調査報告はなぜ軽視されるか 幅広い調査・提言持つ機関の必要 科学的根拠に基づく政策決定とは

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  文部科学省の科学技術・学術政策研究所が4月28日、「コロナ禍を経た科学技術の未来-第11回科学技術予測調査フォローアップ」と題する報告書を公表した。報告書を読んで、思った。多くの科学技術専門家たちも感染症の危険を軽視していたのか。政策決定に直接関わる政治家、官僚たちばかりでなく、と。新型コロナウイルス感染が起きる前の同研究所の調査では、感染症に関する科学技術課題を重要とみる専門家たちが少なったことを示す結果が出ているからだ。報告書については、一つの表を示すにとどめ、こうした調査結果に新聞が無関心であることについて、考えてみたい(報告書の詳しい内容については「客観日本」というウェブサイトに載った拙稿(日本語原文) 20210512_1_01.pdf (keguanjp.com)を読んでいただければ幸いです)

重要度指数が大きく上昇した科学技術課題(上位5)

科学技術課題本調査重要度指数 (順位)第11回科学技術予測調査重要度指数 (順位)
公共・集客施設、空港・港湾、鉄道等の交通インフラにおける、極微量の病原微生物の迅速かつ正確な検知システム1.37 (9)0.61 (553)
室内の「健康阻害」や「感染症アウトブレーク」を抑制する、高度な室内健康環境モニタリング・制御技術1.28 (22)0.76 ( 440)
特定の感染症への感染の有無や感染者の他者への感染性、未感染者の感受性を迅速に検知・判定する、汚染区域や航空機内等でも使用可能な超軽量センサー1.44 (6)1.00 (212)
新興感染症が及ぼすヒトへの影響(世界的流行を引き起こす可能性、病原性)について、環境・病原体・宿主等因子を総合的に勘案し定量的に予測・評価するシステム1.32 (14)0.89 (330)
電子カルテシステム、検査・処方等医療データや様々なウェブデータを活用した網羅的感染症サーベイランスシステムによる感染症流行予測・警報発出システム1.25 (26)0.85 (366)

(科学技術・学術政策研究所報告書「コロナ禍を経た科学技術の未来-第11回科学技術予測調査フォローアップ-」から作成)

表の説明:右端枠は、コロナ禍前の一昨年実施された第11回科学技術予測調査の結果。重要度指数とは、あらかじめ提示された702の科学技術課題に対する5、000人を超す幅広い科学技術分野の専門家の回答平均値。重要度が「非常に高い」を2、「高い」を1、「どちらでもない」を0と答えてもらっている。真ん中の本調査枠は、コロナ禍の最中、昨年実施した追跡調査結果。コロナ禍後の追跡調査で重要度指数が跳ね上がった上位5課題を感染症関連が占めているのが分かる。コロナ禍前までは1課題だけ1.001(重要度が高い)とされていたものの残る4課題はすべて、「どちらでもない」と「高い」の間程度にしか重視されていなかったことを示している。

科学技術・学術政策研究所とは

 科学技術・学術政策研究所は文部科学省の中に設置されている同省直轄の研究機関。実は、これまで何度か取材もしているのに、研究所の歴史をきちんと調べたことがなかった。1988年に科学技術庁科学技術政策研究所として発足(科学技術庁資源調査所改組)し、2001年の文部科学省発足とともに移管、2013年に現在の名称に変更。研究所のホームページをみても、この程度の記載しかない。資源調査所は筆者が、科学技術庁詰めの記者だったときによく知っている。ただし、文部省と合併する前になぜ研究所ができたのか。資源調査所は資源調査会という機関の事務局だったのだが、資源調査会との関係はどうなったのか。いずれも調べたことがなかった。

しばしば顔を合わせ、折に触れメールのやりとりもしている3人の科学技術庁OBに尋ねてみた。なんと皆、記憶があいまいだった。研究所発足当時3人とも課長ないし室長で、そのうち2人はその後、科学技術政策研究所の所長も務めているにもかかわらずである。資源調査所は資源調査会という機関の事務局だったが、事務局機能を科学技術政策研究所が引き継いでいなかったことだけは分かった。しかし、これほどの組織替えというのは通常、省庁間の縄張り争いと密接に関係しているはず。そのようなことには敏感なはずの旧科学技術庁幹部が、詳しいことをほとんどおぼえていないというのは解せない。

資源調査会はどうなってしまったのか。これが気になったのには訳がある。科学技術庁詰めのころ、資源調査所に関してよく覚えていることがあるからだ。周囲の動向をにらみながら行動する。そんな官僚とはだいぶ違う言動を課長時代からしていた人物が、資源調査所長になったため、よく部屋を訪ねていた。ある時「近々かくかくしかじかの重要な報告書を出す」と話してくれた。先に書いてしまうことはせず、記事解禁日に合わせて解説付きの原稿を早々とデスクに上げておいたら、編集会議で部長が熱弁をふるってくれたらしい。めでたく◎(トップ候補)の扱いとなった。

翌朝、他紙が当たり障りのない扱いでしか報じていなかった中で、朝日新聞が1面トップで伝えていたのに驚く。所長は筆者だけでなく朝日の記者にも事前に手を打っていたということだ。所長は満足だったろう。他紙はどうあれ朝日と共同に大きく取り上げてもらえたら、国内の新聞の過半は押さえたことになるわけだから。実は細かいことは覚えていなかったので、以下は資源調査会と資源調査所に関する数少ない公的ウェブサイトの情報から知りえた得た事実だ。普通の報告書だったと記憶していたのは、科学技術庁長官からの諮問に対する資源調査会の答申「遺伝子資源としての生物の確保対策に関して」(1984年6月26日)だった。農作物、家畜の品種改良などで遺伝子資源の価値は今後高まる一方。今までのように途上国の野生種を無償で採ってきて交配を重ね優良品種を作るなども簡単にはできなくなる。国内の優良な遺伝子を持つ生物の選定、収集、保存、提供体制を早急に整備すべきだ、と政府に勧告した内容だった。

改革志向技術官僚が作った資源調査会

この経験から思い起すと、このころまでは資源調査会も事務局の資源調査所も、省庁の垣根を超えて日本の資源の有効活用を図る方方策を調査検討し勧告する役割を果たしていた、ということになる。では資源調査会とは何か。2015年に日本国際賞を受賞された河川工学者、高橋裕東京大学名誉教授の受賞記念講演を聞いて驚いたことがある。自分の業績はそっちのけで先輩の河川工学者にいかに立派な人たちが多かったかという話に終始したからだ。その後、インタビューさせていただき大学院生の時から資源調査会の専門調査員として、筑後川をはじめ、数多くの河川の水害調査に関わったことを知る。内務省土木試験所長のかたわら東京大学教授を兼任し、高橋氏の指導教官だった安藝皎一氏(故人)が、資源調査会発足時の中心メンバーだったことも教えていただいた。ただし、それ以上、これまで深く調べることもなかった。

今回、ウェブサイトで見つけたいくつかの文献から資源調査会の発足の経緯と、果した役割の大きさを知って驚いた次第だ。まず1947年の発足時から8年間勤務していた地理学者、石井素介氏(故人)が2009年にアジア経済研究所の報告書に書いている記事から紹介したい。資源調査会は経済復興のために政府に設けられた経済安定本部の付属機関としてつくられた。経済復興と国民生活安定の基礎となる国内資源の開発・利用・保全のあり方を科学技術の立場から徹底的に再検討し、その計画的かつ総合的利用を提起するのを任務としていた、という。連合軍総司令部(GHQ)天然資源局技術顧問の地理学者、エドワード・アッカーマン博士の後押しがあった。

 「日本は天然資源に乏しい国ではなく、資源は十分に開発されていないし、諸原料も科学技術の力によって真価を発揮するまで活用されていない」。こうした博士の主張に敏感に反応し、資源調査会(発足時の名称は資源調査委員会)設立に中心的役割を果たしたのが、経済安定本部官房調査課長の大来佐武郎氏や安藝氏ら改革志向の技術官僚だったというのも興味深い。大来氏のもともとの専門は電気工学だ。設立間もない時期に土地、水、エネルギー、地下資源、衛生、繊維、地域計画、防災の8部会体制となる。資源というのを幅広く捉えていたことが分かる。各部会担当主任と大学や高専を出たばかりの若手補助員10数人と数人の庶務係が配置された。

 確かに資源調査会の初期の活動実績は、答申や報告書の結論に最初から方向と枠が設けられているような今の審議会などとはだいぶ異なる。1948年8月の最初の勧告「気象、河川、電力、水防の諸機関の連携を図る『利根川洪水予報組織』」、1949年3月の「鉱床調査の標準化勧告」、「水害表示法勧告」、同年5月の「鉄道電化勧告」、同年6月の「合成繊維工業の育成勧告」など、複数分野にかかわる科学技術基準の確立に関する勧告を矢継ぎ早に出している。

発足当初から科学的精神希薄の足かせも

 ところが、資源調査会の活動が制約を課されるようになるのも早かった。2018年3月に政策研究大学院大学のウェブサイトに掲載された「水・エネルギー・食料連関と資源調査会」と題する小堀聡名古屋大学准教授のコラムから、資源調査会の基本理念「資源の総合的利用」が形を変えていく経緯が分かる。「総合的利用の技術やコスト面でのハードルが認識される一方で、自由貿易下での資源輸入を通じた高度成長への道が1950年代後半に見通されるにつれて、資源調査会の地位は低下した」。こうした流れを決定的にしたのが、太平洋ベルト地帯に臨海工業地帯を造成し、海外資源に積極的に依存することを掲げた1960年の国民所得倍増計画。経済企画庁総合計画局長として所得倍増計画の作成に尽力したのもまた、資源調査会立ち上げの中心人物である大来佐武郎氏だった事実に、小堀氏は注意を促している。

 資源調査会の立ち上げには、当時、経済安定本部の総合調整委員会副委員長だった都留重人氏(故人)も大きな役割を果たした。1951年10月に開かれた資源調査会本会議に委員として出席した都留氏の興味深い発言を石井氏は詳しく紹介している。資源の利用・開発に関して資源調査会が果たすべき役割の大きさを強調した上で、次のような懸念も表明したという。「私的企業の立場を代表する政治家にとって資源の保障という問題は全く無関心な事柄で、そのような努力は不必要とみられている。従って現在の政治情勢からすれば、このままでは資源調査会は押しつぶされることになるであろう」

 さらに石井氏は、都留氏の発言があった数カ月後、雑誌「思想」の「科学と政治」特集号(1952年4月)で、大来佐武郎氏もまた次のように厳しい認識を吐露していることも紹介している。「ここ1、2年来、占領政策下の改革の精神が次第に後退しつつあり、旧来の日本的官僚組織独特の『科学的精神の要素の希薄な』体質が復活、強化してきたことを慨嘆している」。さらに手厳しいというか悲観的とも思える記述が続く。この時期、すでにこうした認識が官僚自身からおおっぴらに表明されていたのは驚きなので、少々長くなるが紹介したい。

 「明治以来、国民を上から統治する手段として発達した官僚制度は、強固な身分制度に守られ、依然として監督者的機能に重点が置かれている。従ってなるべく専門家にならず、あらゆることを広く浅く心得て、事務的に手抜かりなく仕事を処理していく能力を持つことが、官庁の中で出世するための必要条件と考えられ、むしろ専門家は補助的な立場に置かれて、重要な決定への参画から除外されることが多い。こうした専門的な知識が重んぜられない雰囲気の中では実証的な科学精神が育ち難いのは当然で、重要な行政判断に個人的な勘や思いつき、あるいは政治的取引などの介入する余地が大きく残されている」

 都留氏や大来氏がこうした懸念、批判を表明してから4、5年後の1956年に科学技術庁が発足し、当時は総理府にあった資源調査会の事務局が科学技術庁に移される。筆者が科学技術庁詰めとなるのはさらにその20数年後ということになる。資源調査所長の意欲に応じて、資源調査会の答申内容を詳しく伝えることもあったという経験は、当時まだ資源調査会と事務局である資源調査所に発足当初の役割・機能の一部が、辛くも引き継がれていたことを示している、ということだろうか。

実質上、役割終えた資源調査会

 現在、資源調査会は文部科学省の審議会である科学技術・学術審議会の資源調査分科会という形で存続しているということになっている。しかし、やっていることはごく限られたものになっており、昔の面影を探すのは難しい。むしろ科学技術・学術政策研究所に実質的な機能の一部が引き継がれているようにも見える。ただし、都留氏が1951年の資源調査会本会議で述べていたような「単なる基礎的データの取集や個別の調査のみ行うのでは不十分。資源的・社会的にそのデータが必要である理由、そのデータの資源・社会問題の中にある位置づけまでを示すべきである。(…)資料提供にとどまらず、何が資源の『より有効な利用』であるかという評価まで示さねばならない」という役割・機能までは果たしてはいないといってよいだろう。

 菅義偉政権による日本学術会議に対する攻撃や、新型コロナウイルス感染対策における専門家との関係などから、「専門的な知識が重んぜられない雰囲気の中では実証的な科学精神が育ち難い」と大来氏が指摘した日本社会の弱点は、敗戦直後よりもさらに深刻化しているように見える。報道機関で働く記者たちまでもが、実証的な科学精神を軽視する空気に染まってしまっているようでは、エビデンスベイスト(科学的根拠に基づく)政策決定など望むべくもないように思えるが、杞憂であれば幸いだ。