地になってしまっている。眺めていて辛い気持ちになった。
 農協の職員が次々に辞めていくと書いたが、これは町役場も似たようなものだ。職員を募集しても、島の人は興味を示さないと言う。今年も3人を採用する予定だが、応募したのは全員本土の若者だそうだ。

 与那国島には中学校までしかなく、中学を卒業すると全員が島を出ていく。そしてUターンして帰ってくるのは5%もいない。私は援農隊を始めてまもなく、島に若者がいない現状を見て、これでは島は過疎化するばかりで、八重山高校の分校を作ることを提案したが、反応がなかった。自民党の尾辻吉兼町長が、小泉政権の「平成の大合併」で2004年に住民投票の結果に従うとして、やはり中学生を入れた住民投票を行った結果、合併をやめることになった。尾辻町長は、島が独力で発展し活性化するために、島の自立ビジョンとして台湾の花蓮市(1982年に友好都市に)との交流による島の活性化を提唱した。

 そこで、大田昌秀知事時代に副知事を務めた吉元政矩氏をビジョン委員会の委員長に迎え、多彩なアイデアによる活性化案が出された。これには本土の多くの大学教授らが支援を始めた。その中に琉球大学と提携した高校の設立という案もあったが、翌05年、尾辻町長が急逝し、その後継となった外間守吉現町長も当初は尾辻路線を継承するはずだったが、防衛協会の圧力で基地誘致派に鞍替えしてしまったのである。私は援農隊の活動を続けてきて、尾辻町長の行き方に共感し、協力してきた。だが、その後の島は、私が期待しているのとは逆の方向に進んできてしまった。
 島民の意識の分断が進み、自衛隊が自分たちの願う方向に進めるために、「島民との融和」をめざして地域社会の伝統的な文化行事にまで入り込み、それが逆に地域社会の崩壊にまで至るのではないかとの危惧すら生んでいる。

 援農隊を熱心に世話してくれたのは多くが保守派の人であり、農家だった。だが、製糖事業は政治的な立場を超えて協力し合わなければ事業を進めることはできない。政治的対立を超えて両者がつながりあう絆の役割を援農隊があるいは果たすこともできるかと期待はしたこともあったが、すべてはそれとは異なる方向に島は進んでいるようにも思われる。

 考えてみれば、いまの日本という国全体も同じような状況にあるのではないだろうか。いまの日本、こういう離島の現実に未来はあるだろうか。とてもそうは思われないという悲観的な思いがしきりにする5年ぶりの島旅だった。(完)