スタートだからブログ名に合わせて番犬風の話をしてみよう。国会論議についてだ。 とは言っても私は、TVの国会中継をあまり見ない。NHKが律義にやってくれるが、ほとんど見ない。その時間に家にいても別のことをしている。そういう人は多かろう。
不条理劇?
私は特に今の総理大臣の答弁を聞くのがイヤなのだ(そういう人も多かろう)。丁寧語使い風にしかし早口で、時に聞かれたことにきちんと答えない、同じ答えを繰り返す(1~2月の8日間の衆院予算委員会でその数112回、と勘定した新聞もあった)。あるいはどうでもいいことを延々と喋る。聞いていて気分が悪くなる。グロな感じである。
窮すると質問の中身を意図的にズラしてまともに答えようとしなかったのは、何代か前の長期政権小泉純一郎サンもそうだった。だけどこの人にはユーモアのセンスがあり、例えば島倉千代子のヒット曲の歌詞を使ってゴマ化したりした。在任期間が歴代最長になったらしい今の人は、感情をモロに出してセンスがあるとは言い難いヤジを、総理大臣席から足を組んだ姿勢で飛ばすのがせいぜいのようである。
そういう政権の中心者を交えての問答がズレっぱなしになる委員会論議を、不条理劇みたいだと言った人がいる。山口二郎氏である。何年か前に北海道大学から法政大学に移った政治学の先生だ。「民主主義は終わるのか」という、この人らしいストレートな書名の岩波新書でそう書いている。国会論議はこの政治学者に、まるで「不条理劇のさなかに放り込まれたように感じ」させているらしい。
日本語が壊れる
そう言えば「ご飯論法」というのがあった。政府のゴマ化し答弁の特徴を、山口さんと同じ法政大教授の上西充子氏が分析してツイートしたら、「ご飯論法」と名が付いてたちまち拡散し18年の年末に新語・流行語大賞のベスト10の一つに選ばれた。例えば「朝、ご飯を食べたか」という質問に、朝はパン食で済ませていても「(ご飯は)食べていない」とはぐらかすやり方だ。「ご飯」の意味範囲を勝手に狭くして言葉の機能を壊し対話を成立させなくする。山口さんが不条理劇と呼んだのは、こういう答弁がまともな日本語を解体し崩壊させかねないという危機感を持ったからでもあるか。(政権は現在、「桜を見る会」で明らかに末期的な症状を呈するに至っている。この原稿が出るころにはもっと別の展開になっているか)
不条理(劇)とは日本では1950、60年代に若かった世代にはおなじみの概念だろう。日本で広めたのは周知のように、アルベール・カミュの「異邦人」だから(近所の書店で見たら新潮文庫で54年初版133刷!)今ではもっと日常感覚化しているのかもしれない(カミュ自身は、これも周知だろうが、ノーベル文学賞を受けた3年後に46歳で自動車事故死している)。
「不条理」などと漢字が三つも続くと、なじみになっても何かしかつめらしいけど、もともとはたぶん原産地であるフランス語では形容詞形ならabsurde、英語だとabsurdで辞書を引くと*か**付きの、恐らく日常語である。どっちの辞書にも「ばかばかしい」「愚にもつかない」などの訳語が並んでいる。もちろん「不条理な」も載っているが、「ばかばかしい」という日常語の方が、少し不正確でも意味の範囲は広くて豊かだ。「不条理劇」は「ばかばかしいお芝居」とでも言い換えた方が、気分としては分かりやすい。
グロ
道具である言葉を磨き、口頭による言語表現で議論し合うべき国会で、その道具を磨くどころかまとも に扱わずにきちんとした議論を成立させず、委員会を「ばかばかしいお芝居」の場にしてしまうのは、もちろん政権の側である。そういう芝居を真っ昼間から、いい年をした大臣たちがネクタイなどを締めもっともらしい顔をして演じているのだから、その光景たるやほとんどグロテスクと言いたくなる。グロテスク? 手元の辞書には「長く見ているのがイヤな」「見ていて気持ちが悪くなるような」「グロ」とあった。