新型コロナでさまざまな論議が交わされている中で、PCR検査がなぜ日本はこんなに少ないのか、がテレビや新聞でも盛んに問題視されている。「37・5度の体温が4日続く」という基準について、「誤解があった」という加藤勝信厚労相の発言も、何とも苦しい釈明だ。準備が不十分で検査能力が不足していたからあれだけしかできなかった、というのが真相ではないか。縦割り行政という言いつくされた指摘に替えて、「全体最適」よりも「部分最適」を重視する日本社会の特徴という観点から、PCR検査問題を考えてみたい。
大きかった政府と現場のずれ
まず、PCR検査がなぜ少なかったか、を当事者たちの発言を中心に探ってみる。2月13日に「新型コロナウイルス感染症対策本部」(本部長:安倍晋三首相)は「新型コロナウイルス感染症に関する緊急対応策」を公表している。その中に次のような記述がある。「国立感染症研究所において、判定を速やかに行う多量検体検査システムの緊急整備を行い、検査可能検体数を大幅に増加させるとともに、地方衛生研究所における次世代シークエンサー及びリアルタイムPCR装置の整備を支援することで、検査体制を拡充し、全国に83ある地方衛生研究所の概ね全てでリアルタイムPCR検査を実施可能とすることを目指す。また、大学や民間検査機関への外部委託も活用するとともに、検査用試薬が不足することのないよう所要の予算を確保する」
同じ日、世界保健機関(WHO)の西太平洋地域事務局長として重症急性呼吸器症候群(SARS)対策などに力をふるった経験を持つ尾身茂地域医療機能推進機構(JCHO)理事長もまた、日本記者クラブでの記者会見で次のように語っている。「これまで日本の対応は、武漢市、湖北省からの渡航者とすでに発症した渡航者との接触者のみを対象に対応していたため、多くの感染者を見落としている可能性が大きい。すでに軽症者を含む感染が、少なくとも散発的に拡大し、いずれ武漢や湖北省と無関係の感染者が国内各地で見つかる可能性が極めて高い。しかし地域の医療現場では、新型肺炎を疑ってもPCR検査法を実施しない状況がある。対象地域を限定せず症例を検知できるよう診断体制を含めサーベイランス機能を整備する必要がある」
尾身氏は、翌2月14日に初会合する「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」(座長・脇田隆字・国立感染症研究所長)の副座長だが、最近の安倍首相記者会見に同席していることでもわかるように、感染症専門家グループの実質的な指導者といえる。要するにこの時点では、PCR検査は必要なだけやるというのが安倍首相をはじめとする全閣僚と尾身氏に共通する考えだったとみてよい。
2月13日というのは、新型コロナウイルスではもう一つ重要な出来事があった日だ。この日、和歌山県湯浅町の済生会有田病院で五十代の男性医師が新型コロナウイルスに感染していたことが分かった。同病院ではその後、同僚医師、入院患者、最初に感染が分かった男性医師の妻など同病院関係だけで11人の感染者が出ている。このうち70代男性の入院患者一人が転院先の病院で亡くなっている。仁坂吉伸和歌山県知事の対応は素早かった。仁坂知事は次のように語っている。「病院職員や入院患者ら474人にPCR検査を実施し、2月25日までに全員の陰性を確認し、同病院は3月4日、20日ぶりに外来診療や入院患者の受け入れを再開した」(4月10日、日本記者クラブ主催の記者会見)
最初から不足していた検査能力
PCR検査を活用してこれだけ迅速な対応が和歌山県でできたのだから、他の地域でできないことはないだろう。そう考える人は少なくないと思う。ところが「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」は意外な対応をする。2月24日に公表した「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針の具体化に向けた見解」の中で、PCR検査については次のように記しているのだ。「国内で感染が進行している現在、感染症を予防する政策の観点からは、全ての人にPCR検査をすることは、このウイルスの対策として有効ではない」。さらに次のような記述もある。「設備や人員の制約のため、全ての人にPCR検査をすることはできない。急激な感染拡大に備え、限られたPCR検査の資源を重症化の恐れのある方の検査のために集中させる必要がある」。検査を受ける基準とされた「37・5度の体温が4日続く」もこの見解に明記されている。
こうした記述が見解に盛り込まれたのは、各都道府県にある保健所と衛生研究所の検査能力がどれほどかをよく知る専門家会議メンバーから、PCR検査数は絞らざるを得ないという強い意見が出されたから、と推定される。2月13日に「新型コロナウイルス感染症対策本部」が公表した「新型コロナウイルス感染症に関する緊急対応策」の中に記してあった「大学や民間検査機関への外部委託も活用する」という対応についてはおそらくほとんど議論されなかったのではないだろうか。
3月28日に「新型コロナウイルス感染症対策本部」が示した「新型コロナウイルス感染症対策の基本的対処方針」には、依然、次のような記述がある。「政府及び特定都道府県は、特に新型コロナウイルス感染症を疑う患者にPCR検査や入院の受け入れを行う医療機関等に対しては、マスク等の個人防護具を優先的に確保する」。この時点でも安倍首相以下、本部員である全閣僚は、PCR検査は医療機関でもどんどんやれるとみていたことがうかがわれる。実態は、各保健所がPCR検査を実施すべきかどうかを判断し、保健所と各地方自治体が持つ衛生研究所だけがPCR検査をほぼ一手に引き受けていたにもかかわらずだ。
欠けていた危機意識
こうした推測を裏付けるような関係者たちの発言がある。「感染経路が不明な感染者が半分出てきた3月後半の時点で、できるだけ多数の人たちを検査する方向に切り変えた方がよかった。しかし、保健所職員の数は抑制されてきており、衛生研究所の人手も十分にない。N95マスクなど検体を採取する際の感染防護資材も不足している。感染症に対してわれわれ医師も国も常に準備しておかなければならないという危機意識を持つべきだった」(横倉義武日本医師会会長:4月17日、日本記者クラブ主催記者会見)。
横倉日本医師会会長の記者会見が行われた前日の4月16日に、その後、あちこちで引用される経済協力開発機構(OECD)の重要な報告書が公表されている。新型コロナウイルスに対するOECD加盟国の対応を比較したこの報告書に衝撃的ともいえるグラフが載っている。加盟国で人口1,000人当たり何人が4月15日までにPCR検査を受けたかを示している。日本の検査数は1、000人当たりわずか1・1人。日本より少ないOECD加盟国はメキシコの0・2人だけしかない。韓国の10.4人に比べると一桁少なく、OECD加盟国平均の15・2人よりもはるかに少ない。イタリア18.2人、ドイツ17・0人、米国9.3人、フランス5・1人、英国4・5人など多くの感染者を出している欧米諸国に比べても差は歴然としている。
OECD諸国のPCR検査実施人数(4月15日まで、人口1,000人当たり)
PCR検査で中心的な役割を負わされた保健所長たちの発言からも、なぜこうした事態が生じたかがうかがえる。「医師などからの検査要請にすべて応える検査能力がなく、ある基準を設けて検査を実施せざるを得なかった。そうしないと不公平が生じてしまう。民間の検査会社がPCR検査をすることを保健所として反対したことはない」(内田勝彦全国保健所長会会長=大分県東部保健所長:4月25日、日本記者クラブ主催記者会見)。「枚方市保健所で、感染症に対応できる保健師は5人だけ。病院の医師などが保健所を通さず民間の検査機関にPCR検査を依頼するのを抑制したことはなく、むしろ病院が直接、民間の検査機関と契約してPCR検査を進めないのを不思議に感じていた」(白井千香全国保健所長会副会長=枚方市保健所長:同記者会見)
2人の発言からうかがえるのは、保健所が医師からの検査要請に対する窓口となり、各都道府県にある衛生研究所とともに能力の範囲内でPCR検査を実施する責任を精いっぱい果たしている。民間の検査機関の活用は自分たちの任務ではない、と考えているらしいということだ。大学の協力も求めなかったらしいことが、同じ記者会見での清古愛弓全国保健所長会副会長(葛飾区保健所長)の発言からもうかがえる。「新型コロナウイルス感染が起きてからは、地元の医師会や病院などと何度も会合を開いている。ただし、感染が始まる前までは、治療薬もワクチンもない今回のような事態にどのように備えるかという協議を医師会や大学などとしたことはない」
感染症専門家に偏った助言機関
複数の府省にかかわるような政策課題に対応するため、さまざまな対策本部ができている。関係閣僚が本部員のケースもあれば、「新型コロナウイルス感染症対策本部」のように全閣僚が本部員となるものもある。「省益あっても国益なし」などともいわれる縦割り行政の弱点を補う妥当な策にも見える。しかし、こうしたやり方で平常時では何とかやり過ごせたものの新型コロナウイルスというこれまで経験したことがないようなケースでは通用しない、ということではないか。「新型コロナウイルス感染症対策本部」の下に設置された「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」のメンバーを見ると、12人中9人が感染症の専門家。残りは小児科医、公共政策が専門の大学教授、弁護士という構成だ。これでは首相以下全閣僚から成る対策本部ではなく厚労省の助言機関だろう。そう考えるのは筆者だけとは思えない。
この一点にも、府省による「部分最適」解をいくら寄せ集めても「全体最適」解が得られるとは限らないという日本の行政の実態が示されていると言えないだろうか。尾身副座長は、記者会見でわれわれの提言に経済の専門家たちの提言も合わせて政治家が判断してほしいという意味のことを話していた。専門家会議を発足するときに、感染症以外の専門家それも学界が最適と認めた専門家を数多く入れておけば済んだ話ではないか。
科学アカデミーの弱さも足かせに
もっともこうしたことが実際にはできないのが、日本の現実でもある。科学的根拠に基づく政策決定ということが強く叫ばれるようになっているが、科学的根拠を得る手段として取られている大半は各府省が抱える審議会。審議会メンバーは各府省が好みの専門家を選び、審議テーマも府省所管の政策に限定される。各府省にとっては最適かもしれないが、日本全体からみると「部分最適」でしかない報告や提言しか出てこないのは当たり前ということになる。
新型コロナ対策ではメルケル・ドイツ首相の発言が日本でも大きく報道された。多くの日本人も納得する内容だったということだろう。メルケル首相にもともと備わっていた学識、知性のなせる業かと思っていたのだが、雑誌「選択」5月号に載っている「独『科学アカデミー』がコロナで大活躍」という記事で、なるほどと納得した。ドイツ国立科学アカデミーが、メルケル首相を補佐する強力な学際頭脳集団として影響力を強めており、首相も大きな信頼を寄せている、という内容だ。「外出制限を維持しながら、商店の営業再開など部分的緩和に踏み切る」。4月15日に首相が発表した新たな措置がドイツ国立科学アカデミーの提言を受けたものだ、と書いてある。ドイツ国立科学アカデミーのホームページをのぞいてみた。
「Coronavirus Pandemic – Sustainable Ways to Overcome the Crisis」と題する文書は、18ページにわたり幅広い観点から政府がとるべき対策が丁寧に書かれている。「意思決定の基盤を最適化する」、「利用可能なデータに基づくリスク評価」、「心理的および社会的影響の緩和」、「多様な視点を含めた評価プロセス」、「教育セクターを徐々に再開」、「公的生活を徐々に通常の状態に戻す」、「経済および金融政策を通じた安定性の確保」、「持続可能性確保のための既存の政策強化」、「市場ベースの経済秩序維持」という項目に分けて、具体的対策がつづられている。
ごく一部だけ紹介すると、まずこれまでの感染者を把握する調査が適切でなかったことを指摘し「感染状態と免疫の代表的かつ地域的な調査を通じて、集団の感染と免疫状態の調査を大幅に改善することが重要」としているのが目を引く。日本のPCR検査に比べると立派なものだと思えるが、これでは駄目とみなしているわけだ。さらに「家族が困難な状況にある子供や家庭内暴力の犠牲者など、現在の制限措置によって特に影響を受けている高リスクグループに援助と支援が必要」、「教育機関はできるだけ早く再開されるべきだ。年少の子供は対面式のケア、ガイダンス、サポートへの依存度が高いため、小学校および中学校を最初に徐々に再開する必要がある」など細かところまで目が行き届いていることがうかがえる。
また、他の重要政策との関係にも目配りしていることを示す記述も目立つ。「気候変動や生物多様性保全など既存の地球規模課題は、新型コロナウイルスの危機によって消えることはない。幅広い科学的証拠と政治的および公衆の合意によってすでに支持されていた措置は、弱められてはならず、むしろさらには強化されなければならない」
前に寄稿させていただいた「科学者コミュニティ軽視の社会構造 十分な役割果たせず」の中で、日本の科学者を代表する機関とされている日本学術会議の影響力が、ドイツ国立科学アカデミーなど外国の主要な科学アカデミーに比べはるかに見劣りすることを指摘した。安倍首相はある時から「専門家の意見をよく聞いて」という発言が目立つ。この専門家というのが「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」なのか、あるいはそれ以外の何人かの研究者も含むのかははっきりしない。しかし、ドイツ国立科学アカデミーがメルケル首相に提出した提言のようなものを期待しているとは到底思えない。
科学者の英知生かす仕組み欠ける日本
日本学術会議は3月6日に「新型コロナウイルス感染症対策に関するみなさまへのお願いと、今後の日本学術会議の対応」という声明を公表している。「大規模感染症の予防と制圧に必要な体制とその整備について検討し、提言を作成し、公表していく」という意思表明だ。ただし、日本学術会議は政府から新型コロナウイルス対策について提言を求められてはいない。おそらく今後も求められることはないのではないか。日本学術会議のような科学者を代表する機関が、政府の要請に応じ多くの科学者の英知を集めた提言を政府にしていく。多くの先進国では社会に定着しているように見えるこうした仕組みが、日本には欠けている。「部分最適」解は得られても「全体最適」解を得るのは難しい。こうした日本社会の特質が、PCR検査の決定的な少なさにも如実に表れている、と言えるのではないだろうか。