1948年(昭和23年)11月4日、東京裁判の判決文朗読が始まった。1週間かけた朗読がやっと終わり、11月12日午後、ウェッブ裁判長がアルファベット順に各被告に判決を言い渡した。
東條元首相ら7被告に「絞首刑」 虐殺に関わったと認定
東條英機元首相、板垣征四郎元陸相・シンガポールの元第7方面軍司令官、木村兵太郎元ビルマ方面軍司令官、松井石根元中支那派遣軍司令官、武藤章元陸軍省軍務局長・フィリピンの元14方面軍参謀長、土肥原賢二元第7方面軍司令官の陸軍軍人(武藤が中将のほかはいずれも大将)の各被告と文官からただ1人、元首相で元外相の広田弘毅被告の7人に「絞首刑」が言い渡された。
A級の「平和に対する罪」(侵略の罪)だけで死刑となった被告はいなかった。絞首刑の7被告はいずれかの市民や軍人の虐殺や捕虜虐待などのB級の「通例の戦争犯罪」に関わったとされた。「事後法」との批判がある「平和に対する罪」だけで、極刑にすることに複数の判事が反対した結果だといわれている。板垣はシンガポールでの「華僑虐殺事件」、松井と広田は「南京虐殺事件」、木村は「泰緬鉄道の捕虜虐待事件」。武藤も山下奉文第14方面軍司令官が戦争末期のフィリピン戦での民間人虐殺などの戦争犯罪に問われ「戦犯第1号」としてフィリピンの米軍裁判で処刑されていたので、参謀長としてその身代わりではないかと指摘する専門家もいる。
【シンガポール華僑虐殺】1942年2月から3月にかけて、日本軍の占領統治下にあったシンガポールで、日本軍(第25軍)が、中国系住民多数を掃討作戦により殺害した事件。47年に戦犯裁判(イギリス軍シンガポール裁判)で裁かれた。(ウイキペディア) |
【南京虐殺事件】日中戦争が始まって5カ月後の1937年12月13日、旧日本軍が中華民国国民政府の首都だった南京を制圧し、捕虜や一般市民を殺害するなどした。犠牲者数を中国側は「30万人」と主張する一方、日本側の研究者は「4万〜20万人」とする見方が多い。(朝日新聞キーワード) |
【泰緬鉄道の捕虜虐待事件】太平洋戦争中の1942年から43年にかけて、タイ・ビルマ間の鉄道建設予定地で、日本軍が、鉄道建設に従事した連合軍の捕虜やアジア人労働者多数を虐待し、死亡させた事件(ウイキペディア) |
被告は全員有罪だった。
荒木貞夫(元陸相、元文相、皇道派のリーダー)、橋本欣五郎(大佐で元野戦銃砲兵第13連隊長、31年に桜会を中心に3月事件、10月事件と呼ばれるクーデターを計画した)、畑俊六(元帥で元陸相、第2総軍司令官)、小磯国昭(東條のあとの首相)、南次郎(元陸相、元関東軍司令官)、大島浩(陸軍中将で元駐独大使)、佐藤賢了(中将で武藤章の後の元陸軍省軍務局長)、鈴木貞一(中将で東條内閣の企画院総裁)、梅津美治郎(大将で元参謀総長)、の陸軍軍人9被告。
岡敬純(中将で元海軍省軍務局長)、嶋田繁太郎(大将で元海相、軍令部総長を兼務)の海軍軍人が2人、それに平沼騏一郎(元首相、元枢密院議長)、星野直樹(元満州国総務長官、元書記官長)、賀屋興宣(東條内閣の蔵相)、木戸幸一(元内相、文相、元内大臣)、白鳥敏夫(元駐伊大使)の計16被告が「終身禁固刑」だった。
元外相東郷茂徳被告は「禁固20年」、元外相の重光葵被告が「禁固7年」という判決だった。
「デス・バイ・ハンギング」にニヤリ、東條元首相
朝日新聞東京裁判記者団の「東京裁判」(朝日文庫)によると、48年11月12日午後の判決言い渡しのもようは以下の通りだった。
ウェッブ裁判長は休憩の後、1人1人を呼び出し刑の宣告をすることを宣した。弁護人席と被告席の間には5人の武装MPが11カ国旗に向かって正面に、被告の入ってくるドアの囲いを背にケンワージー憲兵中佐以下7人のMPが立ち並ぶ。上気した目が注視する中に黒い法服姿の判事団が粛然と入廷。最後のウェッブ裁判長が着席するとき、2,3枚の紙片をすっと机上に置いた。断罪表だ。
「刑の宣告をする」との裁判長の声が終わるか、終わらないうちに、裁判長の正面はるかな被告席にすっと影絵のようにモーニング姿の荒木貞夫被告が立った。午後3時52分、荒木の耳にイヤホンがかけられた。午後3時55分、「インプリズメント・フォア・ライフ」。終身禁固刑である。うなずく荒木の表情。ざわざわっと法廷内の緊張が破れた。2番目は土肥原。「デス・バイ・ハンギング」。絞首刑に処する。(中略)
(アルファベット順に言い渡しが続き)いよいよ最後に東條が立つ。軍服姿、両手を後ろに組んでゆったりと入ってきた。左に軽く首を曲げて天井を見上げる。数年前には彼自身が全国民に号令したこの場所で・・・日本語に通訳される言葉をいちいちうなずいて聞き、「デス・バイ・ハンギング」。
大きくニヤリと左の口角を崩した。そしてイヤホンを外して、ちらりと傍聴席に目を走らせた。家族たちに別れを告げたのであろう。「これでいいんだよ」と語っているかのごとくであった。
判事団は多数派7人とウェッブ裁判長ら少数派4人に分裂
この日読み上げられた判決は11人の判事団のうち、7人の多数派によるものだった。
日暮吉延の「東京裁判」(講談社現代新書)によると、48年の2月か3月ごろ、判事団内部に7人の「多数派」グループができた。英国のパトリック判事を中心に、カナダのマクドゥガル判事、ニュージーランドのノースクロフト判事、米国のクレイマー判事、ソ連のザリャノフ判事、中華民国の梅判事、フィリピンのハラニーリャ判事の7人である。
他方、裁判長で、オーストラリアのウェッブ判事、オランダのレーリンク判事、フランスのベルナール判事、インドのパール判事の4人は判決の決定過程から排除され「少数派」になった。
ウェッブは「侵略戦争の共同謀議」の正当性を疑っていた。
「多数派」とは、侵略戦争はすでに国際法上の犯罪だとする「ニュルンベルク・ドクトリン」を支持したグループで、パトリック判事が47年春頃から多数派工作をしたグループである。パトリックはベルナールも取り込もうとしたが、獲得には失敗した。
「多数派はパトリック判事の運動の成果」と日暮は書く。そして多数派による「起草委員会」が組織され、7判事が判決起草権を持った。東京裁判の判決のうち「法律論」と「事実認定」は多数派が書いたという。多数派の各判事が起草を分担し、起草委員会で草案が修正、承認された。この草案は少数派判事にも配られ、異論がある判事は書面でほかの判事たちに知らせた。
多数派は55項目の訴因が「多すぎる」として、①侵略戦争の全般的共同謀議②満州事変の対中戦争遂行③対米戦争遂行④対英連邦戦争遂行⑤対蘭戦争遂行⑥対仏戦争遂行⑦張鼓峰事件の対ソ戦争遂行⑧「ノモンハンの対ソ、モンゴル戦争遂行⑨交戦法違反⑩交戦法違反の防止義務の不履行ーの計10項目に訴因を減らした。
事実認定の四つの特徴
少数意見についてはその存在が発表されただけで、法廷では朗読されなかった。また多数派の判決は上訴権のない確定判決だった。
日暮吉延の「東京裁判」によると、多数派の事実認定の特徴は以下の四つだった。
①1928年の張作霖爆殺事件以降の17年間にわたる「全般的共同謀議」が存在した②長期の「共同謀議」過程を均等に扱ったため、米国が重視した太平洋戦争段階の比重が低下、真珠湾をターゲットにした「殺人」訴因も削除された③ソ連については、日本の対ソ政策を「攻勢的または侵略的」とする微妙な認定だった④残虐行為の訴因の「犯罪は立証されている」と認定した。しかも「通例の戦争犯罪」について多くの具体例を列挙しつつ、その防止義務を怠った文官を含む東京の指導者までが「不作為責任を負う」と認定されたことーなどを上げている。
インドのパール判事は被告全員が無罪
オランダのレーリンク判事の反対意見は「平和に対する罪」だけで被告を死刑にすることに反対し「終身刑」を妥当とした。広田弘毅元首相の死刑に反対し、海軍の岡敬純と嶋田繁太郎、陸軍の佐藤賢了は交戦法違反で死刑になるべきだとした。
フランスのベルナール判事は多数派の判決作成の内幕を暴露。「平和に対する罪」で被告を有罪にすることはできない。さらに「天皇不起訴」の不平等は「遺憾」とした。
裁判長のウェッブ判事は、天皇の戦争責任に言及。とはいえ「天皇不起訴」に不満な訳ではなく、天皇の責任を踏まえて被告の減刑を考えるべきだとした。
インドのパール判事は「個人として被告は全員、起訴事実すべてについて無罪」とした。いまだに東京裁判否定論者はパ–ル判決を称えている。日暮は「パールの事実認定には、思想的基盤として反西洋帝国主義が強く反映していた」と書いている。インドの独立は東京裁判さなかの47年8月である。
岸信介ら8閣僚の裁判はなぜ行われなかったのか
A級戦犯容疑者は100人を超え、当初は第2次、第3次の起訴も予定されていた。
東京裁判の開廷後の47年6月ごろにはまだ50人の容疑者が残っていた。このあとも少しずつ容疑者は判決までに釈放された。最終的には48年12月23日、東條ら7人の絞首刑が実行された。その翌日、岸信介元商工相ら東條内閣の閣僚を中心とした容疑者19人が釈放されて東京裁判は一応、終わりを告げた。
アンネッテ・ヴァインケの「ニュルンベルク裁判」(中公新書)によると、ニュルンベルク裁判では、国際軍事法廷で起訴されなかった重要な戦争犯罪人を裁くため、米国単独による「継続裁判」が行われた。医師、法律家,企業家、閣僚など計185人が12の裁判でそれぞれ裁かれた。
では、なぜ日本では、第2次以降のA級戦犯の起訴が行われなかったのか。日暮は「米ソの冷戦」だけが原因ではないという。日本でも、米国がA級戦犯容疑者を「国際裁判」ではなく、「米国単独の継続裁判」とするとの構想があった。マッカーサーはこれらの容疑者をBC級で裁くという考えだったが、19人のうち11人についてはBC級での起訴は無理と分かり、岸ら元閣僚8人が49年1月に「元閣僚裁判」にかけられる予定だった。
ところが、実際には「元閣僚裁判」は行われなかった。日暮によると、GHQ(連合国軍総司令部)は本気で元閣僚の裁判をやろうとしたが、東京裁判の判決の影響で断念せざるを得なかったとする。
その具体的な理由は、東京裁判では、非軍人閣僚だった賀屋興宣元蔵相ら4人を交戦法違反(通例の戦争犯罪)で起訴したが、判決では、この訴因では重光葵元外相だけが有罪であとは無罪だった。従って「同種の証拠」しかない8人を起訴しても無罪になる可能性がある。また交戦法違反で有罪となったのは、重光と広田を除いて全員が陸軍軍人で軍人ではない元閣僚裁判をしてもうまくいかないと判断されたと指摘している。
保阪正康は「東京裁判の教訓」(朝日新書)の中で「東京裁判は歴史の中に埋め込まれた地雷である。日本の軍事指導者たちがいかに拙劣な認識で時代と向き合っていたかが克明に証明されるようにできている。そして処刑の翌日に釈放された19人の戦後の歴史の中にもうひとつ別の姿が刻まれている」と書いている。
保阪が指摘するその象徴の1人は、後に首相となり、1960年(昭和35年)の日米新安保条約を締結する岸信介。現在の安倍晋三首相の母方の祖父であり、首相が何事かにつけ尊敬してやまない「おじいさん」である。だからこそ安倍首相は「東京裁判」にこだわり続けているのだろう。
「人道に対する罪」は第2次大戦後もたびたび適用
こうして東京裁判は終わった。
「事後法」だと批判が今もある東京裁判とニュルンベルク裁判の「平和に対する罪」と「人道に対する罪」。第2次大戦後、この2つの国際裁判はその後も続く戦争や紛争で生かされているのか。
リベラル側からの「憲法9条の『平和原則』を強化する改憲」を唱えて話題となった故加藤典洋の「戦後入門」(ちくま新書)によると、「平和に対する罪」は国際刑事裁判所の設立(2003年3月)まではいったが、その具体的な運用はまだ未定であり、「法的妥当性」や「普遍性」はなかったのではないかと疑問を呈する。
しかし、加藤は「人道に対する罪」(東京裁判判決では適用されず)は、第2次大戦後もナチスのホロコーストに類する民族単位の迫害が頻発したこともあり、さまざまな裁判で民族ジェノサイドなどこの罪に当たるとして適用されている。旧ユーゴスラヴィアの元大統領ミロシェヴィッチを「人道に対する罪」に問うたスレブレニツァの虐殺や、同じ95年には、南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離政策)も同じ「人道に対する罪」のカテゴリーに組み込まれ、弾劾されている。「人道に対する罪」は国際社会で受け入れられ、定着している、と指摘する。その意味で、東京裁判とニュルンベルク裁判の教訓は生きているといえるのではないか。
【スレブレニツァ虐殺】旧ユーゴのボスニア東部の町スレブレニツァで、1995年7月にムスリムの男子住民約8000人が殺害・行方不明となった事件。当時、ムスリム住民が多数を占めるこの町はセルビア人勢力支配下の飛び地になっていたため、国連保護軍の安全地域に指定され、オランダ部隊が駐屯していた。しかし、ムラジッチ司令官率いるセルビア人勢力の侵攻にあい、この事件が生じた。(知恵蔵2015) |
「日本人は自らの手で清算できなかった」
粟屋憲太郎の「東京裁判への道」(講談社学芸文庫)によると、戦後直後、政府により自主的に戦争犯罪を裁こうという動きもあり、一部は実行された。しかし、これは占領軍より前に少しでも罪を軽くしておこうという先手を打つ「一事不再理」を狙ったものだった。昭和天皇の反対(あとで一応承認)があっただけでなく、GHQも賛成せず、結局、実現しなかった。そもそも身内に甘い時の政府に公平でまともな自主的戦争裁判などできるはずはなかった。
「満州事変の謀略」「南京虐殺」など東京裁判で初めて明らかに
一方で満州事変が日本軍の謀略であったことや南京虐殺があったことなど、日本国民が東京裁判を通して初めて知った事実もたくさんある。また、被告の選び方や45年8月14日にポツダム宣言受諾以降、政府や軍部、メディアは、「戦犯」に問われることを恐れて徹底した証拠隠滅を図り、重要書類を焼却処分にした。何か都合の悪い文書をすぐに隠したり、改ざんしたり、廃棄したりする官僚の癖は残念ながら現在もまだ直っていない。
東京裁判では、証拠の内容に検察側の思い込みがあるなどずさんな部分もあったことも確かである。東京裁判にはまだまだ未解明な部分がある。さらに、中国での日本軍による重慶の「無差別爆撃」や旧満州(中国東北地方)で人体実験を繰り返した,関東軍の「731部隊」などGHQの都合で故意に避けられたテーマもある。
しかし、東京裁判によって、日本が「戦後の民主国家」としてスタートしたことの意味は大きい。
「開戦責任」「敗戦責任」と「戦後責任」
日本人が主としてこれまでに問題にしてきたのは「敗戦責任」だけだったのではないのか。だからこそ、「開戦」を「やむを得なかった」としたり、「米国の陰謀」などとする論者も出てくる。「戦後責任」という言葉を知らない人も多い。「敗戦責任」だけでは、こぼれてしまうものもある。
日本は1951年に締結したサンフランシスコ講和条約第11条で東京裁判の判決を受諾したうえで国際社会に復帰したことを忘れてはならない。
それであるのに、A級戦犯が合祀された靖国神社に首相や閣僚が参拝して中国や韓国をはじめ諸外国から抗議を受けたり、米国を「失望」させたり、慰安婦や南京虐殺などの歴史認識で国際的に問題が続いている。ことしも8月15日に安倍首相に近い閣僚3人を含む4閣僚が、閣僚として4年ぶりに靖国神社に参拝した。78年10月、A級戦犯の刑死7人と獄死7人の14人が秘密裏に靖国神社に合祀され、これを共同通信が79年4月18日にスクープし配信した。それ以来、昭和天皇と上皇陛下は靖国神社を参拝しなかった。この問題をめぐっては、いろいろな議論はあるものの、東京裁判の結果と靖国問題が結びつき、政治性を帯びてしまったことは事実だ。
それはなぜなのか。東京裁判によって問われたものは何か、裁判で指摘された「負の歴史」とどのように向き合うのか。空襲の被害者や、沖縄戦や南洋戦の被害者、韓国・朝鮮人の元BC級戦犯、シベリア抑留者など未解決の部分の大きい「戦後補償」の問題にどう向き合うのか。まだまだ課題は多い。若い人たちはまず負の歴史を学ぶこと、知ることから始めてほしい。
(注) 本稿は朝日新聞東京裁判記者団「東京裁判」(朝日文庫)、日暮吉延氏の「東京裁判」(講談社現代新書)、保阪正康氏の「東京裁判の教訓」(朝日新書)、粟屋憲太郎氏の「東京裁判への道」(講談社学術文庫)、加藤典洋氏の「戦後入門」、アンネッテ・ヴァインケ氏の「ニュルンベルク裁判」(中公新書)などを参考にしました。