✺神々の源流を歩く✺ 

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第59回 陶磁器の祖、李参平を祭神とする陶山神社 

 陶山神社は「すえやま」と読むが、「とうざん」とも呼ばれる。JR佐世保線で有田町の上有田駅から歩いて10分ほどのところにある九州陶磁文化館で、予備知識を仕入れて、さっき降りた上有田駅の近くに戻ると、陶山神社の鳥居が目の前にあった。

「スリル満点の神社」

 遮断機のない踏切を左右を注意して、線路を渡りその先にある鳥居をくぐろうとしたら、突然、後ろで警報機が鳴り出し、振り返ったら電車が通過していった。佐世保線を通す際に神社が線路に譲って、ぎりぎりのところを走るようになったらしい。民放テレビの「珍百景」という番組で「スリル満点の神社」として全国に紹介されたことがある。

 1658(万治元)年に、現在の伊万里市の「神原八幡宮」から主祭神の応神天皇の霊を移し「有田皿山宗廟八幡宮」として建立、明治4年に地域の総称である「陶山」にちなんで、「陶山神社」になった。今の祭神は応神天皇、藩祖の鍋島直茂と「陶祖」李参平(金ケ江三兵衛)3柱である。「それ以前の祭神がいたはずなんですが、資料がなくなく分からなくなっています」とのことだった。

神社の鳥居や狛犬、本殿の欄干などすべて磁器製

 李参平までの日本の焼き物は素焼きで、表面は土の表面が現れている植木鉢のようだった。釉薬を塗り高温で焼く李参平の有田焼は、日本の焼き物を一気に中国や韓国のレベルに近づけたので「陶祖」と呼ばれる。

 神社の鳥居をはじめ、こじんまりした境内にある狛犬や本殿の欄干など、すべて磁器製で見事だ。李参平の後輩たちが腕を振るった。神社の奥の高台に「陶祖李参平碑」が立つ。ここから見渡す有田市は、緑の山に囲まれ、窯業のレンガの煙突や工場群が広がり、さすがに焼き物の町という風景だ。

朝鮮出兵時に各藩が競って李参平ら陶工連れ帰る

 豊臣秀吉の2回にわたる朝鮮出兵に参加した各藩は、競って陶工を連れてきた。李参平はその時、連れてこられた1人だ。李は市内の有田泉山に白磁鉱を発見して、自らは近くの上白川天狗谷に窯を作った。日本の名だたる焼き物である九谷焼も萩焼も有田焼から始まるとされる。

 泉山の見渡す限り白一色の採掘現場に立つと、三百年の間に採掘された白磁鉱の量が、いかに膨大なものだったかに驚かされる。日本のやきものはここからスタートしたのである。

朝鮮出身陶工が大きな役割

 「佐賀県の歴史と散歩」によると、考古学的な調査では、有田焼は1610年前半から有田の西部で、磁器試作・作陶が始められ、生産とその発展に李参平をはじめ、朝鮮出身陶工が大きな役割を果たしたーとある。天狗谷窯で産業としての創業が始まった1616年を起点に、2016年には「日本磁器誕生・有田焼創業400周年」が開かれた。

 有田焼の誕生前夜の16世紀、天正年間(1573年~92年)頃の日本では、武将たちの間に茶の湯がはやった。この時代の茶道具は、「土もの」と言われる陶器で、磁器は中国や朝鮮から輸入に頼った。このため諸大名は朝鮮半島を撤退するとき、競って多くの陶工たちを連れて帰った。このことから秀吉の朝鮮出兵は、「焼き物戦争」とも呼ばれる。

李参平は「日本に協力的」に韓国抗議し修正

 有田焼が生まれた佐賀藩の藩主鍋島直茂も陶工を連れてきた。佐賀県史料集成によると、長男、勝茂は「京都からきた連中に、焼き方を教えてやすやすと焼かせてはならない」と家老に指示した。薩摩、萩焼、織部、九谷焼などはこの時の陶工たちによって作られていく。

 2005年7月、韓国政府から李参平の碑文にある「1592年豊臣秀吉の文禄の役当時、李参平は日本に協力的だった」という部分に、抗議があった。今は「李参平は1592年、豊臣秀吉が朝鮮に出兵した時、鍋島軍に捕らえられ、道案内などの協力を命令されたと推定される」と修正されている。

                                        (了)