<護憲三長老の歴史観と憲法観と今>PKO協力法成立させた宮沢喜一 「植民地支配と侵略」を世界に発信した村山富市 警鐘鳴らし続けた後藤田正晴

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 岸田政権は、戦後安保政策の大転換といわれる軍拡を進め、十分な説明や戦前への反省がないまま財源などに関する重要法案を次々に成立させた。タモリ氏が「新しい戦前」になりそうだといって大きな反響を生んだが、寸鉄、鋭い時代感覚である。78回目になる8月15日の終戦記念を控えて、国連平和維持活動(PKO)協力法を成立させ、カンボジアに自衛隊を派遣した宮沢喜一、「植民地支配と侵略」を「村山談話」で世界に発信した村山富市両元首相、「日本人は走り出すと止まらなくなる。私には異論があるよという勇気が大事だ」と、警鐘し続けた後藤田正晴元副総理の3氏の歴史観と憲法観には、時代を越えた貴重な意味が込められているように思える。

<3回続きの(上)>

【宮澤喜一氏】

世界地図の中で「護憲」説く

 宮沢喜一氏(2007年に87歳で死去)で特筆されるのはPKO法案の成立とともに同法を根拠に、カンボジアへ自衛隊や文民警察官を派遣したことだろう。派遣は停戦合意の成立が条件だが、不幸にして文民警察官と民間人1人ずつの犠牲者が出る。自民党内にも撤退論が出たが、宮沢氏は日本が引き揚げれば、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の存在が危うくなると踏みとどまった。                               

 護憲派で知られた宮沢氏が戦後初の自衛隊海外派遣を行い、犠牲者を出すというめぐりあわせになったが、宮沢氏は「終生負っていくべき罪だ」と言っている。この重い責任感が日本の安全保障の新時代を切り開いたといわれる。

護憲へのこだわりの理由

 宮沢氏の護憲へのこだわりには理由がある。宮沢氏の青春は日本が戦争に突入していく過程と重なるのだ。1931(昭和6)年に満州事変が起きて、小学6年の宮沢氏は、作文の時間に兵隊さんに送る慰問文を書いたのが始まりだ。中学に入ると5・15事件で犬養毅首相が首相官邸で襲撃される。高校生の時には、2・26事件が起きて岡田啓介首相らがテロに遭う。翌年、日中戦争がはじまる。大学1年の時アメリカに渡り、途中の船で、米国務長官が日米通商航海条約の破棄を通告したことを知る。その年の9月にヒトラーが、ポーランドに侵入、第2次世界大戦がはじまったことは、オレゴン州の短波放送で聞いたという。1940(昭和15)年に、斎藤隆夫代議士が国会で軍部を批判して衆議院から除名される。 

 日米戦争がはじまり大学を繰り上げ卒業して大蔵省に入り、戦争中は空襲で家が焼け、赤紙召集され敗戦。物心ついてから成人まで灰色の連続だった。

「自由の抑圧」の監視を怠るな

 「戦争中の苦労や食べ物の苦労より、自由が圧迫されて、どうにもできない憤激だけは忘れることはできなかった」といっている。以来、宮沢氏は日本はなぜ悲劇の道を歩んだのか、誤りはどこにあったのかを知ろうと努めた。ある時、戦争に反対した米内光政氏(首相、海軍大将)が「日本は魔性の歴史に引きずられた」と言っているのを知る。「魔性の歴史とは、活力を失くした社会が軍部の強権に対する抵抗力を失って、屈服した過程をこう表現したのだ」と気が付く。

 宮沢氏は、著書の「護憲派宣言」の中で「自由はある日突然なくなるのではなく、目立たないように徐々に蝕まれ、気が付いたときはすべてが失われるという過程を辿るものだ。だから日本は、将来に向かって自由の制限につながるような兆候にも厳しく監視して、歴史の魔性に引きずられないように、憲法が指摘するように不断の努力で、日本の活力を守ることが大事だ」と言っている。

「21世紀に堂々と非軍事大国目指せ」

 冷戦構造に支えられた55年体制が崩れ、世界的なコロナ禍、ウクライナ戦争、グローバリズムと新しいAIなどが中心となる新しい時代状況が生まれている。中国の経済力や軍事力の台頭も当時は考えられなかった。宮沢氏は戦後日本が国際社会に復帰するサンフランシスコ講和会議に出席するなど、日本外交の局面に立ち会い国際派とも呼ばれたが、護憲論の神髄も世界地図を視野に入れた護憲論にあったといえるだろう。

 宮沢氏は自らの体験を踏まえて今の政治、これからの世界、憲法をどう考えていたか。著書で「憲法の文言だけでなく最高裁の判例の積み重ねもある。うまく運用されてきたと思う。憲法9条を中心に改正することは入用のないこと。ただ新しく出てきた問題意識、環境とか人権などを見直すというのなら反対はしません」と言う。宮沢氏は、日本は21世紀には堂々と非軍事大国を目指せともいっている。

 宮沢氏の強い護憲意識には、保守本流の政治手法は、内政外交の現実問題に対してどちらかに偏ることなく、柔軟に対応することとされてきたが、この問題処理能力の伝統にも期待をしているのかもしれない。              

深く吟味し直すべき護憲論

 もう一点、宮沢氏が政治家の論評の中で特に注目されるのは、吉田内閣とは終始立場を異にした石橋湛山元首相を、尊敬する政治家のトップに挙げていることである。なかでも石橋氏の「あの戦争はアジアに敗れたのだ」との認識を高く評価する。世界地図の視野から説かれる宮沢氏の護憲論は、いま深く吟味し直してみる必要があるように思われる。

(了)