伊勢神宮と韓神山
伊勢神宮の内宮の近く、伊勢市楠部町に韓神山がある。五十鈴川の澄んだ水が、韓神山に沿うように流れる。韓神山は伊勢神宮で大事な役割を担っているが、朝鮮半島とも切り離せないかかわりにある。
韓国の歴史書、三国史記に着目すべき記事がある。新羅の赫居世の「始祖廟」は、西暦4年に創設され、487年2月には赫居世王の生誕地の奈乙(なおつ)に「神宮」を創設したという。
「廟」も「神宮」もともに中国でできたものとされるが、古い時代の新羅とのかかわりも無視できないものがある。韓神山は、高さ30㍍ぐらいの山というより丘に近い。代々神宮の禰宜(内宮と外宮の神官)の墓地だったが、大正初めの五十鈴川の工事で壊されたという。その後、元のように戻されたのかは聞き忘れた。
御祖神社が二つの不思議
伊勢神宮の祭祀制度を本格的に整備したのは、7世紀後半(673年)に即位した天武天皇の時代とされる。戦でライバルを倒したので強権的な政治ができたらしい。神宮の創設の頃から続いている禰宜の墓所が、なぜ韓神山と呼ばれるのか不思議に思えた。また伊勢神宮の禰宜といえば、内宮は荒木田氏、外宮は渡会氏が創設当初から務めている。これも不思議だ。
今も藪や竹林に囲まれている韓神山には小さな社がある。荒木田氏の祖神とされる。さらに行くと、二つの神社の石柱が立っている。脊柱には国津御祖神社と大土御祖神社と彫られている。名称から見ると、ここが一番古そうに見えるが、ともに伊勢神宮の摂社になっている。この二柱が共に御祖神社と呼ばれていることも、何かいわれが込められていそうだ。御祖神社が二つあることについては、「祭祀制度を分化したものだ」と説明されるが、ただしその前からあったともいわれ、岡谷公二氏も「原始の神社を求めて」のなかで、不思議だとしている。
山の中に「高麗広」の謎
さらに先に行くと、「高麗広(こうらいびろ)」と呼ばれる眺望のいい地域に出る。民家も散見される。神宮で働いている人々が居住しているとされる。高麗とは朝鮮半島北部にあった高句麗のことだ。往古、渡来した高麗の人々は神宮の山で炭を焼いたり樹木を管理していたと思われるが、この山の中に朝鮮半島でかつて栄えた国名が登場するというのも謎である。
高麗広はさらに五十鈴川沿いに広がっていて、地域の山林は5500ヘクタール。うち1700ヘクタールが原生林というから半端な広さではない。伊勢神宮では衣食住はすべて神宮内の自給自足である。野菜や魚なども専用の施設で朝と夕、準備する。神が食事をする茶碗や皿は土師器で作られ、一度使うと壊され土に返される。20年に一度の遷宮は、125社のほぼすべてで行なわれる。
前川明久氏は「伊勢神宮と新羅の祭祀制」について、「歴代の皇女、ただしこれは新羅と同じで西暦紀元6年に新羅の最初の王である赫居世(かくきょせい)の祖神廟ができた時、王女の阿老(あろう)がその役を務めている」という。
新羅の影響受けた天武天皇
そして伊勢神宮の祭祀制度が最終的に確立したのは、天武朝の時代である。壬申の乱で兄の天智の百済重視派は敗れ、新羅重視派の時代に入った。朝鮮半島は新羅の時代になっていたが、「天武天皇は新羅人ではないかとうわさされるほど新羅から影響を受けた」といわれる。
古代に朝鮮半島から来た人を「今来る」と書き「今来」となった。もっと前に来た人は「古来」「古木」「故木」である。半島南部に伽耶(加羅)国の連合体の一つに安羅(阿羅、安耶)という小国があり、新羅から来た人(新羅来)に「白木」「白城」などの字を当てたが、荒木姓は安羅から来た「安羅来」「荒木」「荒木田」になったとされる。
この日はさらに40キロ、宮川上流にある瀧原宮を尋ねた。伊勢市駅からJR紀勢本線で滝原駅下車。無人駅である。ここは天照大神が伊勢神宮に入る前に滞在したところといわれる。駅から本殿まで続く杉の古木の並木は壮観で、参道のすぐわきを流れる清冽な小川が印象的だった。