✺神々の源流を歩く✺

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第51回 対馬の神と記紀の神(中)

素戔嗚尊の歌とされる日本最初の和歌

 素戔嗚尊についても、対馬神話と記紀神話では異なった人物像になっている。記紀神話では八岐大蛇を退治したりする英雄譚もあるが、粗暴で荒々しく手足の爪をはがされて、天界を追われる話になっている。八岐大蛇退治の話については、鉄の採取で赤く濁った出雲の川を治めた話が転訛したのではないかという見方もある。また日本で最初に作られたといわれる和歌である「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」は、素戔嗚尊の歌だとされる。

 これに対して、出雲風土記の素戔嗚尊は物静かな開発の神である。対馬でも素戔嗚とその子の五十猛がしきりに登場して、朝鮮半島に渡った港やその足取りなどが、驚くほど鮮明に残っている。朝鮮半島では木々の種は新羅には撒かないで、九州に来てから、四国や和歌山の山々を青々とさせたという伝承もある。樹木に関係する話が多いことは、製鉄や須恵器作りとの関係を思い起こさせる。製鉄や須恵器作りには、樹木を大量に消費するので、そのことと関係があるのではないか。

津島神社の祭神では素戔嗚尊は疫病の神

 韓国内を車で移動していていつも不思議に思うことは、韓国の山は日本のように木々が黒々と茂っているといことはない。森が明るくて木々が若々しい感じがすることだった。半島は往古から製銅や製鉄、焼き物が盛んで、オンドルにも薪を使っている。長い間に多くの山の樹木は切りつくしていたのではないか。そこのこととの関係でいうと、対馬の素戔嗚尊や五十猛の伝承地はどこも入山を禁じ、境内の一角には伐採ダブー地があり、いまも立ち入りや木の伐採を厳しく禁止し、樹木を大事に保存している。

 ただ素戔嗚尊は樹木の神だけではなく、例えば愛知県津島市の津島神社の祭神は素戔嗚尊だが、ここでは疫病の神になっている。同社の由緒書には、欽明天皇元年(540年)に「西国対馬より大神が来た」とあり、ここでは疫病神である牛頭天皇と習合して祭神になっている。同名の神社は東海地方に3000社近くもあるという。牛頭天王といえば京都八坂神社の祭神も素戔嗚尊だ。

氷川神社の神紋は出雲大社と同じ亀甲紋

 関東地方では、さいたま市の氷川神社も祭神は素戔嗚尊である。かつては武蔵国一之宮と呼ばれた。武蔵国とは東京、川崎、神奈川県までを含めた広大な神域だったことになるが、この地域に氷川神社は約130社ある。同社の東角井宮司によると「往古、関東地方は出雲から人々が来て開発したと思われます。神社の近くに古墳が沢山あり須恵器なども発掘されていますよ」と言った。神紋は出雲大社と同じ亀甲紋だ。

 さらに面白いのは埼玉県の東を流れる利根川を渡ると、鹿島、香取神宮が増える。記紀神話では、祭神の武甕槌大神は大国主命に国譲りを迫った神とされる。大国主命は素戔嗚尊が子か5世孫とされるが、出雲神話の神々と記紀神話の神々が関東のこの地でもせめぎ合っていたことになる。

戔嗚尊は製鉄関係の集団の人物か

 また記紀神話では素戔嗚尊は天照大神の弟で荒々しい神になっているが、多くの地域では疫病の神として人々から手厚く信仰されるなど、性格の大きな違いが出ているところは不思議だが、記紀の編纂者たちは、大和朝廷が出雲地方に勢力を伸ばしていく過程で、天照像を作り上げるために、本来は英雄神であったがマイナスイメージを付け加えたのではないかという見方がある。

 私もそうではないかと思うが、想像をさらに膨らませると、戔嗚尊は、製鉄関係の集団の人物で、朝鮮半島の鉄や樹木はとりつくしてしまったので、対馬に進出しさらに時代が下ると出雲へ進出し、各地に広がっていったことを反映しているのではないかとも思われた。

                                      (了)