東日本大震災発生から丸10年、被災者たちはどのような人生を強いられたか。連日、新聞紙面をにぎわしている記事を読むたびに、どうしても思いが至ってしまう。どうということも起きなかったわが身の10年間に。そうした中で、原子力発電についてあらためて考えさせられた記事があった。「途切れていたベント配管 謎だった高線量 東電の設計不備」という2月28日の朝日新聞朝刊1面トップ記事だ。
東電のミスを指摘
記事の源になったのは、原子力規制委員会の「東京電力福島第一原子力発電所事故の調査・分析に係る中間取りまとめ(案)」。1月28日に公表され、2月26日まで一般からの意見募集を求めていた。この報告書の中に「1/2 号機共用排気筒にはベントガスを排気筒頂部まで導く排気配管が存在せず、原子炉格納容器から導かれたベントガスが単純に排気筒基部に流入する構造となっていることを、東京電力から提供された情報により確認した」という記述がある。
なるほどここに着目したか、と記事には納得したものの、どうにも物足らないというのが報告書全体の印象。旧知の東京電力OB、尾本彰氏にメールで尋ねてみた。尾本氏は東京電力原子力技術部長兼技術開発本部副本部長などを務めたほか、2010年から3年余り政府の原子力委員(非常勤)という要職にあった人だ。「大気中に拡散する所(つまり排気筒先端)まで水素と空気が混合しないようにするのが当然」。東京電力のミスを指摘した朝日新聞の記事を評価する言葉はあったが、原子力規制委員会の中間とりまとめに対してはほぼ予想していた返事が返ってきた。「さして重要でもない細部にこだわった報告書」と。
「新たな原子力安全神話」
朝日の記事が出る前日の2月27日、オンライン形式のシンポジウムを興味深く視聴した。一般財団法人アジア・パシフィック・イニシアティブ(船橋洋一理事長)が、福島第一原発事故の教訓を日本がどこまで学び、実際にその後の対策にどのように活用したかを検証した『福島原発事故10年検証委員会 民間事故調最終報告書』の出版を記念して開いたものだ。尾本氏はこちらの報告書もすでに読んでおり、「(原子力規制委員会の中間まとめに比べ)もっと大局的に見て重要な課題を論議している」と褒めていた。
アジア・パシフィック・イニシアティブは、東京電力福島第一原発事故が起きた7カ月後の2011年10月に福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)を発足させ、翌2012年2月に調査・検証報告書を公表している(当時の団体名は「日本再建イニシアティブ」)。新たに2019年夏に立ち上げた福島原発事故10年検証委員会で、調査・検証をやり直したということになる。福島原発事故直後には、民間事故調のほかに、国会、政府がそれぞれ設置した委員会が精力的な調査を実施し、いずれも内容の濃い報告書を公表している。しかし、国会、政府ともその後、それらの報告書をフォローするきちんとした検証・調査は行っていない。国会も政府も福島原発事故については再検証・調査はしたくない、あるいは事故の後始末で精いっぱいということだろう。
民間事故調最終報告書の内容については3月11日付で「客観日本」(国立研究開発法人科学技術振興機構=JST=の中国向けポータルサイト)に掲載した拙稿(「日本民间智库报告:最坏情况的应对依然准备不足,福岛核事故后又在造新的安全神话」:日本語原文20210311_1_01.pdf (keguanjp.com))で紹介しているが、ここでは特に重要と思われる指摘「新たな安全神話が生まれている」について述べてみたい。
民間事故調は2012年に公表した最初の調査・検証報告書ですでに、「絶対安全神話」という通念が日本でまかり通っていた現実を指摘していた。原子力災害リスクをタブー視する社会心理と、原子力産業を推進する企業、官庁、学者、団体たちでつくる「原子力ムラ」の利害関心がかみ合って生まれた信念、と説明している。「絶対安全神話」が原発の事故への備えを不十分なものにし、福島第一原発事故の要因の一つになった、とも。
福島第一原発事故については、事故の直後に設置された国会、政府、民間の事故調査委員会のほかに、元東北大学総長の機械工学者、阿部博之氏が呼びかけ人となってつくられた「原子力発電所過酷事故防止検討会」というグループによる複数の報告書がある。阿部氏は、科学技術政策にも関心が高かった小泉純一郎首相の下で総合科学技術会議(現 総合科学技術・イノベーション会議)の有識者常勤議員を務め、科学技術予算の充実や科学技術基本計画の策定などに努めたことでも知られる。阿部氏の呼びかけに応じた過酷事故防止検討会のメンバーは、原子力の研究開発や安全審査などに関わってきた研究者が大半。2013年と2016年に計3冊の提言をまとめ、提言の一部は原子力規制委員会のありかたにも反映されている。
原発は絶対安全という安全神話については阿部氏も、2016年に発行した2冊の提言のまえがきの中で、「科学的には存在しない概念」、「当然のことながら人工物には絶対安全(安全神話)はなく、必ずやリスクが存在する」と繰り返し明確に否定している。
「規制の虜」から「宿題型規制」に
にもかかわらず新たな安全神話が生まれているとは、どういうことなのか。事故の翌年2012年に出された民間事故調の最初の報告書は、経済産業省原子力安全・保安院と電気事業者との「もたれあい」や、原子力安全委員会の対応能力のなさを厳しく指摘している。同じ年、国会事故調が衆参両院議長に提出した報告書もまた、「規制の虜」というユニークな表現を用いて、規制当局と事業者との関係に民間事故調以上の厳しい批判を突き付けている。
日本では、規制される側の事業者が規制する側の規制当局より技術的に優位にあり、現場の情報をより多く持つ。その結果、事業者の方が実質的に規制当局をコントロールし、規制を骨抜きにしたり、規制慣行に事業者の利益誘導を組み込むような状態になっている。こうした状況を「規制の虜」と言い表したわけだ。筆者は当時、誰に聞いたかは忘れたが、ある言葉を思い出して、なるほどと思った記憶がある。「東京大学原子力工学科卒の最も優秀な人間は東京電力に入る。次に優秀な人間は原子炉部門を持つメーカーに」。
数年間隔で部署が変わることが多い役所の人間が電力会社の人間より原発に詳しくなるのは確かに難しいだろう、と。ちなみに前述の元東京電力原子力技術部長兼技術開発本部副本部長、尾本彰氏は東京大学原子力工学科卒だ。
では、現状はどうか。「独立性の高い機関としてつくられた原子力規制委員会が、業界からの圧力を排除し、関係官庁との関係を断絶する方向に向かわせた」。民間事故調最終報告書はこのように記している。ただし、事故前の原子力安全・保安院と事業者の間に見られた「もたれ合い」も、「規制の虜」などと批判された関係も無くなったし、その上、中央官庁の中での独立性も保障されたのだから事態はだいぶ改善された、と読むのは間違い。全く別の懸念が強まっているというのだ。最終報告書は新たに生じている状況を「宿題型規制」と呼んでいる。
従来型安全規制の置き換え
「宿題型規制」とは何か。それがなぜ原発の安全向上にとって好ましくないのか。最終報告書の主張と提言は次のようだ。
原子力規制委員会が、「世界一厳しい」と自認する「宿題」を設定し、一方、事業者は原子力規制委員会からの規制要求(「宿題」)を満たすことが目的となり、その目的を達成することで「安全」が達成されたとみなしてしまう。事故となれば多くの人命を危険にさらす原子力事業にとって安全向上に終わりはない。事業者も規制当局も常に「より高い安全」を目指して、努力し、工夫し、知恵を出し合うのが本来の安全規制のあり方。規制は「宿題型」ではなく「効果型」の規制でなければならない。
同報告書には、検証委員会のヒアリングに協力したチャールズ・カストー元米原子力規制委員会地域センター長が語った次のような言葉がある。
「検査官と規制官では役割が違う。米国の規制官は事業者の安全性向上のための知恵を出す。日本は事業者のパフォーマンスを測る検査官の段階に留まっている」
カストー氏は、福島原発事故の際、米原子力規制委員会が日本に派遣したチームの責任者も務めており、米国の原発安全規制のたたき上げともいうべき検査統括官と紹介されている。
「米国ではいざという時に規制官は事業者と知恵を出し合い一緒になって対応する」。アジア・パシフィック・イニシアティブが2月27日に開いたシンポジウムでは、船橋洋一理事長もカストー氏のこのような言葉を紹介し、「宿題型規制」への強い懸念を表していた。
前述の尾本彰氏は、国際原子力機関(IAEA)の原子力発電部長を務めた経験も持つ。IAEA勤務時にロシア人の上司から次のような質問を受けたことがあるという。「なぜ日本では、原子力発電所の設計・解析・建設・運転・保守の経験がない人間に発電所の安全規制ができるのか」。原子力潜水艦で働いていた元軍関係者などが規制官になっている外国から見ると、原子力発電所で働いた経験がない官僚が規制官の大半という日本の状況は不思議でならない、ということのようだ。
「『宿題型規制』は、『宿題』を出す側があらゆる事象に目を配り、すべての事故のシナリオを想定して『宿題』に組み込むという考え方が前提。原子力規制委員会がすべての問題をカバーして『安全』を達成し、人々が『安心』を得ようとしているという新たな『安全神話』をつくりだす。『宿題』を出す側が見落としている問題があれば『安全』は達成されない。福島原発事故前の安全規制を、事故後は『世界一厳しい』規制というという『宿題』に置き換えたにすぎない」。こんな不気味な指摘も最終報告書にはある。
外的事象の多くがリスクの対象外
さらにより基本的な問題も指摘されていることにも触れたい。政府事故調は、民間事故調、国会事故調と同じ2012年に報告書を野田佳彦首相(当時)に提出している。原発安全対策の有効性を評価するために「確率論的リスク評価手法」を用いることが提言の中に入っている。地震・津波などの外的事象をも対象とする考慮した総合的な安全評価を行い、施設の脆弱性を見出し有効な対策を検討し準備すること、その対策の有効性評価に「確率論的リスク評価手法」を用いるべきだ、という提言だ。
外的事象というのは、原子力施設の内外で原子力施設の運転に直接かかわらない部分に端を発し、炉心損傷や炉心溶融そして格納容器の機能喪失に至る事故の誘因となる可能性を持つ事象を指す。地震、津波、洪水、火山などの自然現象と、航空機落下やサイバーテロなどの人為事象に大きく分類される。「確率論的リスク評価手法」は、外的事象を含め重大な事故発生に至ると考えられる全ての起因事象の発生頻度と被害の大きさを整理し、確率論に基づいて設計仕様の有効性を評価する米国で生まれた考え方とされる。
米国では1980年から外部事象も評価対象に含めた発電所の確率論的リスク評価が行われている。しかし、日本では福島第一原発事故後に再稼働した原発では地震、津波を対象にした確率論的リスク評価は実施されてはいるものの、内部溢水、内部火災、地震・津波の同時襲来、多数の原子炉の同時被災といったまさに福島第一原発で実際に経験した事象については「確率論的リスク評価実施手法の成熟に応じて段階的に拡張する」として実際には実施されていない、と報告書は記している。
求められる確率論的リスク評価
確率論的リスク評価の必要性については、前述の「原子力発電所過酷事故防止検討会」もまた、強く主張していた。2016年に出版した2冊の報告書「原子力政策への提言」は、福島原発事故まで日本の安全規制に抜け落ちていた「深層防護」という考え方とリスク評価の重要性について詳しく記している。特に2冊目の提言「防災までを共に考える原子力安全」は、ほとんどのページがリスク評価となっており、「全体を一貫する安全評価指標としてリスク評価を用いる」という具体的提言が盛り込まれていた。
今回の民間事故調最終報告書には、次のような記述がある。「福島原発事故でみられた事象と類似の事象の確率論的リスク評価は、技術の未成熟さを理由になされていない」。さらに「大きなリスクを直視して『不確かさ』をどこまで許容するか、規制当局と事業者の間で安全に関する対話のための共通言語が整備されていないことは、福島原発事故前と変わらない」とも。
確率論的リスク評価ではなく日本で長年、行われてきた手法は、決定論的安全評価と呼ばれる。民間事故調最終報告書では「工学的な判断によって保守的に仮定したいくつもの事象を包絡させた最も厳しい設計条件で安全性を担保する方法」と説明されている。一読して理解できる人が多いとは思えないが、とにかく全ての電源が使用不能になるという福島原発で実際に起きた現象がこれまで安全評価では対象外だったことははっきりしている。日本がなぜ米国のような確率論的リスク評価を取り入れられないのか。民間事故調最終報告書は、「信頼度の高い機器故障率を算出可能なデータベースが未整備」という理由のほかに、「『不確かな』データでも条件を付けてリスク評価の参考とすることを許容する事業環境や社会環境が日本では希薄」といった背景も挙げている。
「原子力発電所過酷事故防止検討会」の会合には、呼びかけ人の阿部氏の厚意で筆者にもある時点から毎回、出席が許された。唯一の非専門家なのでひたすら活発な議論を聞いていただけだったが、強く印象に残る発言があったことを思い出す。オブザーバーとして出席していた科学技術庁(当時)の原子力局長や事務次官を務めたことがある元官僚の言葉だ。「実際の原子力規制で、確率論的なリスク評価の手法を取り入れるのは困難」。確率論的リスク評価の重要性を提言にどう盛り込むかで検討会の議論が収束に近付いていた時に、元官僚としては一言発しないわけにはいかない。そんな強い気持ちとともに、確率論的リスク評価を行政機関が採用することはえらく難しいことらしい、と感じたものだ。
確率論的リスク評価の完全な実施こそ、日本の原子力規制が抱える最大の「宿題」ということだろうか。