いまNHK大河ドラマで『鎌倉殿の13人』をやっている。高等学校の日本史の教科書で知る鎌倉時代とは少し様子が違う。ドラマであることを割り引いても、もう一度鎌倉時代を学びなおすのに好材料を提供してくれている。転じて、いまのウクライナ侵攻。日々、目の当たりにするのはウクライナなのだが、なぜか、過去の日中戦争が何だったのかが思い起こされる。そう言えば、高校の日本史は、ほぼ明治時代で終わっていて昭和史は学習しなかったように思う。その意味では、ウクライナ戦争は日中史を学びなおすいい機会かもしれない。
「特殊軍事作戦」と「事変」
ロシア軍がウクライナ侵攻を開始したのは2月24日。プーチン大統領はこの日午前6時(モスクワ時間、日本時間正午、米東部時間23日午後10時)からテレビ演説し、今回の侵攻を「特殊軍事作戦」special military operationと呼んだ。決して「戦争」とは言わず、したがって宣戦布告もなかった。
この発表を聞いてデジャビュのように浮かんだのが、戦前の日本が使った「事変」という言葉だ。英語ではincidentと訳されている。古くは、1900年に起きた義和団事件に対応して、日本を含む先進8カ国が軍事介入した時に「北清事変」という用語が使われた。
「満州事変」では31年の柳条湖事件に端を発し、満州建国に至った。関東軍が満鉄を爆破して、中国軍の仕業だとして侵攻を開始し、満州全域と熱河省を占領した。プーチン大統領はウクライナ国民がネオナチによって迫害されており、その解放を行うと主張している。戦争発動の理由がそもそもフェイクであれば、戦争の大義名分は成立すまい。
「支那事変」は37年、盧溝橋事件に端を発し、日中両軍が衝突し、当初「北支事変」と呼ばれた。戦火が上海に拡大し、「上海事変(第2次)」では激戦となり、緒戦で日本側が大敗したため大規模な増派を行い、臨時首都・南京を占領、重慶爆撃など戦火は中国全土に拡大したため、以後「支那事変」と呼ばれた。戦後、中華民国側は一般的に「支那」の呼称はやめるべきだと抗議したため、事変の呼称は「日華事変」と改められ、その後さらに教科書などで「日中戦争」と変わった。
加藤陽子東大教授は「今のロシアと同じく、自国の安全感を確保するため隣国に侵攻し、短期決戦を挑んで失敗した日本の歴史家として思うのは、……相手国の過小評価が生まれている。……日本は、日中戦争の緒戦1937年の上海戦で失敗した。……中国軍がトーチカを作っていることすら知らず、欧米諸国から見下される。今のロシアに大いに通じるところがある」(4月27日付朝日新聞)としている。
ここでも誤算の歴史は繰り返すの感がある。ウクライナ侵攻でも、プーチン大統領には大きな誤算があった。48時間以内に片がつくと踏んでいた節があるのは、国営ロシア通信が侵攻開始からわずか2日後の2月26日に「ウクライナはロシアに戻ってきた」「反ロシアのウクライナは存在しない」と、まるで対ウクライナ戦に勝ったかのような論説記事を配信し、直ぐに取り消す(3月3日付読売新聞、4日付熊本日日新聞)というドタバタ劇があったからだ。
この「キエフ(キーウ)2日以内の征服」想定説は、バーンズ米中央情報局(CIA)長官の3月8日の下院情報特別委員会での証言で裏書きされた。バーンズ長官はロシア軍の動きについて「2日間でキエフを制圧する計画だったが、2週間近くがたち、彼らはまだキエフを完全包囲することさえできていない」と証言し、さらに「プ-チン氏はいま怒り、不満に思っている」との見方も示した(3月9日付朝日新聞)。
軍事的に優位にある側の誤算は〃驕り〃の結果だ。日清戦争から満州事変まで中国の軍事的な弱さに高をくくって襲いかかったが、蒋介石率いる中華民国側は弱いなりの準備をしていた。だが、そういう警戒感は日本側にはなかった。それは、今回のロシア軍にも言えるのではないか。
ブチャと南京
ロシア軍がキーウ周辺から撤収した、とウクライナ軍参謀本部が発表したのは、ウクライナ侵攻開始から約1カ月たった4月1日だった。その2日後の4月3日、ウクライナのベネディクトワ検事総長はSNS(フェイスブック)を通じて、首都キーウ近郊のブチャなどで410人の遺体が見つかったと発表。
ゼレンスキー大統領は同日放映された米CBSのインタビューで「これはジェノサイド(大量虐殺)だ。国家と民族に対する破壊だ」と指摘。さらに国連安保理事会でオンライン演説を行い、「ロシアの戦犯に裁きを」と訴えた。
1937年、日中戦争(支那事変、日支事変)初期に、日本軍は、蒋介石が首都としていた南京に侵攻し、数万人の中国兵だけでなく市民多数を殺害などしたとされる。中国側は30万人殺害されたとして「南京大虐殺」を主張するが、日本側は死者数などに疑問を呈し、いまだ論争が続いており、まさに「歴史問題」は現時点でも大きな政治問題ともなっている。
南京事件とブチャ事件の違いは、南京事件では、当時は大きな外交上、国際政治上の大問題にならずに、かえって戦後に大きな外交問題として浮上したのに対し、ブチャ事件は現代のSNSなどの発展により事件発生と同時に事実究明と責任追及が始まったことだ。ロシア側が民間人殺害はロシア軍撤退後に起きたと主張すると、民間ボランティアが膨大な衛星写真を分析し、これらの遺体は、ロシア軍がいた時から路上に置かれていたと解明したことも報じられた。新たな戦争報道の一側面だろう。
情報統制と「大本営発表」
ロシアのプーチン政権はもともと情報統制にきゅうきゅうとしていたが、他方、昨年のノーベル賞がノーバヤ・ガゼータ紙のムラトフ編集長に与えられたように、反体制側もこれに果敢に抵抗してきた。同紙の記者は何人も不審死を遂げているほどだ。
そこでロシア政府はウクライナ侵攻を開始した直後の3月1日、独立系テレビ「ドーシチ」(ロシア語で雨の意)、リベラル系ラジオ局「モスクワのこだま」の放送を停止させ、インターネット接続を遮断し、過去の記事も削除した。(なおノーバヤ・ガゼータ紙は3月28日、2度の警告を受けて業務の一時停止と、軍事作戦が終了するまでの新聞発行の見合わせを発表した)。ロシアのリベラル系メディアは窒息させられつつある。
さらにロシア議会は3月4日、「社会的に危険な影響が伴う偽情報(フェイクニュース)の拡散」に対して最大で禁錮15年の禁錮刑を科す改正刑法を可決、成立させ、プーチン大統領が直ちに署名して発効した。新法では「信頼できる情報を装った明らかな虚偽の情報の流布」や、公の場での「軍事行動の停止の呼びかけ」「軍の名誉と信頼を傷つける活動」も禁止している。当局の発表以外はすべて「フェイクニュース」とみなして弾圧する構えだ。
ここでも既視感がよぎった。そう言えば、戦前の日本でも「大本営発表」という名のプロパガンダがあったなと思い出した。そうしたら朝日新聞が6月11日付の『耕論』で「ロシア流『大本営発表』」を特集した。冒頭、編集者は「黒海艦隊の旗艦沈没で死者が出ても、当初は『乗務員は完全に退避した』。こうしたロシアの発表は、旧日本軍の『大本営発表』を連想させる。この既視感の背景には何があるのか」と書いた。
政治学者の中島岳志さんは「戦果の水増しや損害の過小評価などが当たり前だった」のが大本営発表の特徴だと指摘する。戦前の日本における「大本営発表」は、戦後検証してみるとほとんどファクトチェックに耐えられるものではなかった。それでも国民の99%は無条件にその発表内容、新聞記事に疑いを持たなかったろうし、戦争を指導している上層部も当初、自分たちではウソと分かっている事実も虚偽を発表してしまうとそれに縛られてしまい、結局は正しい、客観的な判断ができなくなる罠にはまってしまうのだ。
中島氏は、メディアもまた戦争記事が売れることと相まって「軍部ににらまれたり、時代の空気にあらがったりすることを自ら避けて、『大本営発表』を垂れ流すようになります」とする。メディアだけでなく国民が権力側の意図を先取りして行動するようになれば、これほど権力側としては効率的な権力行使はないのだとして、「大本営発表も、プーチンがやっていることも、『権力のまなざしの内面化』という機能を利用しているのだ」と指摘している。
プーチンと東条英機
この戦争を機にプーチン大統領とは何者かという報道も多く見聞きするようになった。KGB出身であり、情報畑で育ってきたという経歴だ。情報機関を使って政敵を追い落としてきた。軍人でもないのに大隊クラスの戦術にまで容喙しているとの報道もある。こういう人物は戦術的な局面では才能を発揮するかもしれないが、戦略的判断力が弱い。次第にスターリンに似てきたとも評されるが、本人はピョートル大帝を目指している風でもある。
対して東条英機はどうか。軍人だが、山本五十六や石原莞爾などと比較するとよくわかるが、憲兵出身であり、戦術・戦略など軍事には疎い。作戦に弱いだけでなく、在外経験がなく国際感覚が弱かった。戦争を遂行するには最も適さない人物だったのではないか。
武器支援と「援蔣ルート」
今回のウクライナ侵攻で、米国は戦闘には参加せず、武器供与のみしか行っていない。ブリンケン国務長官とオースティン国防長官のウクライナ訪問時も、米国は8億ドル(1000億円)の武器供与を発表した。米国と欧州の援助総額は50億ドル(6400億円)に上る。戦闘機は渡さず、射程300キロでロシア領内を攻撃可能な多連装ロケットシステム(MLRS)も供しなかったが、射程70キロの高機動ロケット砲システム(HIMARS、ハイマース)は提供した。
日中戦争では「援蔣ルート」が蒋介石政権の戦争継続を可能にした。いくつものルートがあったようだが、もっとも有名なビルマ(現ミャンマー)のラングーン(現ヤンゴン)からビルマ山地を越えて雲南省昆明までが主軸となった。一時期、陸路が閉ざされたため「ハンプ(らくだのこぶ=ヒマラヤ山脈)越え」と言われる空路で援助物資を運んだ時期もあったようだ。
大ロシア主義と大東亜共栄圏
「ロシアとウクライナは民族的にも歴史的にも宗教的にも言語的にも一つの人々」(2021年7月の論文)「ロシアの国境には終わりがないんだよ」(2016年、ロシアの子どもに)ープーチン大統領はウクライナ侵攻前から特別なイデオロギーを抱くに至ったようだ。旧ソ連邦の再組織化を夢想し、少なくともロシア、ベラルーシ、ウクライナの再統一を夢見ている。さらに6月9日のピョートル大帝生誕350年に当たって、スウェーデンとの北方戦争(1700~1721年)について「領土を奪還し、強固にすることは我々の任務だ」と強調した。もはや自らをピョートル大帝の再来と自認しているかのようだ。
プーチン大統領は「ウクライナはネオナチに支配されており、ウクライナの『非ナチ化』が必要だ」として、ウクライナ戦争を第二次世界大戦の対ナチスの「大祖国戦争」になぞらえる(なおロシアは2000万人の戦死者を出している)。因みにゼレンスキー氏はユダヤ系であり、ネオナチとの決めつけは滑稽でさえある。
旧日本帝国時代にも、独りよがりの「大東亜共栄圏」構想というイデオロギーがあった。1940年、近衛内閣が発足時に打ち出した『基本国策要綱』のなかで「大東亜新秩序」がうたわれ、松岡洋右外相が使ってから一般化した。「日・満(州)・華(中国)」を中心に東南アジア、インドまでを含む経済・安全保障ブロックを形成しようという構想であり、1943年には東京で大東亜会議開催されている。
(了)