新羅色を薄めようとした日本神話
大国主命を祭る出雲大社は豪壮な建物で、特に正面に飾る太いしめ縄が印象的だ。広い境内には外国人の善男善女も含めて観光客がひっきりなしに訪れ、人気の高さがうかがえる。
記紀では全く触れない記事
出雲に行くというので大急ぎで古事記、日本書紀、出雲国風土記を読み直したが、記紀と風土記とでは同じ人物でも随分扱い方が異なっている。風土記では大国主命(おおくにぬしのみこと)は、「天の下造らしし大神」として素戔嗚尊(すさのおのみこと)よりも存在感がある。ところが風土記では有名であっても記紀では全く触れない記事がある。
「栲衾(たくぶすま)、志羅紀(しらき)の三埼を、国の余りありやと見れば、国の余りありと詔(の)りたまひて、童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして……三身(みつみ)の綱うち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来々々(くにこくにこ)と引き来縫へる国は、去豆(こづ)の折絶(をりたえ)より、八穂爾支豆支(やほにきづき)の御崎(日御碕)なり」
これは島根半島の西の杵築(きづき)や美保は、八束水臣津野命(やつかみづおみつぬののみこと)が、新羅の岬に綱をかけて、国引きをしたという有名な場面だが、記紀にはない。
大国主命は地方神統合の象徴か
記紀神話には、高天原から国譲りの交渉の使者として、地上に降りた天穂日命(あめのほひのみこと)は、3年間、大国主命のところが気に入って報告を怠ったとある。ところが出雲国造神賀詞では、十分任務を果たしたとなっている。
この神賀詞は大和から、出雲に派遣された天穂日命の子孫の出雲国造家が書いたとされるので、差し引いて読む必要があるだろう。またこうした違いがあると、編纂者たちの編集方針の違いなどが分かるようで面白い。
大国主命は名前が多いことでも有名だ。出雲大社由緒略記では、大己貴命(おおなむちのみこと)、大穴持命(おおあなもちのみこと)、大物主神(おおものぬしのかみ)、葦原醜男神(あしはらしこおのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、大名持神(おおなもちのかみ)、国作大己貴命(くにつくりおおなむちのかみ)などを紹介する。大国主命はまた多くの女神と結ばれ、古事記によると子供の数は180柱である。
記紀神話は大国主命が、天津神(あまつかみ)に国土を譲ることを軸に展開される。このことなどから、瀧音能之駒沢大教授は、「大国主命は、多くの地方神を統合する象徴としてつくられた名前ではないか」とみる。
朝鮮半島との関係巡る出雲と大和朝廷の緊張
その昔、朝鮮半島にあった三国と大和朝廷との関係も微妙で、671年に新羅が朝鮮半島を統一するまでは、出雲は新羅、伽耶に近いこともあって、鉄生産や焼き物など最先端技術の交流が盛んだった。一方大和朝廷は新羅と対立関係にあった百済と関係が深かった。出雲と大和朝廷は、朝鮮半島との関係をめぐって緊張関係にもあった。岡谷公二氏は、「神社の起源と古代朝鮮」で、出雲には新羅、白木、白城という名の付く神社がないことに着目して、「出雲では或る時期から出雲国造家の意向よって、新羅色、ひろく言って朝鮮半島色が次第に消されていったのではないか」とみる。