✺神々の源流を歩く✺ 第6回「対馬の神社」

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記紀に出てくる神社と同名多く 対馬から奈良に移された神々

 日韓の古代史に関心を持つ小グループで、対馬を訪ねた。対馬にはなぜ古事記や日本書紀に出てくる神社と同じ名前の神社が多いのか、不思議で何か手がかりがつかみたかった。韓国の歴史書、三国史記には紀元4年に新羅の初代、朴赫居世王が亡くなって、許曽(こそ)を作って祭ったとある。許曽とは神社のこととされるから韓国にも古くは神社があったことになる。

対馬を経て朝鮮半島に渡った遣隋使

 対馬は南北に細長く、朝鮮半島に近い方が上県(かみあがた)で、福岡に近い方が下県(しもあがた)と呼ばれるのも不思議だ。聖徳太子時代、遣隋使は対馬を経て朝鮮半島に渡り、港伝いに北上して、遼東半島から山東半島に渡り、そこで船を置いて陸路、長安に向かったという。

  厳原で遅い昼飯に入った食堂には、我々と一緒にカーフェリーから降りたばかりの韓国の若者たちが大勢いた。若い女性の店員は「景気はよくないですが、韓国のお客さんで持っているところがあります」と笑った。

 まず対馬市役所の文化財保護委員会を訪ね、担当者から話を聞き次の日程に進んだ。バスは1時間以上待たないと来ないという。何か所かぜひ見たいところがあったので、タクシーを呼んでもらい分乗して島内を回ることにした。

大嘗祭に作られる悠紀殿と主基殿との関係うかがわせる

 対馬市が編纂した冊子を見ても、対馬には古事記や日本書紀に登場する神々が多い。高御魂神社(たかみむすびじんじゃ)、神御魂神社(かみむすびじんじゃ)がある。驚いたのは記紀神話に登場する海幸、山幸を祭る神社、山幸の奥さんの豊玉姫と同名の豊玉町もある。島の南端と北端にあるユキ宮とスキ宮については、大嘗祭に作られる悠紀(ゆき)殿と主基(すき)殿との関係をうかがわせる、と指摘する歴史学者もいる。

 大昔から港だった島の中ほどの美津島小船越西漕手に、阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)がある。タクシーに待ってもらって、いわくありそうな粗削りの石段を百段ばかり上ると、やや広い平地に阿麻氐留神社がある。神社というより民家風の感じで、ガラス戸が閉まっている。いわれを書いたしおりが欲しいので周囲を探して回ったが、人が住んでいる様子はなかった。

 奈良、京都にも同名の神社があり、伊勢神宮のアマテラスとの関連も知りたかったが、ともに太陽神である以上のことは手掛かりはつかめなかった。太陽神と言えば、朝鮮とは、朝日は新鮮で四方を網羅することだという。釜山の迎日湾は朝鮮半島で一番日の出が早い。対馬は大昔から亀の甲羅を使った占いの一種の「亀卜(きぼく)」が盛んだった。

広がる新たな謎

 日本書紀によると、「5世紀に(対馬の)これらの神々は磐余(奈良)に遷座した」とある。そのためか分からないが、対馬の神社は古いがどこかさっぱりしている感じがする。恐らく亀卜師も一緒に移ったのだろう。ではなぜ朝廷は神々を奈良に移したのか、奈良と対馬の神社はどちらが先にあったか、朝鮮半島との交流などを考えると、新たな謎が広がった。