<パレスチナ紛争とイスラエル>占領地への入植は「国際法違反」 ネタニヤフ政権の新たな入植地建設計画に米政府が迅速に反応 「二国家共存」が唯一の解決策の立場強調

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 イスラエルのスモトリッチ財務相は2月22日「パレスチナの全土を永遠にイスラエルが確保する計画」の一部として占領地に3000戸の入植者住宅を新たに建設すると発表した。21-22日ブラジル・リオデジャネイロで開かれた20カ国・地域(G20)外相会議を終えてアルゼンチン入りしたブリンケン国務長官はこの連絡を受けて直ちに記者会見し、(トランプ政権を除く)歴代米政権は一貫してイスラエルが軍事占領地に建設してきた入植地は国際法に反するとの立場をとってきたと述べて、この計画に反対を表明。ホワイトハウスも時間を合わせて同じ声明を発表した(トランプ政権だけは占領地東エルサレムを含むエルサレムをイスラエル国家の首都と認めて入植を認め、テルアビブから米大使館を移転させた)。

 米政府のこの迅速な対応は、イスラエル政府の占領地での入植地建設拡張の発表が与えた衝撃の大きさを示している。ガザ戦争でイスラエル政府の無差別砲爆撃の継続とそれを止められない米バイデン政権に対して米国内および国際的な批判が突き付けられている。この発表はその批判をさらに煽ることになるだろう。ガザ戦争が始まって以来、バイデン米大統領は繰り返してパエスチナ紛争解決の唯一の道は「二国家共存」であると呼びかけてきた。イスラエルのネタニヤフ政権はこれを拒否してきたのに加えて占領地の領土化への既成事実作りとされる入植地建設の新たな拡張を打ち出したことは、米政権に対する公然たる挑戦といってもいい。

紛争の核心「占領地での入植地建設」

 占領地への入植地建設問題は「二国家共存」と裏腹の関係にあって、パレスチナ紛争を4分の3世紀の長きにわたって引きずってきた争点であり、パレスチナ問題そのものともいえる。イスラエル政府の指導者が「パレスチナの全土を永遠にイスラエルが確保する」と公言したのは、スモトリッチ氏が初めてではないかと思われる。右派リクード党を率いて十数年の長期にわたって政権を担ってきたネタニヤフ首相だが、現政権はユダヤ教政党などの極右と宗教政党勢力を組み込んだ史上最も右より政権と言われ、主導権はスモトリッチ財務相やベングビール国家治安相らが握っているといわれる。

 スモトリッチ発言がネタニヤフ首相と合意のものかはわからない。だが、北部から、中部へ、そして最後の南部へと戦争の拡大に従ってガザ全土から逃げ込んだ十数万人の避難民がひしめき合うラファ地域へのイスラエル攻撃は、さらなる大惨事を引き起越すことになるだろう。イスラエル政府の攻撃を自重するよう、バイデン政権がようやく「休戦協議」に加わろうとしているときに、新たな難題をことさらに持ち出されたことになる。

 米政府は占領地での入植地建設を取り上げると和平の話は先に進まなくなるとして、「国際法に反する」とする公の批判を避ける一方、イスラエルはその下で着々と入植地建設を継続してきた。モストリッチ発言はイスラエル自らこの仮想現実を明るみに出す道を選んだと受け取れる。それを受けたブリンケン発言も米政府高官として初めて入植地建設が国際法違反であることを公に認めたものとなった。それでもブリンケン発言は通常の法律違反を意味する「violation」を使わず、「一致しない、矛盾する、相反する」という柔らかな表現の「inconsistent」を使っている。イスラエルが嫌がることにはなおも腫れ物に触るような遠慮がにじみ出ている。

「イスラエル国民に直接呼びかけを」とNYT紙論説

 ニューヨーク・タイムズ紙の2月26日付国際版は同紙論説委員室の意見として「ガザ戦争には今、人道主義に立った休戦が必要」と米政府が呼びかけるよう求める論説を掲載した。イスラエル政府はガザを根拠地とするイスラム武装組織ハマスを追い詰めてきて、ラファ攻撃で同組織にとどめを刺すとして、3月上旬のイスラム休日期間が終わったら総攻撃を開始する構えをとっている。

 同紙の論説委員室の論説は、これまで国際世論および後ろ盾・米政府の批判や説得を受け入れることを拒んできたネタニヤフ政権は既にイスラル国民の支持を失っているとして、ネタニヤフ首相の頭越しに米政府が直接イスラエルに国民に休戦受入れを呼びかける決断をするよう求めている。事態はそこまできている。

紛争の始まりは国連総会決議

 占領地への入植地建設問題はパレスチナ紛争を4分の3世紀の長きにわたって引きずってきた最大の争点であり、パレスチナ問題そのものともいえる。前述したように、その実態は穂とのど思えには出てこなかったので、その主な経過をたどっておこう。

 第2次世界大戦終結から間もない1947年、国連総会はパレスチナ分割決議を賛成多数で採択、これが今日に至る紛争の始まりになった。同決議はパレスチナの56%をイスラエル、44%をパレスチナに割り振り、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の有力三宗教の聖地のある都市エルサレムは国際管理の下に置くことにしていた。当時の人口はパレスチナ人(アラブ系)124万人に対してユダヤ人61万人と比率では2対1。ユダヤ国家になる地域でもパレスチナ人45%、ユダヤ人55%だった。少数のユダヤ人により広い土地を割り振ったのは、イラエルには世界に離散しているユダヤ人が多数移住してくることを想定してのものだった。

 しかし、パレスチナ領にはヨルダン川西岸の肥沃な地域と南端の狭い飛び地ではあるが地中海に面したガザを残し、イスラエル領にはシリアに接する北部から地中海沿い回廊のガザを除いた地域のほか、面積の半分以上は遊牧民の生活圏ネゲブ砂漠が占めるーというバランスが図られていた。

拙速の感ぬぐえない欧米主導の分割案

 この決議案を作成した特別委員会は米欧先進諸国中心に構成されていた。採決では冷戦がまだ始まっていなかったソ連圏諸国や中南米の親米国の支持を得て3分の2の支持を得たものの、パレスチナを取り巻く周辺のアラブ諸国とインド亜大陸など13国がそろって反対、中南米で米国と距離をとる国など10カ国が棄権した。

 パレスチナの地にはいくつかの民族の歴史、宗教、文化の誇りがかっている。その地に2つの国家を創設するには分割しか手はなかったのかもしれない。だが拙速の感はぬぐえない。背景にはユダヤ、パレスチナ両民族間の武力衝突がすでに始まって現地の情勢が緊迫してきたことに加えて、大戦終結でアウシュウビッツ強制収容所の存在がわかるなどナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)が明るみに出された衝撃で、米欧にはユダヤ人への同情心と内なる自責の念があったといわれる。

第1次中東戦争で軍事占領

 国連総会決議を得たユダヤ人側は1948年5月イスラエル独立を宣言、アラブ諸国はこれを拒否、戦争が始まった。準備十分のイスラエルはすでに軍事組織や自衛組織を持っていたし、米欧の支援も受けてエジプト、シリア、ヨルダンなど寄せ集めのアラブ軍を圧倒、パレスチナ住民の半数を越える70〜75万人が戦火を避けて避難した。イスラエル軍は国連決議がパレスチナに割り振った領地のほぼ半分を占領、新しく生まれたイスラエル国はパレスチナの77%を支配下に置いた。イスラエルは避難したパレスチナ住民は土地や住宅を放棄したとして、軍事占領を続けた。これが第1次中東戦争。

 避難したパレスチナ人の一部は周辺のアラブ諸国に移り住んだが、ほとんどは難民となって国連が急ぎ設けた難民キャンプに身を寄せた。パレスチナ周辺のアラブ諸国には今なお難民キャンプ生活を送る避難者都との家族が少なくない。ガザ戦争の犠牲になった住民の多くはそうした人たちだ。

広がる占領地と二つの安保理決議

 アラブ諸国とイスラエルはその後も4回にわたって戦争を繰り返した。1967年の第3次戦争でイスラエル軍はパレスチナのガザ、西岸、東エルサレム、エジプトのシナイ半島(のち返還)、シリアのゴラン高原(のちに併合を宣言)を占領するなど6日間で占領地を大きく広げ「6日戦争」と呼ばれた。米政府(民主党ジョンソン大統領)は国連安保理事会をリードして、戦争によって領土を広げることは許されないとする「国連憲章の規範」に則ってイスラエルに占領地の返還を求める決議242を採択した。安保理決議は強制力を持っている。

 1973年の第4次戦争はアラブ側が「6日戦争」の雪辱を期してユダヤ教の休日を狙って急襲、これが成功してイスラエルを大慌てさせた。しかし、徐々に巻き返されて危うくなったが、米国(共和党ニクソン政権、キッシンジャー国務高官)の仲介で引き分けに終わった。アラブ側の被占領地奪回はならなかったが、米国は安保理で242決議を再確認する決議338採択に持ち込んだ。

 この間にイスラエルはじわじわと占領地へイスラエル市民を送り込む入植地建設に取り掛かった。当初は占領地の安全保障のためのイスラエル軍部隊の駐屯所を名目にした。その後、イスラエル有力紙による政府秘密文書スクープによって、はじめから占領地の領土化を狙った既成事実作りだったと暴露された。

 イスラエル政府は二つの安保理決議をかわす論理として、パレスチナ問題はいずれ交渉で解決されるので入植問題もそこで決まるーと苦しい説明をしながら、占領地を係争地と呼び替えて入植を継続した。

PLO過激化とサダト戦略転換

 中世以降トルコ帝国の支配下にアラブ諸国は第1次世界大戦から第2次世界大戦にかけて、順次独立していくが、この流れに乗り遅れて国を持たない難民となったパレスチナ民族は1964年、パレスチナの武力解放を目指すパレスチナ解放機構(PLO、アラファト議長)を結成した。

 アラブ諸国の支援で3旅団、1700人のパレスチナ解放軍を編成、エジプト、シリア、イラクに配備した。PLOのもとには「政党」と武闘闘争(ゲリラ戦やテロ)にかかわる10を超える組織も加わった。PLOには加わらない独立ゲリラ組織も生まれた。1973年のアラブ首脳会議でパレスチナ人の唯一正統な代表と認められて1974年国連総会でアラファト議長が演説、国連オブザーバーの地位を得た。

 しかし、アラブ諸国はイスラエルと何回戦っても勝てない。「パレスチナ国家」実現が遠のくなかで、PLOも武闘組織も過激化の道をたどっていった。その中でアラブの盟主としてアラブ諸国を率いたエジプトのサダト大統領は、第4次戦争で占領地奪還に失敗した後、国連総会決議と2つ国連安保理決議を得たことによってパレスチナ問題は解決できると考え、イスラエルに戦争で勝つことは断念、外交も前任者ナセル(1970年急死)時代の親ソ路線から親米路の線に切り替えて、1977年に登場した米民主党カーター政権に接近を試みた。

キャンプデービッド合意に「裏切り者」

 イスラエルでは1977 年5月総選挙で右派リクード党 が勝利し、ベギン党首を首相に国家宗教党と連立、さらに中小の宗教政党の閣外協力も得る「大イスラエル主義者」の政権が生まれていた。カーター米大統領は1978年サダト、ベギン両氏を大統領山荘キャンプデービッドに招いて延々13 日に及ぶ缶詰め会談の末、国連決議「242/338」に沿って和平へのプロセスを進める「キャンプデービッド合意」を取り付けた。カーターはさらにエジプト・イスラエル両国に乗り込んで平和条約の調印に持ち込んだ(筆者はワシントン支局勤務時代にキャンプデービッド会談からその後のエジプトとイスラエルの国交樹立までを通して取材)。

 しかし、パレスチナ解放機構(PLO)もアラブ諸国もサダトの路線転換を受け入れなかった。アラブの対イスラエル統一戦線は崩壊、パレスチナは孤立無援ともいえる状態に陥った。サダトは「アラブの大義」に対する「裏切り者」と非難されて1981年「イスラム聖戦派」兵士のグループに暗殺された。ベギン政権は大手を振って入植地拡大に乗り出し、隣国レバノンに侵攻、首都ベイルートに置かれたPLO本部を追い出し、シリア国境の占領地ゴラン高原を併合した。

入植拡大に米国は「沈黙」

 イスラルとPLOは1994年、「二国家共存」に向けてイスラエル占領地を段階的にパレスチナ自治政府(PLOを中心にパレスチナ諸勢力で結成)のもとに移行させるという「オスロ合意」に到達した。しかし、ネタニヤフ氏が率いるイスラエルの右派リクード党、パレスチナ側のハマスと双方の「二国家共存」反対勢力がこれに反対、合意の骨抜きが進められていった。

 キャンプデービッド合意が幻に終わってから30年余り、イスラエル政府が占領地に建設した入植氏は現在144カ所、入植者数は西岸が45万人、東エルサレムが22万人で合計67万人(ガザの入植地は2005年撤収)、総人口903万人の7・4%に膨れ上がっている。そのほかにイスラエル政府によらない入植地も相当数あるといわれている。

                      (2月26日記)