コラム「政治なで斬り」首相の色紙考 死語になった「綸言汗の如し」

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 政治家の言動に関心を持って、明治からの政治家の色紙を調べていたら、田中角栄首相の名物秘書、早坂茂三氏に聞いたこんな話を思い出した。

 自民党の幹部だった角栄氏がある時、用事があって、神奈川県大磯に住んでいた吉田茂元首相を訪ね、話は終わって玄関まで出たら、ちょっと待ってくれと、呼び止められた。吉田は筆と硯を持って来て、田中の前で色紙を二枚書いて、帰ったら池田勇人と佐藤栄作(ともに元首相)に渡してくれと頼まれたという。

 一枚は「河海細流を択ばず」、もう一枚は「呑舟の魚は支流に泳がず」だった。この色紙には党内情勢が背景にあって、当時、吉田学校の優等生といわれた池田と佐藤両氏が激しく争っていた。吉田はこれを心配していたようだ。二枚とも意味は同じで「将来を目指すのなら気持ちを大きく持って、つまらないことで争うな」ということである。

 角さんはすかさず私にも書いてほしいと頼んだらしい。吉田は嫌な顔もしないで即座に「蛟竜雲雨を得」としたためた。「天に上る蛟竜も、雲や雨が来るのを待つように、将来を目指そうとするものは今は勉強し自分を鍛えて時を待て」という意味であろう。三枚の色紙の効果は聞かなかったが、順に首相になっている。

 その吉田茂に30代のころから「老師」と呼ばれた漢学者の安岡正篤氏は、元号の「平成」の考案者ではないかということで何度か取材したが、「日本人には漢学の素養が大事だ」とよく言っていた。「漢字一つ一つにそれぞれ歴史や深い教えが込められているから、言葉や文章にコクや人柄が現れる。政治家は二つの目でしか人を見ないが、国民は何千何万という眼で政治家を毎日見ているから、『綸言汗の如し』で言行には、特に注意が肝心だ」とも言っていた。 

 そこで最近の首相経験者は色紙に何を書いているのかちょっと覗いてみた。政治家は選挙民に色紙をよく頼まれる。色紙に書く片言隻句はその政治家のいわば信念、哲学、メッセージでもあるから大事である。

 安倍晋三氏は「至誠」、「夢」、「不動心」と書いている。麻生太郎氏は「天下為公」、「為政為徳」である。話題の森喜朗氏は「滅私奉公」、小泉純一郎氏は「信なくんば立たず」である。ひごろの言と行の評価はお任せするとして、菅偉義首相は「意志有れば道在り」だった。自民党議員のポスターにも刷り込まれている。菅氏の郷里の母校、湯沢高校の書道部の女生徒たちが首相誕生のお祝いに、この字を大きく書いたのが秋田魁新報に掲載されている。ただし最近は地元でも、首相誕生を誇りにする声は聞かれなくなりましたよ、ということだった。

【注】吉田茂元首相がしたためた3枚の色紙の読みは、順に「かかい さいりゅうを えらばず」「どんしゅうの うおは しりゅうを およがず」「こうりゅう うんうをう」。安岡正篤氏が述べたのは「りんげん あせのごとし」と読みます。