✺神々の源流を歩く✺  

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第47回 二つの那須加美乃金子神社

 対馬には同名の神社が多い。那須加美乃金子神社(なすかみのかなこじんじゃ)も2社ある。まず対馬の北東部にある上対馬の小鹿(おが)を訪れた。道路に沿っているが木立に覆われて、鳥居と歴史のありそうな石灯籠が目に入らなければ通り過ぎてしまうところだった。

固有の神と渡来神の葛藤                    

  小鹿の地名には、神功皇后が朝鮮半島に渡るために対馬に寄った際、住民たちが鹿を御馳走したという伝承がある。境内に立つ鳥居の扁額には「那須加美乃金子神社」、鳥居の脇には「延喜式内 明神小社 那須加美乃金子神社」と刻まれている。白い砂利が敷かれたやや細い参道の奥の拝殿には、アルミサッシのガラス戸がはまっていて、生活感があふれている。祭神は大屋彦神と大己貴命である。         

 もう一つ同名の神社は、小鹿の南の上対馬志多賀にある。鳥居には「金子神社」と彫られ、「那須加美乃金子神社」の扁額がかかっている。志多賀の拝殿もアルミサッシのガラス戸で、拝殿の後ろの木々の間にこじんまりした本殿がみえる。祭神は素戔嗚命で2社とも出雲の神である。                            

神社と古墳の密接な関係

 神社に人が住んでいる様子がなかったので、帰ってから式内社調査報告書を見ると、周辺には弥生遺跡や古墳があり、祭祀に使われた大型の勾玉と十三本の青銅矛は、「神社に建物がなかった時代から伝えられている」とあった。古墳に治められていたのかもしれない。 

 ここもそうだが、古社の近くには、必ずといっていいほど古墳がある。神社と古墳の関係は極めて密接な関係にあるように思われる。                                     

 数年前に中国山東省の曲阜にある孔子廟を見に行った。廟は歴代皇帝が門を寄進しているので、本殿まで行くのにいくつもの門を通らなければならない。廟から少し離れたところに、儒教式の孔子の円墳がある。古墳はこの地を開拓した人が収まっているから、神社はその精神を祭るという関係であろう。              

神功皇后の伝承地が対馬

 祭神の素戔嗚命について、神社明細帳は「八十木種(多くの木の種)を持ち、韓国曽尸茂梨(そしもり)に往(ユ)き、その地に植えさせたまわずにこの山に植えたまう」と記している。日本書紀にも似た記述があるが、素戔嗚命と樹木の関係は、鉄や焼き物を作るには、膨大な木材を必要とするので、大事な関係を示唆しているのかもしれない。                  

 対馬には神功皇后の伝承地が多いことでも知られる。ただしその多くは、比較的新しい時代に作られたものだと言われる。ある郷土史家は「対馬固有の神や神社の中には、記紀の神に上塗りされて消していくのがあります」と言った。中央の影響力が固まるにつれ、中央の有力な神を勧請して、先祖を高めようという風潮も生まれたかもしれない。               

 小鹿と志多賀の間に、「神山」(334・4メートル)と呼ばれる霊山がある。次の日程が迫っていて割愛せざるを得なかったが、山中に鉄生産を思わせる「かなご(金子」「かなくら」などの磐境(いわさか)があるといわれる。磐境は神社に建物が作られる前の古い祭祀形式だ。                      

新羅の神との指摘も

 麓にある那祖師(なそし)神社は、藩政時代に作られた那須加美乃金子神社で、かなご、那祖師神社の3社はそろって祭祀されていたようだ。「対馬の神道」の著者、鈴木棠三氏は「那須加美乃金子神社(那須神)と、那祖師は、同一の存在であろう)とする。   

 これに対して、式内社報告書は、現在、那須加美乃金子神社の「二神(大屋彦神、大己貴命)は違うのではないか」と疑問を投げる。また「神社大帳」は「かなご」について、「神体社等無之。由緒不知」、「非日本之神、新羅之人乎」として、日本の神ではなく新羅の神であると指摘する。

神の怒り

 素戔嗚命や神功皇后など記紀神話の神々の活躍は、渡来の神々にとっては、存在が薄くなるという関係になる。対馬神社誌に「毎年1月24日を祭日として神ろぎ、磐境を村民遙拝すと雖も祭日必ず風波の災あり」と記録している。

 これは、崇敬が薄くなったことに対して渡来の神が怒っていることを指しているのではないか。人々は「神託にしたがって社殿を建てて勧請した」とあるが、祀り直した後、神の怒りはどうなったのか、知りたいところである。

                           (了)