反戦ジャーナリストの遺志継ぐむのたけじ賞が「障がい者差別」で終了 45年前の講演での発言で 「ジャーナリストとしての感覚の鈍さや不勉強を批判されても仕方がない」 当事者と向き合い「謝罪」すべきだったのでは  

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 2016年8月に101歳で亡くなるまで終生、反戦を訴え続けたジャーナリストとして知られたむのたけじ(本名・武野武治)さんに約45年前の講演会で「障がい者差別発言」があったとして、その遺志を継ぐために設けられた「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞(むのたけじ賞)」を終了すると同賞実行委員会が5月31日、発表した。共同通信などが報じた。

「重度障害の女性は子どもを産むことは許されず」と読める

 実行委員会の共同代表である作家・落合恵子氏、ルポライター・鎌田慧氏、評論家・佐髙信氏、武蔵大教授・永田浩三氏が昨年12月に出した「見解」では、賞を終了した理由について「むのさんの講演会での発言の趣旨は、重度の障害がある(女性は)子どもを産むことは許されないと言っているように読めてしまう。(当時は)すでに障がいがある当事者の運動があふれていた状況下で、ジャーナリストとしての感覚の鈍さや不勉強を厳しく批判されても仕方がない」としている。

 「むのたけじ賞」実行委はむのさんが亡くなって以降、地域で民衆のために報道している人々を顕彰することを目的に、個人やメディアなどの「草の根報道」を対象にすでに過去5回、「むのたけじ賞」を出してきた。第1回には、北陸朝日放送の「言わねばならないことー新聞人桐生悠々の警鐘」が大賞を受賞し、「イージス・アショア」配備問題について地域民衆の立場で報道をし続けてきた秋田魁新報社が特別賞を受賞するなど、主に原発、安保、基地、差別、子どもなどの問題を取り上げた受賞者が多い。

 共同代表4人は今回の責任をとって辞任し、「むのたけじ」の冠を外した「地域・民衆ジャーナリズム賞」に名称を変更。今回は、東京新聞(中日新聞東京本社)前橋支局の連載記事「村の戦争・兵士目線の従軍記」や原発事故や足尾銅山鉱毒問題の共通性などを論じた同社元編集委員の長竹孝夫氏の書籍「首都圏の綻び」などが選ばれた。31日の記者会見では実行委は「むのさんの精神を継承する」(朝日新聞6月1日付朝刊)としている。

 辞任した落合さんらの見解を読むと、むのさんの発言には確かに「障がい者差別」と指摘されても仕方がない内容が含まれている。私は若いころ、むのさんの著書の影響を受けて記者となったひとりであり、このニュースに大きなショックを受けた。45年前のこととはいえ、講演後に、むのさんの発言が国立市議や批判された記事を書いたジャーナリストの松井やよりさん(02年死去、当時、朝日新聞立川支局長、元同社編集委員)などから問題とされた時に、むのさんは、なぜ当事者らと真摯に向き合い、謝罪することができなかったのか。〃むのファン〃の一人として非常に残念で複雑な思いである。

問題の経緯と差別発言の内容

 実行委員会の落合代表ら4人連名の「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞を終了いたします」(23年12月24日付。以下、これを「見解」と呼ぶ。これをもとに実行委で賞の今後在り方を検討、5月31日の発表となったとみられる)によると・・・。

 23年6月、第5回むのたけじ賞・優秀賞受賞者(同年2月)である「なくそう戸籍と婚外子差別・交流会」から、実行委に⼀通の手紙が届き、1979 年9月に北海道新聞労働組合が主催した講演会で、むのさんが講演の中で、重度障がい者の女性の出産のことを、病院の看護婦長の言葉を引用するかたちで紹介した。その中に、差別発言があった。

 その時の講演のテーマは「選挙報道とマスコミ」。むのさんは「事実を事実のものとして、ナマの姿で伝えるにはどうするのか。そのことで権力との関係を作らなきゃならぬと同時に大衆とも作っていかなきゃならぬのじゃないか」と前置き。

 この後「⼀週間前に八王子に行った時、朝日新聞(の購読)をやめたといきまいている女の人がいました。なんだと思ったら、重い障がいの、下半身がほとんど動かない女の人が、子どもを産んだわけです。相手の男性も障がい者です。それを何か美しいことのような、そして女の人を持ち上げて、病院が彼女のいい分を聞かないということを書いているわけですが『こんなもの読むものか』と怒ったのは、その病院の看護婦長でしてネ。いかにこの患者が、身の程知らずのわがままを言うのか。こんな体で妊娠したときにどんなことが起こるのか、ということを医者にも相談しない。親、兄弟にもしゃべっていない。要するに、性生活をすれば生まれるんだ。生まれたとたんにオレは重度身障者だ。⼀軒の家をよこせ、車買え、とかネ。あてもないことを言う。心身に痛手を持つ人たちを十分いたわらなきゃならぬ。そりゃあ原則はわかる。けれど、原則論で『私は大変な痛手を受けた人間です』ということを武器にしてわがままを言うことに目をつぶって、⼀種の美談めいたものにすり替える朝日はウソつきだ。平気でウソを付ける。こういう言い方で、どんなウソをほかでついてるかわからない。あと読まぬというて、社会教育の集会に出てきて、新聞の問題出た時にしゃべっておったんですが・・・」と話したという。

支援者らからの厳しい批判にも誠意ある回答なく

 むのさんのこの発言については、松井やよりさんがそのいきさつを書いた「むのたけじ氏に言論の責任を問うー障がい者差別発言をめぐってー」(1980年、記録の会「記録」3月号)によると、松井さんが北海道新聞労組から講演記録を取り寄せて「差別発言」を確認したようだ。松井さんの「どの記事について、何を批判されたのか」との電話での問い会わせに対してむのさんは以下のように答えた。

 「障がい者がお産をした。それを肩を持つような記事はけしからんといきまいていた人がいた。その人の名前は忘れた。ヒューマニズムを貫徹する場合は、一方的な報道ではダメだ。その障がい者だけが優遇されて、ほかの人が陽の光を浴びないというのでは困る。そういう話を耳にしたので、物ごとは両面見ないとむずかしいというひとつの例として、取り上げた。権力にも大衆にも迎合してはいけないと言いたかったのだ」と説明したという。

 筆者としては、むのさんの弁明を直接聞いたわけでもないので、断定はできないが、少なくとも松井さんの記事を読んだ限りにおいては、このむのさんの説明にも違和感がある。むのさんの言うように、「両面を見る」ことや取材をすることは必要かも知れないが、この問題は、あくまで「障がい者の人権の問題」ではないのか。これがどうして「大衆への迎合」になるのか、との疑問は残る。

 問題発言部分は、やや分かりにくいが、看護婦長の言葉を紹介する形をとっているものの、松井さんの記事で補足すると、むのさんが少なくとも、この婦長発言を共感的に取り上げていたことがよく分かる。むのさんの発言をめぐっては、この後で講演を聞いて問題にした女性記者、障がい者女性の支援者や松井記者から、厳しい批判とともに、発言の趣旨について説明を求める手紙がむのさんに送られた。しかし、むのさんからの誠意のある回答や対応はなかった、という。私は繰り返し、問題部分を読んでみたが、やはり「アウト」だと思う。残念ながら、むのさんは特に「障がい者の人権」について、よく理解できていなかったのではないか、としか言いようがない。

「当時も今も許されない差別」

 そして「見解」はこう結論付けている。
 「講演での、むのさんの発言には正直驚きました。むのさんは、戦後⼀貫して人権に関して啓発的な発言を続けてこられた方です。新聞『たいまつ』は、日々の暮らしを尊重し、人間らしく生きることがつづられた地域ジャーナリズムのお手本となってきました。そんなむのさんの発言が行われた1979年、障がい者の問題はどのような展開を見せていたのでしょうか。実は、障がいがある人が社会の中で尊重され、その人らしく生きていくことを訴える当事者の運動はすでに60年代から始まっていました。70年代後半、日本社会における障がい者への無理解や偏見がまだ根強く残っていたことは確かです。障がい者が出産することで、医療福祉の従事者の負担が増える。むのさんが引用したとされる婦長の発言はそうした意識の中で生まれたものでしょう。ですから、当時の感覚で言えば、特別なものであったとは言えません。しかし、むのさんの発言の趣旨は、重度の障害がある(女性は)子どもを産むことは許されないと言っているように読めてしまうのです。これは、すでに障がいがある当事者の運動があふれていた状況下として、ジャーナリストとしても感覚の鈍さや不勉強を厳しく批判されても仕方がありません」

 また、「見解」は共同代表の責任にもこう触れている。

 「実は、わたしたち共同代表は、むのさんの発言やその後の対応について、まったく知りませんでした。当時、障がい者問題に取り組む人たちの間では話題になっていたにも関わらず、われわれ自身が関心を抱くことはありませんでした。むのさんの発言は、当時も今も許されないことです。しかし、当時のむのさんの発言に注意を払わなかったわたしたちにも同じように責任があります。今回のことは、むのさんに責任を負わせるだけではなく、むのさんの名前を冠にし、その名前のもとに賞を選考してきた共同代表もまた責任を負うべきなのだと思います.

記者人生の原点だった

 個人的なことで恐縮だが、私にとって、むのさんは私をジャーナリズムの道に導く「記者人生の原点」だった。

 私が新聞記者になりたいと思ったのはもう60年前のことである。大学1年生の時にむのたけじさんが書いた「たいまつ16年」(理論社刊、現在は岩波現代文庫)に出会ったからだ。むのさんは戦争中、東條英機首相への取材やアジアでの従軍記者もした朝日新聞(この前には報知新聞=一般紙でスポーツ新聞ではないころの新聞)の社会部記者だった。戦前、「大本営報道」という形でアジア太平洋戦争を推進した新聞が果たした役割に責任を感じて敗戦直後に退社した。このときの気持ちについて,NHKの100歳の時のドキュメンタリー番組で「ああだこうだとは考えなかった。(私は)本当の戦争の姿を伝えられなかった。だから、その責任を取るために、生き抜こうと考えた」と話している。

 出身の秋田県横手市に戻り、1948年からタブロイド判2㌻のミニコミ紙、週刊新聞「たいまつ」を創刊、78年に780号で休刊するまで主幹として平和や地域の問題で健筆をふるった。私の書斎の本棚のメディア本のコーナーの一角にこの本や「ボロを旗ににして」「解放の十字路」「踏まれ石の返書」などむのさんの著書が並んでいる。この文章を書くために久しぶりに「たいまつ16年」を手に取ったが、すでに黄ばんだ表紙の裏に「1964年5月30日購入 This book is my Bible」と、「雪と足と」(文藝春秋新社刊)には「64年9月21日購入 尊敬する心の師 むのたけじ」と私の字で書いてある。私だけでなく、当時はジャーナリスト志望の学生にとって、むのさんの生き方に共感する人もけっこういたと思う。

横手の自宅にむのさんを訪ねたことも

 これらの本を読んでむのさんにどうしても会いたいと考えて、横手市出身の大学の友人を通じて66年の冬休みに横手市の作業場兼自宅にうかがった。当時の私は商業ジャーナリズムを生意気にも「ブル新(ブルジョア新聞)」などと考えており、ベトナム反戦デモなどをきちんと報じないマスコミに批判的だった。まだインターネットなどは存在しない時代で、その時は「マスコミではだめでミニコミしかないのではないか」と本気で考えていた。今の時代も「既成メディアはだめで、ネットだけが信じられるという人がいるが・・・)。だから、大手新聞社を捨てたむのさんの生の話をどうしても聞きたかった。

 横手は深い雪が積もっていた。奥さんが出してくれた温かいうどんをすすりながら、むのさんにそのことを聞いてみた。むのさんは「自分は戦争責任をとる形で朝日をやめたが、商業ジャーナリズムといえども市民に対するその役割は大きい。まず内部に入って若い人たちがジャーナリズムを変えるべきです」という力強い返事をしてくれたことを覚えている。このあとマスコミの労働組合の新研集会でお会いしたが、その後はお会いしていない。

「偶像、神格化のせい」

 「見解」は「わたしたちの中にある『むのたけじ』を偶像、神格化してきてしまったことも問われました」とむのさんの「偶像、神格化」の問題点にも触れている。「見解」をよく読むと、実行委も長い間、この問題で悩み、討論を重ねた形跡がうかがえる。「賞終了」のきっかけとなった手紙が実行委に届いたのは昨年6月。共同代表の「見解」の日付は「23年12月24日」で5カ月間もたっている。むのさんは、高齢になるにつれ、NHKや民放の番組に出演することが増え、たくさんの講演会もこなして晩年になるほど有名になっていったようにみえる。「後付け」といわれそうだが、いま振り返ると、むのさんが本来望んだ生き方とは少しずつ変化してきたのかなと感じている。これをマスメディアによる「偶像、神格化のせいだ」というならば、そうなのかもしれない。

「業績の全てを否定できないのでは」

 だからといって、自らの戦争に加担した記者としての経験から「日本は2度と戦争は起こしてはならないし、マスメディアは協力してはならない」との、むのさんのメッセージは、パレスチナやウクライナ、そして「台湾有事」など世界の平和を考えるに当たっても、いまだからこそ、「権力監視」とともに、ジャーナリズムの永遠の課題である。差別を受けた方のことを思うと、異論や反発もあるだろうが、その意味でも、むのさんの「反戦を訴え続け、メディアに警鐘を鳴らし続けた業績の全てを否定できないのではないか」と私は考えている。

むのさんを「伝説」にしてはいけない

 NHKは15年10月に放映したETV特集「むのたけじ 100歳の不屈」でむのさんを「伝説のジャーナリスト」と呼んだ。この番組もその内容自体は素晴らしいものだが、「伝説化」に〃貢献〃している。生身の人間であるむのさんを「伝説」にしてはいけない。このドキュメンタリーをあらためてネットで視聴したが、100歳のむのさんが、高校生からの「今のメディアに求めるものは」と質問され、「頭のてっぺんから足のつま先まで洗い直して全部作り直すことが必要だ」と政権など権力への忖度が目立つようになってきた最近のマスメディアに対して、厳しい注文を付ける姿が印象的だった。こういうことをズバリと言い切るジャーナリストがほとんどいなくなってきたように思う。

「むのさんが存命ならどう考えたか」

 むのさんの発言は「障がい者差別」だけではなく、「産む・産まないは女性の自己決定」との観点からみても、「女性差別」とも受け取られかねない内容を含んでいる。「障がい者差別」をめぐっては、戦後間もない1948年から1996年まで続いた旧優生保護法のもとで、障害などを理由に不妊手術を強制された人たち(約1万6500件、うち女性は7割を占める、といわれる)が国に損害賠償を求めた訴訟の上告審の口頭弁論が5月29日、最高裁大法廷で開かれ、原告は「強制手術で人生を狂わされた」と訴えた。この夏にも判決が予想されている。

 この問題をむのさんはご存命ならば、どのように考えたのだろうか。100年以上前の大正生まれという育った時代的背景を考慮しても、やはり、むのさんらしくない、とても許されない発言であったことは間違いない。ただ、自分自身も含めて人間は誰でも間違える。78歳と決して若くはない私は今後も「戦争や平和の語り部」だった、むのさんの〃ファン〃であり続けたい。そういう気持ちでこの文章を書いている。

実行委員会の説明

 実行委員会が5月15日付で出した「関係者のみなさま。応募者のみなさま」によると、今後の「地域・民衆ジャーナリズム賞」については①今回の問題を重く受け止め、向き合い、共同代表の見解をもとに「むのたけじ」の冠をとる②共同代表制をなくし、最終選考者として新たに各界人にお願いする③今までの「地域からの民衆ジャーナリズム発掘に光をあてること」や、従来の「たいまつ精神」は引き継ぎ、「地域・民衆ジャーナリズム2025」として2024年9月に再スタート、新体制で作品募集を開始するーとしている。

 また、「むのさんは、その後の婦人民主新聞のインタビューでは反省の弁も述べ、またほかの講演や著作で差別発言を続けていた形跡はありません。(中略)しかし、『こんなひどい発言があった』との説明抜きで婦長発言を紹介したのは、道新組合記者たちに差別感情をそのまま流布した形にになるのは変わりません。また、この問題を抱え苦しんでいる当事者のみなさんに今後も向き合い、今後の課題としていき、事件の責任を取るため、共同代表の見解を受け、賞から故人の名前を冠から外すこととしました」などとしている。
                              (了)