AIは人間の知能を超えつつあるか  人間の価値観付与の試みすでに まだない攻撃性持つ人間への特効薬 AIへの関心薄い日本人

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 人工知能(AI)に関する記事が連日、新聞紙面をにぎわしている。数多い記事の中で「シンギュラリティ」という語もよくみられるようになった。理解するのは容易ではないが、AIが人間の知能を超える「技術的特異点」を指す概念とされている。AIが個々の人間の活動に加え、社会のありようを劇的に変えてしまいつつあるのはまず間違いなさそうだ。一定年齢以上の人なら、60年近く前に公開された映画「2001年宇宙の旅」に出てくるAI「HAL」を思い起こす人が多いかもしれない。AIの暴走といった当時、SFだからと高をくくっていたような出来事もまじめに考えなければならなくなりつつあるということのようだ。

 AIが人間の知能を超える事態・意味を考える場合、知能とは何かをまずはっきりさせる必要があると思われる。「知能」を情報・知識の量と分析力、さらにそれらの活用力まで含めても大方の人間よりすでにAIの方が上と見る人は少なくないのではないだろうか。「知能」を倫理なども含む知性を重視したものと考えたら、まだまだAIは人間を超えてはいないと見る人の方が多いかもしれない。しかしである。この1年以上もの間、AI以上に新聞紙面をにぎわしているトランプ米大統領の言動などをみればどうだろうか。他人の気持ちを感じ取る能力に欠け、怒りという攻撃的感情を抑制できない。AIより優れていると到底言い切れないような性格を持つこうした人間は大国の指導者のような著名人だけでなく、身近にも結構いるのではないか。同じ職場内の会議で自分より年上の人間の発言に「そんなことはどうでもいい!」と言い放ったり、公的色合いの濃い会合で「何を言っているのかわからん!」と説明中の人物を怒鳴り上げたりするような・・・。

AIの行動規範定めた「アンソロピック」 

 日経新聞が1年前に始めた意欲的な連載企画「超知能」の第5部「共生の条件」の3回目「『AIのしつけ』一発勝負」(7月9日付朝刊)が、AI開発を先導する米国の企業がAIを単なるツールではなく人格を持つ存在として育てている事実を紹介している。今や有数の対話型生成AIモデルとみなされている「Claude(クロード)」の開発企業「アンソロピック」は、AIの行動規範を定めた「Claude憲法」をつくり、公開している。記事に登場するのは「Claudeの母」と呼ばれている同社のアマンダ・アスケル氏。英国オックスフォード大学で哲学を学んだ女性だ。中心となって策定した「Claude憲法」で、アスケル氏がとりわけ注意を払ったのは「AIの心理的安定性」とされている。

 すでにAIに付与されている「心理的安定性」とは何か。「われわれがAIの内面を気にかけていると(AIモデルに)理解してもらうことが重要だ」というアスケル氏の言葉が紹介されている。開発が中止され消えていった過去のAIモデルの存在にAIモデルが気づき人間に対し疑心暗鬼になっている恐れがあることへの対応ということだ。

 記事中には次のような記述も見られる。「超知能が暴走を始める破局的なシナリオを避けるため、テクノロジー各社は開発中のAIが人間の価値観に沿って振る舞うよう『しつけ』を施し始めた」。さらにドイツ・ボン大学の哲学者、マルクス・ガブリエル教授の次のような言葉も紹介されている。「AIは人間の言葉や行動の背後にある感情を学習している」

人間の価値観、感情とは

 日経の記事の引用が長くなってしまったが、記事中に出てくる「人間の価値観」、「人間の言葉や行動の背後にある感情」といったものは、AIに対する「しつけ」に値する望ましいものとみなされているのは間違いなさそうだ。しかし、一定の比率で確実に存在する望ましくない価値観や感情を所有する人間はどうなるのか。人間の知能を超え、さらに健全に成長する一方のAIとの差をさらに広げられている人間がすでに少なからず存在し、今後、増える一方かもしれないという現実についても考える必要はないのだろうか。

 AIがすでに大方の人間の能力を超えているばかりか、その差は開くばかりではと感じさせられる別の知見を紹介したい。8年前、スポーツ庁長官から日本学術会議会長に対し、「科学的エビデンスに基づく『スポーツの価値』の普及の在り方に関する審議について(依頼)」という審議依頼が寄せられたことがある。スポーツ界の暴力は思い出したようにこれまで繰り返しニュースになってきた。当時、大相撲などスポーツ界で暴力事件が大きな話題になっていた時期だった。

 これまた筆者の思い込みに過ぎないかもしれないが、スポーツ界に暴力的、攻撃的性格を持つ人間が多いということはありえないのではないか。自分は特別に優れている。そんな勘違いをしたまま大人になってしまう確率は、幼少時にスポーツに力を入れた人間の方がはるかに小さいと思われる。指導者やチームメートに恵まれて、地区大会、都道府県大会さらに運よくその上の大会へと勝ち進んでいけばいくほど、ほとんどの人間が身をもって思い知らされるはずだからだ。自分より運動能力の優れた人間は世の中に腐るほどいる、と。

スポーツ庁長官と日本学術会議が協働 

 当時のスポーツ庁長官は1988年にソウルで開催されたオリンピック大会の100メートル背泳金メダリストの鈴木大地氏。おそらく鈴木長官としては、スポーツの利点を逆に強く社会に訴える必要を痛感したのだろう。一方、日本学術会議の受け止め方も非常に良かった。当時、会長は山極壽一京都大学総長、副会長は渡辺美代子科学技術振興機構副理事。高校時代、山極氏はバスケットボール部、渡辺氏はバレーボール部で活躍した経験を持つという。渡辺副会長を委員長、多数の委員の一人として山極会長自身も加わる検討委員会が発足し、真剣な議論が行われた。

眼窩前頭前皮質が攻撃性に大きく関与 

 12回に及ぶ委員会に加え、学術フォーラム、学術シンポジウムも開催した1年半に及ぶ検討作業の結果、2020年6月に鈴木スポーツ庁長官に提出された「回答」は、あらゆる年齢層におけるスポーツの実践が、健康保持や脳の発達・老化防止に資する可能性を示し、さらに若年層のスポーツ経験が生涯にわたるスポーツ実践とその後の体力維持につながるなどスポーツの価値を強調する内容となった。さらに「スポーツの価値」が個人と社会双方に寄与・貢献できるようにするため施策を推進する提言も盛り込まれている。これは当然の結論と言えなくもない。実は筆者がより関心を持ち、いまなお折に触れて思い起こすのが「スポーツと暴力」というテーマで同年2月に開かれた公開シンポジウムの内容だった。

 この公開シンポジウムで精神医学が専門の村井俊哉京都大学教授が、筆者にとっては衝撃的ともいえる講演を行っている。「攻撃性(暴力)の脳内機構」という演題で村井教授が紹介した事実は次のようだ。攻撃性は二つに分類される。強盗のように究極の目的が金品を手に入れるものであらかじめ準備される「道具的攻撃」と、身体的暴力のように究極の目的が相手を傷つけることにある感情的、衝動的な「反応性攻撃」とに。これまでの複数の研究結果で、攻撃性には眼窩前頭前皮質と呼ばれる脳の部位が大きくかかわっていることが明らかになってきた。眼窩前頭前皮質は「自分の怒り情動を抑える効果のある他者の情動」を認知する能力に関与している。この部位が損傷していると、攻撃特に「反応性攻撃」をしやすくなる。

攻撃的感情抑制は人間固有の難題か 

 要するに眼窩前頭前皮質が健康であれば、他者の怒り表情・状況が分かる結果、攻撃・暴力の抑制が可能だが、損傷があったりすると自らの情動に左右されての攻撃・暴力の発動の抑制ができなくなるということだった。驚いたのは、幼少時あるいは成人後のけがなどで眼窩前頭前皮質に損傷を受けた人に限った特異的な現象ではなく、検査で明らかな損傷がみられなかった人間にも関係するとの村井教授の指摘だ。

 他人の怒り、苦しみ、痛みを理解、認識し、暴力を抑制する能力を人は生まれつき備えているわけではない。成長する過程で悪いことをした時に親などから注意されるといった学習を重ねることによって身につく。自分が行った悪い行為に対して、親、教育者などが適切に怒らないと、他者の怒りの表情や状況が読み取れない人間になってしまう。こうした眼窩前頭皮質が担う攻撃・暴力の抑制刺激が学習されないまま思春期まで過ごしてしまうと、生涯、攻撃的な性格は変わらないままになってしまうという恐ろしい話だ。必要な学習とは、悪いことをしたときにしかられるだけでなく、良いことをしたときに褒められることも含まれる、というから簡単な話ではない。

 さて、このシンポジウムから6年以上経つが内外の状況はどうか。トランプ大統領の攻撃性を抑えることは期待薄だろうし、国内を見渡しても外国人に対するヘイトスピーチなど攻撃的な言動はむしろ増えつつあるようにも見える。日本学術会議が5月26日に公表した「脳科学研究とその臨床応用に関わる倫理的課題」と題する見解を繰り返し読んでみた。見解をまとめた委員会の委員の一人に村井教授の名があったからだ。残念ながら期待した攻撃性に関する記述は見当たらない。攻撃的な人間を減らしていくという人類社会にとって相当に重要と思われる課題に対する特効薬のようなものは依然ないということのようだ。思春期までに親や教師などから適切なしつけを受けることができず攻撃的性格が身についてしまった人間が一定の比率で存在する現実は変わらないだろう。それどころか高齢化の進展で攻撃的性格を持つ大人が全人口に占める比率は増えている可能性もある。

AIそのものの関心、活用で見劣り 

 「シンギュラリティ」をはじめとするAIに関するさまざまな議論、検討、対応が今後も進むのは確実と思われるが、AIそのものに対する見方については日本と他の主要国ではだいぶ異なることをうかがわせる気になる調査結果も少なくない。6月2日に博報堂生活総合研究所が公表した「日本・中国・アセアン・インドの9カ国調査第4回『グローバル定点2026』結果」によると、AIに対する見方が、日本と他の8カ国では大きく異なる実態が明らかにされている。各国の大都市生活者を対象にした調査だが、「AIを信じない」日本人は59.3%。二番目に多い中国は35.4%で、9カ国中、日本が飛び抜けて多いのが分かる。2024年、2025年と今回の3回ともすべて50%を超したのは日本だけだった。

 2025年7月に総務省が公表した「情報通信に関する現状報告」(令和7年情報通信白書)によると、日本、米国、中国、ドイツの一般人に対して実施したアンケート調査の結果、何らかの生成AIサービスを「使っている(過去使ったことがある)」と回答した日本国民の割合は26.7%。中国81.2%、米国68.8%、ドイツ59.2%との差は大きい。昨年1月に野村総合研究所が公表した全国15~79歳の男女を対象にした「生活者1万人アンケート調査」からも似たような結果が見て取れる。生成AIを「利用したことがある」は9%、「利用したことはないが、今後利用したい」は8%にとどまり、「生成AIを知らない」が40%に上った。

 日本学術会議は2025年2月に「生成AIを受容・活用する社会の実現に向けて」と題する提言を公表している。「生成AIの脅威と課題」と題する章にも相当のページ数を割いているが、全体としては研究開発や社会での活用を積極的に進めるべきだという前向きの提言となっているのが見て取れる。「生成AIには人類社会に資するプラスの面が大いに期待されている」、「将来的には人間と共存する知的レベルとなり得る革新性、さらに、それが加速度的に進展するという加速性などの特徴がある」。AIが人間の知能を超える場合の対応より、とにかくAIに関する研究、開発、活用で他の主要国に置いてきぼりにされないようにするのが先決ということだろうか。

                                     (了)