「戦争特派員の墓場」といわれたカンボジア戦争取材 不明になった共同通信記者の妻が38年間の捜索記出版 『そして 待つことが 始まった—京都 横浜 カンボジア』

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 カンボジアの戦場は「戦争特派員の墓場」といわれた。1970年3 月の戦争勃発から1年の間に世界各国のジャーナリスト37人もが取材中に命を失った。その1人、石山幸基共同通信プノンペン支局長(当時)の妻・陽子さんがこのほど、行方不明になった夫の足どりをたどった38年におよぶ捜索記『そして 待つことが 始まった京都 横浜 カンボジア』(養徳社刊、頒布価格1,500円、下の写真)を自費出版した。

そして 待つことが 始まった京都 横浜 カンボジア』

 石山記者は1972年10月プノンペン北、古都ウドン近くのクメール・ルージュ支配地域の村の人民委員会の招待を受けて取材に入ったあと消息を絶った。石山記者の消息はつかめないまま、1975年4 月対米戦争としてのカンボジア戦争はクメール・ルージュの勝利に終わるが、ポル・ポト派の恐怖政治の始まりでもあった。

 ポル・ポト派は1978年末ベトナムの支援を受けた親ベトナム勢力(現政権につながる)に駆逐されるが、西部ジャングルに立て籠り、両勢力の長い内戦が始まった。

 1981年夏、内戦の束の間の休息期に家族の陽子夫人、母親と兄を加えた共同通信調査団の現地調査が実現。調査団は西部コンポンスプー州のポル・ポト派基地を訪問中に病に倒れた石山記者を看取った女性との奇跡的な出会いによって病死との確証を得た。しかし、内戦が続く中では滞在地域や埋葬場所に近づくことはできなかった。

 内戦がようやく終わり、ポル・ポト派勢力が離散した2008年現地調査を再開、翌2009年陽子夫人と長男、元共同通信の同僚らが、元ポル・ポト派ゲリラの案内でタイ国境に近いコンポンスプー州奥地のクチュオール山(表紙にみえる中央の山)ジャングルの埋葬場所に到達することができた。

 石山記者が消息を絶って以来37年の歳月が過ぎ去っていた。この間の石山記者の足どりをたどったカンボジア現地での捜索の旅のルポルタージュが本書の主題である。

 墓地確認を果たした翌2010年には、カンボジア戦争を取材した元戦争特派員50人ほどがプノンペンに集まって再会、失った仲間を追悼し、旧交を温めた。みんな歳は取ってもなお、意気盛んなジャーナリストたちだった。その中には、今も行方の分からない友人記者の捜索を続けている者もいた。石山記者の顔なじみが代理出席した陽子夫人を取り囲んで、石山記者の思い出話が交わされた。

「戦争特派員」とは何だろうか。陽子夫人の胸にはいろんな思いが駆け巡ったようだ。この再会の場のルポもハイライトのひとつになっている。

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