東京電力福島第一原子力発電所処理水の海洋放出計画は国際的な安全基準に合致する。7月4日、国際原子力機関(IAEA)がこうした包括報告書をまとめ、グロッシIAEA事務局長が岸田文雄首相に手渡した。グロッシ事務局長はその後、日本記者クラブに移動し記者会見を行ったが、予定時刻のだいぶ前から会見場は記者と映像撮影者でほぼ満員。海外メディアと思われる記者の姿も多かった。内外の報道機関がこの問題で日本政府の主張よりIAEAの見方を重視していることを示しているように筆者には見えた。
実際、IAEA包括報告書が公表されて以降、処理水の海洋放出計画をめぐる日本政府の対応だけでなく、海外諸国・機関の動きも活発化したように見える。米国務省は7月5日、IAEAの報告書を「歓迎する」声明を発表した、と報道されている。処理水海洋放出計画についての日本の対応についても「科学的根拠に基づく透明性の高いプロセスを実施してきた」と評価しているという。13日には、欧州連合(EU)が日本産食品に対する輸入規制を撤廃すると発表した。これまで日本から輸出される一部の食品・飼料について、放射性物質の最大許容値以下であることなどを示す日本政府機関発行の証明書を求めていた措置をやめる。外務省がすぐに「歓迎する」という林芳正外相談話を公表した。
一方、こうした反響とは正反対の動きもある。中でも目立つのが中国政府の反応だ。グロッシ事務局長が岸田首相に包括報告書を手渡したその日のうちに、海洋放出計画は直ちに中止すべきだとする在日中国大使館報道官の声明を在日大使館ホームページに掲載している。6日には本国の外務省報道官が「利己的で傲慢な行為」と定例記者会見で批判した。12日には香港政府の環境生態局長が「海洋放出が実施されたら東京など東日本10都県からの水産物の輸入を即時禁止する」と表明している。13日にジャカルタで開かれたASEAN+3(日中韓)外相会議でも中国共産党外交部門トップの王毅政治局員がこの問題を取り上げた。外務省はこの「科学的根拠に基づかない主張」を受けて林外相が「処理水の海洋放出は今回示されたIAEA報告書の結論を踏まえ、国際基準および国際慣行に則り実施するとの日本の立場を明確に説明した」と、ホームページで明らかにしている。
事故処理水唯一の反対理由か
海洋放出が計画されている処理水は、事故で溶け落ちた原発炉心燃料に触れているためさまざまな放射性物質(核種)を含む。多核種除去設備(ALPS)と呼ばれる装置で放射性核種の多くを取り除いてはいるものの、除去できないトリチウムはそのまま残り、コバルト60、セシウム137、ストロンチウム90、ヨウ素129なども除去しきれなかったわずかの量が含まれている。
中国が海洋放出に激しく反対する理由は、事故によって生じた処理水だからということに尽きるようだ。前述の在日中国大使館報道官の声明中に以下のような記述がある。「福島核事故によって発生した核汚染水と原発の正常な運行による排出水とは本質的に違うのは基本の科学的常識である。両者には発生源も、放射性核種の種類も異なり、比べ物にはならない。原発事故での融解炉心と直接接触した福島汚染水には猛毒とされているプルトニウム、アメリシウムなど超ウラン核種が含まれ、それらを海洋放出する前例はない」
この中にある「原発の正常な運行による排出水」とは何か。一般の人にはよく知られていないかもしれないが、原発を含む稼働中の原子力施設からは、恒常的に放射性核種を含む排液や排気が海洋や大気中に放出されている。無論、こうした放射性核種を含む排液や排気の放出が野放図に実施されているわけではなく、放射性核種ごとに放出される濃度の上限が定められている。「告示濃度限度」と呼ばれているこの数値は、放出される放射性核種によって人体に与える影響(公衆被ばく線量)が年間1ミリシーベルト未満に収まるような値に設定されている。その放射性核種を含む水を生まれてから70歳になるまで飲み続けていても、被ばく線量は年間1ミリシーベルト未満にしかならないとみなされる数値だ。福島第一原発の場合、核種ごとの「告示濃度限度」を足し合わせた数値である放出管理値が年間22兆ベクレルと定められており、これ以下の排水、排気が2011年の事故が起きるまで実施されてきた。
放射性核種は恒常的に排出
では、実際に世界各国の原子力施設からどのくらいの量の放射性核種を含む排液や排気が「正常な運行による排出」として海洋や大気中に放出されているのか。日本原子力文化財団によると、事故を起こす直前の2010年に福島第一原発からは2.2兆ベクレルの放射性核種を含む排液が海洋に、また1.5兆ベクレルの排気が大気中に放出されていた。日本国内の同じ沸騰水型原発からは2008~2010年の年平均値で海洋に年間316億~1.9兆ベクレル、大気中に770億~1.9兆ベクレルが放出されている。福島第一原発の放出量と大きな違いはない。加圧水型原発はもっと大量の放射性核種を放出している。同じ2008~2010年の年平均値で海洋に18~83兆ベクレル、大気中に4400億~13兆ベクレルという量だ。
海洋放出に激しく反発している中国の現状はどうか。2021年に寧徳原発で排液102兆ベクレル、排気1.6兆ベクレル、紅沿河原発で排液90兆ベクレル、排気2.3兆ベクレル、陽江原発で排液112兆ベクレル、排気1.8兆ベクレルが海洋と大気中に放出されている。日本の海洋放出計画に理解を示しつつある韓国も同じ2021年に月城原発から排液71兆ベクレル、排気92兆ベクレルが放出されている。さらに同じ年、台湾の馬鞍山原発からの放出量も排液35兆ベクレル、排気11兆ベクレルとなっている。
欧州、北米の状況も数値はさまざまだが、放射性核種を含む排液、排気が恒常的に海洋と大気中に放出されている現実は変わらない。フランスのラ・アーグ再処理施設からは2021年に1京(1兆の1万倍)ベクレルの液体と54兆ベクレルの気体が、それぞれ海洋と大気中に放出されている。原発に比べはるかに量は多い。
以上の数値について日本原子力文化財団の資料は「トリチウムの年間排出量」としているので、その他の放射性核種はあっても無視できるくらいの量ということのようだ。「海洋放出が計画されている処理水と原発の正常な運行による排出水とは本質的に違う」という中国政府の主張はこうした違いを根拠にしているということだろう。
放出管理値以下に希釈
計画されている福島第一原発からの処理水によって海洋中に放出される放射性核種の量はどの程度か。経済産業省と東京電力はALPSで処理済みの水を海水で100倍以上に薄め、トリチウム濃度は安全基準の40分の1、トリチウム以外のわずかに残っている他の核種についても基準の100分の1に希釈し、放出時には事故前の福島第一原発の放出管理値(年間22兆ベクレル)を下回る水準にするとしている。
要するに福島原発で計画されている処理水の放射性核種量は、実際に世界各地の多くの原子施設から恒常的に放出されている排液に比べ、少ない。世界の原発は減速材と冷却材に普通の水を使う軽水炉型原発が大半だが、減速材と冷却材に重水を使う重水炉型原発も少数だがある。重水炉型原発の一つである中国の泰山第三原発の場合、2020年に143兆ベクレルの排液、108兆ベクレルの排気を海洋と大気中に放出している。2021年に71兆ベクレルの排液、92兆ベクレルの排気を放出している韓国の月城原発も同じ重水炉型だ。重水炉型原発は核分裂反応時の中性子放射化によって大量のトリチウムが生成されるという特徴を持つ。従って海洋、大気中に放出されるトリチウムの量も軽水炉型原発に比べ多い。
「重水炉からの海水への常時トリチウム放出量は福島第一原発どころではないという事実を、重水炉を持つ中国や韓国は自国の漁業者にどう説明しているのだろうか」。原発の現場だけでなく国内外の原子力利用実態にも詳しい旧知の原子力専門家は、このように話している。日本政府は国内の放出反対者や反対国の理解を得る努力の一つとして、世界中の原子力施設から恒常的にどのくらいの放射性物質が海洋や大気中に放出されているかもきちんと説明すべきではないだろうか。
難題目白押しの原子力利用
岸田政権は、原発重視を明確にしている。その通りになれば使用済み核燃料の量や放射性廃棄物の量も増え続けることになる。完成時期がすでに何度も延期されている青森県六ケ所村で建設中の再処理工場が運転開始となった場合、取り出されるプルトニウムの使い道はあるのか。同時に出てくる高レベル放射性廃棄物の地下処分場は間違いなく国内に建設できるのか。それ以前に福島第一原発の廃炉作業で大量に発生すると予想される固体の低レベル廃棄物はどこにどのように処分するのか。ちょっと考えただけでも原子力をめぐる難題は数多い。
ちなみに六ケ所再処理工場が運転開始となった場合、海洋と大気中に放出が予想される排液、排気中のトリチウム量はラ・アーグ再処理施設以上で、福島第一原発の海洋処理水に含まれる量とはけた違いに大きいと推定されている。「福島汚染水には猛毒とされているプルトニウム、アメリシウムなど超ウラン核種が含まれ、それらを海洋放出する前例はない」。在日中国大使館報道官がこのように批判するプルトニウム、アメリシウムを含め、トリチウム以外の放射性核種も多数、トリチウムに比べると非常に少ないものの六ケ所再処理工場から恒常的に海洋に放出されるとする具体的な推定値を、六ケ所再処理工場を所有する日本原燃は明らかにしている。
IAEAは、原子力の平和的利用を促進し、軍事的利用に転用されることを防止することを目的とする国際機関で176カ国が加盟する。中国、韓国も加盟国だ。その機関が安全は確保できると認めた処理水の海洋放出に手間取っているようでは、原子力利用に関わるその他のより重要な課題に対する取り組みがさらに遅れるのは確実だろう。一切合切が将来世代に押し付けられる。そんな事態にならないことを望みたい。
関連資料
駐日中国大使館報道官、日本福島放射能汚染水海洋放出問題について立場を表明 – 中華人民共和国駐日本国大使館 (china-embassy.gov.cn)
環境省_放射性物質を環境へ放出する場合の規制基準 (env.go.jp)
日本原子力文化財団【4-3-01】世界の原子力発電所等からのトリチウム年間排出量 | エネ百科|きみと未来と。 (ene100.jp)