<袴田さん再審無罪から考える>もし死刑が執行されていたら取り返しがつかないことに 再審法改正は喫緊の課題 死刑廃止論議の活発化を 裁判員裁判の死刑判断も多数決でいいのか見直すべき  袴田さんを〃犯人視〃した検事総長談話にも問題 

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  1966年に静岡県のみそ製造会社の専務一家4人を殺害したとして、強盗殺人罪などで死刑が確定していた袴田巌さん(88)を再審無罪とした静岡地裁の判決が10月9日、検察側の控訴断念(上訴権放棄)により確定した。再審により確定死刑囚が死刑台から生還したのは袴田さんで戦後5件目である。92年に福岡県で女児2人が殺害された「飯塚事件」など、えん罪の可能性があるにもかかわらず、すでに死刑が執行されてしまった事件もある。

 再審請求があった際に、裁判所がいつまでに何をしなければならないかについての法律の規定がない〃裁判官次第〃ともいえる、大正時代から続く再審法(刑訴法)の改正は喫緊の課題である。これは「再審格差」とも指摘されているが、その中でも①捜査機関に証拠を開示させる仕組みが整っていない②検察官が再審開始決定に対して不服申立ができるーことは特に大きな問題で、10月11日に渕上玲子日弁連会長が「死刑制度の廃止と再審法の速やかな改正に従前にもまして力強く取り組む」と宣言したことは当然である。日弁連の働きかけで今年5月、再審法改正を求める議員連盟が発足、衆参全議員の約半数が入会したことは心強い。しかし、この問題に消極的な法務・検察当局の壁はまだまだ厚い。

熊本元裁判官の苦悩

 その一方で、袴田事件の再審無罪の確定をきっかけに死刑廃止の論議を国会やメディアで活発化させるべきだ。検察側は再審開始決定後の公判でも死刑求刑を維持しており、もし、袴田さんに死刑が執行されていたら、取り返しがつかないことになっていた。また、2009年5月からスタートした市民が殺人など重要な刑事裁判に参加する裁判員制度も15年が経過した。最高裁によると、24年5月までに裁判員裁判による死刑判決は46人に上っている。裁判官3人、選挙名簿で選ばれた18歳以上の市民の裁判員6人の計9人が有罪か無罪かのほか、死刑にするかどうかを判断する方式は、裁判員に過剰な精神的負担を与えていないか。制度作りの当初から法律家の間で問題になっていた論点でもある。

 プロの裁判官でも「誤判」があり、今回の袴田事件第1審の陪席裁判官だった熊本典道氏(20年に83歳で死去)が袴田さんに無罪の心証を抱きながら合議で当時の裁判長らを説得できず、立場上、死刑判決を書いたことを苦にしてまもなく裁判官を辞職し、07年、元担当裁判官として袴田さんの無罪を訴えたことはテレビや新聞で報道され、「BOX袴田事件 命とは」の題名で映画化されたのでまだ記憶にある方も多いと思う。このような苦悩を裁判員に与えることはどうなのか、特に死刑を多数決で決めていいのか、「死刑廃止」を考える上でも早急に再検討すべきではないか。

死刑廃止は世界の大きな流れ

 「国民の8割がやむを得ないとしている」(19年、内閣府調査)という世論調査結果を政府は「死刑存置」の主な理由としている。欧州連合(EU)が「死刑廃止国」であることを加盟の条件にしているほか、国際人権団体のアムネスティによると、23年12月現在、世界の144カ国で死刑が廃止・事実上廃止されている。経済協力開発機構(OECD)加盟38カ国で死刑制度があるのは、日本、米国(50州中23州で廃止、3州で死刑執行停止、連邦レベルでも停止)、韓国(1997年以降、死刑執行がなく、事実上の死刑廃止国とされる)だけだ。2022年の国連総会では、日本を含む死刑存置国に対して「死刑廃止を視野に執行の停止を求める決議案」が採択されている。すでに以前から「死刑廃止」は世界の大きな流れである。このままでは、死刑存置国55カ国のうち、死刑が最後まで残るのは、「日本と中国、北朝鮮ぐらい」ではないかとさえ言われている。

 各国が死刑廃止に踏み切った主な理由には「誤判の問題」が大きい。従来の「疑わしきは確定力(確定判決)の利益に」から「疑わしきは被告人の利益に」とこれまでの考え方を大きく変更した75年5月の最高裁の「白鳥決定」により、「再審の扉」が広がった。

 その後、1983年の「免田事件」(48年、熊本県で起きた一家4人殺傷事件)、84年の「財田川事件」(50年、香川県で起きた金融ブローカー強盗殺人事件)、同年の「松山事件」(55年、宮城県で起きた一家4人に対する強盗殺人・放火事件)、89年の「島田事件」(54年、袴田事件と同じ静岡県で起きた6歳女児の誘拐殺人事件)と80年代に再審裁判で死刑確定囚が「無罪」となるケースが4件続いた。しかし、それ以降、なぜか、袴田事件だけでなく、「名張の毒ぶどう酒」事件(61年発生の5人死亡事件で死刑が確定した奥西勝元さんは死刑を執行されることなく病死)など死刑確定囚の再審請求について、約35年間も「再審無罪」が確定することはなかった。毒ぶどう酒事件については、2005年の第7次再審請求で名古屋高裁は、奥西さんの主張を認め、再審開始と死刑執行停止を決定。しかし、その後、この決定は名古屋高裁や最高裁で取り消されている。

真っ正面から「死刑廃止」論議を促す社説ななし

 控訴期限より2日早い10月8日、検察側は9月26日の静岡地裁の「再審無罪」判決について、畝本直美検事総長が「控訴断念」を発表した。翌日以降の在京各紙の社説を読み比べてみたが、「死刑」の問題に少しでも触れたのは残念ながら朝日新聞だけだった。何とも情けないメディア状況である。朝日新聞の社説も「もし、刑が執行されていたら、無罪判決を受け止める袴田さんの姿はなかった。死刑制度には、国家が個人の生命を奪うことへの根源的な疑問をはじめとするさまざまな問題がある。誤った判決があるという一点だけでも、立ち止まって廃止を考える時期にきている」(10月9日付朝刊)と書いている。朝日新聞の社説には、残念ながら、見出しに「死刑廃止論議」の言葉はなく、真っ正面から論議を促す論調ではなかった。

死刑の「一時執行停止」も検討を

 朝日新聞は9日付夕刊「素粒子」で「例えば『世論は死刑支持だ』という。だが裁判も間違えると伝えたうえで聞けばどうなるか。誤判の恐れ、消えることなし」と鋭い指摘はしている。また、文筆家の諸岡カリーマ氏が10月12日付朝刊の東京新聞の「本音のコラム」で、「死刑制度再考」と題して「もし死刑廃止は政治的に敷居が高いというなら『袴田さん冤罪事件を受け、死刑執行全面凍結』」という暫定措置を第一歩に、先進国らしく廃止を目指す大きなチャンスではないだろうか」と書いていることは傾聴に値する。私は日本が「選択的夫婦別姓」ですらなかなか実現できない「人権後進国」だと考えているが、韓国のように「一時死刑執行停止」というやり方も「死刑廃止」への道筋としては「あり」だろう。法務省によると、2024年9月時点で死刑確定囚は107人。政府(法務省)は今回の袴田無罪確定を受けてとりあえず「死刑一時停止」の措置の検討を始めたらどうか。

   日本では、「死刑廃止」論議は決してタブーではないはずだ。むしろ、タブーにしてはならない。また、冤罪の可能性があるのに、過去に本当に死刑を執行してしまったケースはないのか。メディアによる徹底した調査報道に期待したい。NHKや民放テレビ局がドキュメンタリー番組で何度か取り上げている福岡で女児2人を殺したとされる「飯塚事件」。逮捕前から無実を主張していた久間三千年さんは06年10月、死刑が確定。「無実」の訴えにもかかわらず、なぜかわずか2年後の08年10月に死刑を執行されている。久間さんの妻が再審請求しているが、現在まで裁判所の決定は再審を認めていない。想像するだけでも恐ろしいことだが、この事件がもし、冤罪だとしたら、すでに日本の司法は取り返しのつかないことをしたことになる。

検事総長談話は検察のおごりではないのか

  冤罪は警察、検察、裁判所が一体となった「国家ぐるみの犯罪」である。それにマスメディアが加わることもある。今回も事件発生当初のマスメディアの〃犯人視報道〃が問題となり、一部メディア(朝日新聞、毎日新聞、共同通信、東京新聞)は謝罪・検証記事を出した。一般的に人間は誰でも間違いうる。だからといって、場合によっては、人の命を奪う刑事裁判での「誤判」は絶対に許されない。その点でも、今回の畝本検事総長の談話は、「何が何でも有罪に突き進む」という今の検察の体質がにじみ出ており、弁護団が批判するまでもなく、誰が読んでもまだ袴田さんを「犯人視」しているように読める。

   9月26日の静岡地裁(国井恒志裁判長)判決は、再審無罪の論拠として①袴田さんが自白した検察官調書②事件発生後約1年2カ月後に工場のみそタンクから見つかった5点の衣類は捜査機関によって血痕を付けるなどの加工がされ、発見場所に隠されたこと③袴田さんの実家から5点の衣類のうち、ズボンの端切れが押収され、5点の衣類が袴田さんのものだという根拠とされたことーがいずれも「捜査機関による三つの証拠捏造だ」と認定した。

 これに対して、畝本検事総長は10月8日の談話の中で①「5点の衣類」の血痕の赤みが失われるとの断定に疑念を抱かざるを得ない②判決理由には時系列や証拠と矛盾する内容が含まれ、捜査機関の捏造と断じたことに強い不満を抱かざるを得ないーなどとし、「判決は理由中に多くの問題を含む到底承服できないものであり、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容」と主張した。その上で、「袴田さんの法的地位が不安定な状況が控訴によって継続するのは相当ではない」と控訴回避の理由を述べている。これに袴田弁護団が強く反発。10日に弁護団が静岡地検に出した声明では「総長談話は、非人道的な取り調べや捏造への反省すらなく、何ら謝罪になっていない。この事件を冤罪と考えておらず許しがたい」と断じた(10月11日付東京新聞朝刊)。弁護団事務局長の小川秀世弁護士は「無罪になった人を犯人視するのは名誉毀損になりかねない」と声明後の記者会見で検事総長談話への怒りをあらわにした、という。

   この弁護団の怒りは当然だ。事件発生から58年。80年12月の最高裁による死刑確定から約44年。14年3月の第2次再審請求での静岡地裁の開始決定(このとき、裁判所は袴田さんを釈放し、死刑執行を停止した)に対して、検察側は再審開始を不服として東京高裁に即時抗告、18年6月、東京高裁は検察主張を認め、再審決定を取り消した。しかし、20年12月、最高裁が高裁に審理を差し戻し、23年3月、東京高裁が再び再審開始決定。同年10月から再審公判が始まり、今回やっと弁護団が勝ち取った「再審無罪」。この検事総長談話全文を読むと、検察は「控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容」と主張。まだ袴田さんを〃犯人視〃していることがよく分かる。わざわざ出した異例の総長談話には「裁判所から証拠捏造と指摘されたので、検察としてはひどくメンツをつぶされた。本当は控訴して争いたいが、世論がうるさいので控訴をあきらめた」という本音が透けて見える。99%の有罪率を誇る検察のおごりのなせるわざだろう。

 袴田さんは当初、無実を強く訴えていたが、その後、長年の拘束により拘禁反応を発症、精神的に追い詰められて、9月26日の再審無罪判決時も出廷して直接、判決を裁判官から聞くこともままならなかった。学者や弁護士から準司法機関にすぎないはずの検察について「検察司法」とも呼ばれる権力の恐ろしさを改めて印象づけた。戦前の刑事裁判の法廷内では、裁判官と検察官が同じ一段高い位置から弁護人を見下した。その立ち位置意識が検察官の頭の中で新憲法下でも続いているようにすら感じる。もう50年も前のことになるが、私が司法記者クラブを担当したとき、戦後の「司法修習制度」ではなく、戦前の「司法官試補」(旧制で、判事または検事となるために、裁判所または検事局に配属されて実務の習得に当たった)の検察幹部が相当残っていた。検察は戦前のエリート意識や目線の高さをいまだに引きずっているのではないか、と厳しい指摘する法律家もいる。

〃ヒラメ検察官〃

 そもそも論でいうと、検察官が検察庁法で「公益の代表者」と定められている意味は、単に検察の責務として、起訴した被告人の有罪を求め、有罪判決を守ることだけではないはずである。裁判の途中で被告人の有罪に疑問を生じるような事案があった場合は、有罪証拠を調べ直すこともあり得るし、検察官が「無罪の論告」をしてもよい。ただ、検察官には、不適正な干渉や危険にさらされずに、独立して職務を遂行できるという立場の「検察官独立の原則」がある一方で「検察官一体の原則」がある。むしろ現実は「一体」の方が圧倒的に強いのが実態だ。

 これを簡単に言うと、検察官は上司となる検察官の指揮監督に服さねばならないということだ。俗な言い方をすれば、いつも上にお伺いをたてるという体質がある。上の受けが良くなければ、出世できない。いったん起訴した事案が無罪となったら、出世に差し支える。99%有罪率が崩れる。検察の威信が低下する。だから、無罪判決は避けたい。いわゆる〃ヒラメ裁判官〃ならぬ、〃ヒラメ検察官〃だ。もちろん、私は司法記者クラブに5年在籍したが、尊敬に値するまっとうな検察官も多いことも付け加えておかねば、公平ではないだろう。

「無辜の不処罰」

 袴田事件のような大事件では当然、控訴するかどうかに当たっては、最終的には検事総長の判断を仰ぐことになる。今回も静岡地検、東京高検、最高検に法務省も加わった検察首脳会議を開いたかもしれない。私が司法記者現役の時は開いていた。もちろん、検察では、静岡地検の現場から意見は上がってくるが、最終的には上層部で決める。だから、控訴するかどうかの決定などについて、検察上層部の責任は現場の検察官よりも重い。8日の畝本検事総長談話は「再審請求手続きが長期間に及んだことにつき、所要の検証を行いたい」と付け加えている。どうもこの談話では、再審手続きの長期化を検証するだけで、検察は、肝心の「三つの捏造捜査」の検証までは行わないもようだ。 

 判決が指摘した捏造があったのか、誰が指示したのか、その責任はーなど問われているのは警察・検察の「捏造捜査」そのものである。このことに疑問を抱く検察官や幹部はいなかったのか。その解明なくしては、「再発防止策」とはならない。その意味でも、検事総長談話は検察が袴田事件を「誤判」だとも思っておらず、反省もないことを示している。かなり後ろ向きな姿勢で残念である。袴田さんの無念を晴らすためにも、第三者による、「三つの捏造」の徹底した調査は必要である。そして、言うまでもないが、調査結果は、必ず国民に公表すべきである。検察は調査してもこれまで公表しないケースがあったのであえて言いたい。

 刑事裁判官在任中に30件の無罪判決を出したという木谷明弁護士の「違法捜査と冤罪」(日本評論社)によると、1953年に起きた「徳島ラジオ商事件」(犯人とされた冨士茂子さんに死後再審により無罪が言い渡された)について、「このとき検察官は『確定有罪判決を守ること』だけに全力を挙げた、と批判したうえで「検察官の責務は、無辜(むこ)の人間が不当に処罰されないようにするため『無辜の不処罰』にも、真摯な努力をすべきである」と指摘している。

 「無辜」とは「何の罪もないこと」だが、木谷氏は裁判官時代も今も、この「無辜の不処罰」にこだわっている。「10人の真犯人を逃しても、1人の無実の人を罰してはいけない」というのは、刑事司法の大原則である。「検察」という狭い社会で、とかく異論が差しはさみにくい環境にあるとみられる検察官こそ、捜査の際に、この「無辜の不処罰」を常に念頭に置いて判断してほしい。私には、本来は警察の捜査をチェックしなければならないはずの法律家としての検察官が警察官の言い分を丸のみにして信じる。日本で最も難しいといわれる司法試験に合格して、任官したという検察官のおごりやプライドが逆に冤罪を生む、という側面もあることをこの総長談話は象徴しているように思えてならない。せめて、2014年3月の静岡地裁の再審開始決定の際に検察が即時抗告をしなければ、10年以上前にこの冤罪事件は決着していたはずである。もちろん、それでも遅すぎるが。「公益の代表者」であるはずの、「検察の正義」はどこへ行くのだろうか。木谷氏は8日に検察側が控訴しないと発表した後、以下のように話している。

  「この事件で裁判所が捜査機関の捏造を指摘するのは3度目。検察側は事実認定をひっくり返すのは難しいと判断したのだろう。事件直後は、捜査機関が証拠を捏造するはずはないという思い込みによって、誤った判決が出てしまった。裁判所は検証する機会をつくり、それぞれの裁判官も謙虚に事実関係を認定する必要がある」(10月8日の「NHK NEWS WEB」)と述べている。今回の一連の袴田再審裁判で、捜査当局の「証拠捏造」が裁判所から3回も指摘されたことは重大で、検察はこの事実を重くかみしめてほしい。

裁判官の責任も大きい

 袴田事件では、長い間、再審を認めなかった裁判所の責任は大きい。それにもまして、死刑を確定させた1968年9月の静岡地裁の死刑判決、76年5月の東京高裁の控訴棄却判決、80年12月の上告棄却の死刑確定判決に大きな問題があったのではないか。

 「完全版 袴田事件を裁いた男 元エリート裁判官・熊本典道の転落」(尾形誠規氏著、朝日新聞出版)の特別付録にある木谷明氏の「優秀な裁判官がなぜ間違えるのか」によると、熊本裁判官は「上級審に行けば絶対に覆してくれる」との確信のもとで、(袴田さんの無罪をにおわせる「付言」を書いたが)控訴審も上告審もそのまま通ってしまった。「本件を審理した裁判官の顔ぶれを調べてみると、有罪判決を見直せなかった裁判官の多くが、極めて高い評価を受けている優秀な方だった」と指摘。確定控訴審を担当した東京高裁の横川敏雄裁判長は、人権重視の裁判をする人権派の旗頭のような存在だったという。私が司法記者クラブで担当した74年の「狭山事件」控訴審判決で、死刑を無期にしたものの石川一雄さん(85)の冤罪の主張を退けた寺尾正二裁判長(2003年に死去)も同じ人権派として知られる。私は寺尾氏の弁護側寄りの訴訟指揮からみて、「当然無罪判決が出る」と予想していたが、結果として裏切られたことを思い出した。木谷氏は「どうして人権派の裁判官でさえ、証拠の捏造を見抜けなかったのか。それは裁判官の捜査機関に対するいわれなき信頼感、つまり、警察がそこまで大がかりな証拠を捏造するとは到底考えられないじゃないかという思い込みだったと思う」と指摘する。狭山事件も現在、再審請求中である。

   ただ、熊本氏だけでなく、14年に裁判長として再審開始決定を出し、袴田さんを釈放、死刑の執行を停止した静岡地裁の村山浩昭裁判長や今回、再審無罪判決を出し「ものすごく時間がかかりました。裁判所としては、申し訳ないと思っております」と、袴田さんに代わって出廷した姉の秀子さん(91)に謝罪した同地裁の国井恒志裁判長ら良心派の裁判官がいたことが、今回の「再審無罪確定」につながったことも忘れてはならない。

 14年余りに及んだ、再審前の裁判の審理や判決の関与したそれぞれの裁判官の責任もいま改めて問われている。