✺神々の源流を歩く✺

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第20回「滋賀県大津市坂本 日吉大社(ひよしたいしゃ)」

穴太(あのう)の石工が支えた日吉大社

 大津市から湖岸道路を北に向かい萬葉集で知られる唐崎をすぎると、日吉大社は左手にある。唐崎は萬葉集に「さざなみの志賀の辛崎幸あれど大宮人の船待ちかねつ」と詠まれた古くからの港である。唐崎はまた韓崎、辛前、辛崎とも書かれ、今村鞆氏の「朝鮮の国名に因める名詞考」によると、瀬田の唐橋と同じで古代朝鮮半島にちなんだ地名とされる。

 日吉大社は「山王さん」とも呼ばれ、比叡山の山懐に広がる山王七社を中心に、全国に約3,800社ある日吉、日枝、山王神社の総本社である。近くに延暦寺もあり、大津市坂本はその門前町として栄えた。

「石の声を聴き、石に従う」

 坂本の町を日吉大社に向かって歩いて、驚いたのは石垣の見事さである。自然石の巧みな組みあわせが微妙に調和していて、夕方、日が陰り薄暗くなりかけていたこともあってか、石垣が何かささやきかけてくるような錯覚を覚えた。

 大津市の教育委員会でもらい受けた資料から、石垣は穴太(あのう)衆と呼ばれる朝鮮半島から渡来した石工たちが築いたものだとわかった。坂本の隣の穴太に住んだので穴太衆と呼ばれる。別の説明書には「石の特徴を生かして永久に座っている場所を石と相談しながら決めていく」のがコツで、「石の声を聴き、石に従う」ことだとある。見事な石垣の足元に水路が巡り、清冽な水が坂を流れ下ってゆく。

坂本の町は比叡山の方向から琵琶湖の方に傾斜していて、水平に保つには石垣が必要なことから石組の技術が発達したといわれる。延暦寺の三搭十六谷といわれる膨大な堂伽藍、庵室、祠堂を支えているのも、すべて穴太衆の石積みである。そして日吉神社は、延暦寺の守護神として、比叡山の寺院が増えるたびに、日吉大社が祀る神々も増えていくという関係にあった。                                  
 ちなみに延暦寺の開祖、最澄は日吉大社の二の鳥居にある生源寺に生まれ、新羅からの渡来人とされる。穴太衆の石垣は堅牢なことでも知られ、安土桃山城をはじめ大阪、江戸城など多くの城の石垣は穴太衆積みとされる。

東本宮は神道的祭祀の起源

                 
 見事な石垣に感心して後になってしまったが、日吉大社には東西二つの本宮があり、「古事記」によると、東本宮は「大山咋神(おおやまぐいのかみ)、亦の名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)、この神は近淡海国の日枝の山にます」とある。大山咋神は、大山に杭(咋)を打つ神、つまり大きな山の所有者を意味する山の神とされ、渡来の秦一族が氏神と崇めた神として知られる。

一方、西本宮の祭神は、大己貴神(おおなむちのかみ)で、大津京遷都の翌年の668年に新都の鎮護に奈良の大神神社が勧請された。

東本宮の方が古いが、美術史家、景山春樹氏は「近江路―史跡と古美術の旅―」で、「日吉社禰宜口伝抄」を解説している。この中に神社のいわれを知るうえで大事な指摘があるので、引用させてもらうと、「山頂の磐境の地は、祭神の奥津城(おくつき,陸墓)から始まるもので、その荒魂(あらみたま)を祭る奥宮が墓のかたわらに生まれ、やがてその神霊を山麓に移し和魂(にぎみたま)と称し、神道的な祭祀を行うようになったのが今の東本宮の起源だ」―とある。祭祀の歩みを知るうえで興味深い。