社会的評価低い博士人材の積極的育成・活用 産業界ようやく真剣に対応か 経団連が本格的検討基に提言

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 日本経済団体連合会会長、第二次臨時行政調査会会長など産業界にとどまらない幅広い活動で知られた土光敏夫氏(故人)が、東京工業大学の前身、東京高等工業学校の卒業者であることはある程度知られていたと思われる。しかし、晩年、技術士に対する社会の評価向上に努めたことを知る人はほとんどいないのではないか。技術士というのは技術士法に基づく立派な国家資格。しかし、高度専門人材という面で似たところがある博士に比べると社会の認知度が低すぎる、というのが土光氏を動かした大きな理由のようだった。

 筆者がこんなことを知っているのは、時期も場所も定かでない(多分1980年代前半)記者会見で土光氏の技術士制度に対する思いをたまたま聞いていたためだ。

「末は博士か大臣か」

 土光氏が亡くなったのは1988年だが、確かに氏が技術士の地位向上に力を入れていたころは、博士号を持つ人たちに対する日本社会の評価、敬意はまだ十分高かったといえる。「末は博士か大臣か」という映画がつくられたころ(1963年公開)に比べると、すでにだいぶ低下していたとはいえ。

 前置きが長くなったが、土光氏が6年間、会長を務めた日本経済団体連合会が、博士号取得者に焦点を当てた提言を2月16日に公表した。「博士人材と女性理工系人材の育成・活躍に向けた提言」と題する文書だ。これを読むと、博士に対する産業界さらには日本社会の評価、敬意はさらに低下を続けてきたことがあらためてよくわかる。そもそもこの文書の中で経団連自体が「博士人材と女性理工系人材の育成・活躍について初めて真正面から取り上げて検討し、取りまとめた」と認めているのだ。

博士漂流時代の警鐘14年前に

 日本の博士号取得者や博士課程大学院生がどのような状況にあるか。経団連イコール産業界が今回、このような提言を発するまでに学界や政府機関でどのような主張や検討がなされてきたかを振り返ってみたい。最近、若手研究者の置かれた状況などについて新聞紙上での発言も増えている榎木英介氏が「博士漂流時代—『余った博士』はどうなるか?」という本を著したのが14年も前の2010年。博士課程を修了したのに能力を生かす定職に就けない人たちが増えている状況を憂え、早急な対応を訴えた書だ。博士が活躍できる職業として挙げていた一つが国会議員の政策秘書。博士を1年程度政治の現場に送り込むインターン制度が根付いている米国の実情を踏まえての指摘だった。(科学のおすすめ本ー 博士漂流時代-「余った博士」はどうなるか? | Science Portal – 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」 (jst.go.jp)参照)

 2017年5月には日本工学アカデミー(政府機関である日本学術会議と異なり、中立の学者団体)が「わが国の工学と科学技術力の凋落を食い止めるために」と題する緊急提言を公表している。この中で、創造的な人材を求めるために中長期的な観点から学界と産業界が協働して博士を養成し、雇用につなげていくシステムを構築するよう提言している。同アカデミーは政府、産業界の動きが鈍いとみて、2019年4月、2021年5月にも続けて緊急提言を発し、特に博士課程大学院生に対する支援の強化を急ぐよう強く求めた。

 フランス、ドイツ、オランダなどの欧州諸国では博士課程大学院生に対する授業料はなく、米国でも自然科学系の有力大学では大学あるいは教員が何らかの手当てをしていて、授業料を支払うことはまれ。こうした海外主要国の状況を挙げ、博士課程大学院生を研究者としてきちんと位置づけ、「授業料の徴収は行わない」だけでなく、「生活費相当額を標準修業年限の間、支給する」といった具体的施策を政府に求めている。ちなみに博士課程大学院生に対する生活費相当額の支給もフランス、ドイツ、オランダなど欧州諸国では当たり前になっている。

博士課程進学の壁、経済的理由 

 危機意識は学界だけでなく政府、政府研究機関にも広がっていた。2021年6月に文部科学省科学技術・学術政策研究所が公表した「修士課程(6年制学科を含む)在籍者を起点とした追跡調査」結果によると、博士課程へ進学すると答えた修士課程修了予定者は10・2%にとどまる。

 「経済的に自立したい」(66・2%)、「博士課程に進学すると生活の経済的見通しが立たない」(38・4%)、「博士課程に進学すると修了後の就職が心配」(31・1%)、「博士課程の進学のコストに対して生涯賃金などのパフォーマンスが悪い」(30・4%)。博士課程に進学しない理由として、キャリアアップや収入増につながらないことを挙げる答えが上位に並ぶ。

 さらにこの調査結果は学部などから進学した修士課程在籍者の43・6%が返済義務のある奨学金・借入金を抱えており、このうちの半数近い45・2%の借入金総額は 300 万円以上という厳しい現実も明らかにしている。(「博士進学率減は経済的理由が主 修士課程修了者の調査で判明」20210708_1_01.pdf (keguanjp.com)参照)

 筆者は昔、ある大学教授から国内研究機関に在職していたご子息が海外に良い研究ポストを得て転職したら、返還免除されていた奨学金数百万円の一括返済を求められたという話を聞いたことがある。日本学生支援機構のページを見たところ、国内で研究職や教育職に就いた場合、奨学金の返還が免除されるという制度も廃止されたようなので、大学教授のご子息が海外に良い研究ポストを得た当時より、奨学金・借入金に対する負担はより重くなっているのかもしれない。

遅い産業界の取り組み

 政府の対応はどうか。2021年3月に閣議決定した「科学技術・イノベーション基本計画」の中では、優秀な若者が博士課程を志す環境を実現するための具体的な目標が明記された。25年度までに生活費相当額を受給する博士課程学生を従来の3倍(修士課程からの進学者に限れば、約7割)に増やし、将来は希望する博士課程在籍者全員を受給者にする、としている。政府の本気度がどの程度かはともかく、学界や政府・政府機関の危機意識に比べると産業界の取り組みが遅いという印象は否めない。

 今回の経団連の文書中に、博士人材の流動化を進め、活躍の場を広げる方策として、兼業・副業とともにクロスアポイントメントを増やすことが提言されている。クロスアポイントメントというのは大学や公的研究機関、民間企業など二つ以上の機関と雇用契約関係を結び、各機関の責任の下で業務を行うことを可能とする仕組み。

 しかし、これとても日本工学アカデミーがすでに2021年5月の緊急提言に盛り込み済みで、政府が2019年6月21日に閣議決定した「統合イノベーション戦略2019」でも導入・活用が推奨されている制度だ。経団連の提言が目新しいとは到底言えない。

 着実に向上か技術士への関心

 技術士に関しては、土光氏が亡くなった後の1990年前後だったと思うが、公益社団法人日本技術士会の会合に招かれたことがある。会を主催したグループの一人である日立製作所社員がたまたま共同通信科学部の先輩と台湾の旧制台北高等学校で同級生だったという縁で声がかかった次第だ。この方は帰国後、東京工業大学に進学したのだが、住んでいた学内の学生寮の庭で野菜を作り、生活費に充てていたというから苦労の多い大学生活だったようだ。会では米国の科学技術政策について話をさせてもらったのだが、大企業社員ばかりの技術士の方たちと交わした議論の中身はすっかり忘れてしまった。

 ただ、参加者の一人から会合終了後に聞いた言葉だけを覚えている。「日立はずっと政治とは距離を置いてきたが、日本の科学技術政策についてもっと関わるべきだった」。この人も日立製作所の社員だった。

 日本技術士会は、土光氏の尽力のせいだろうか、筆者もよく知る元科学技術庁キャリア官僚が続けて専務理事として会の運営にかかわり、現在も文部科学省局長経験者が専務理事を務めている。国会にも自民党、公明党の議員でつくる「与党技術士議員連盟」があるそうだから、一般国民の知名度向上はともかく技術士に対する政界官界の関心は確実に高まってきているように見える。博士号取得者に対する関心に比べると。

成るか先端技術・無形資産立国

 今の状況が続けば、日本の大学・政府研究機関・企業の研究開発レベルが諸外国より低下するばかり。「先端技術立国」、「無形資産立国」を目指し、持続的な成長を実現するためには、博士号取得者の活躍の場をもっと広げないといけない。高度な専門知識によって知的生産物を創造し、新たな付加価値を生み出す「ナレッジワーカー」をもっと重視しないと―。

 「博士人材と女性理工系人材の育成・活躍に向けた提言」には、このような記述が並ぶ。これまで博士号取得者の育成・活用に熱心と思われなかった産業界がようやく事の重要性に気付いた喜ばしい動き。今回の提言については、このように評価し、今後の取り組みを注視したい。

                        (了)