「戦後80年 8・15に想う」焼け野原から見た真っ赤な富士山 ソ連の対日参戦が決まったのにスターリンの署名伏したポツダム宣言のなぜ

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 80年前の1945年8月15日。疎開先の父の出身地、秩父市近くの町で日本の敗戦を迎えた。国民学校4年生、満10歳だった。日本降伏を知らせるラジオの「玉音放送」は雑音交じりでよくわからなった。だが、自然に集まってきた近所のおじさん、おばさんたちの話から戦争が終わったことを知った。涙を流すとか、悲しんでいる人がいた記憶はない。米国が恐ろしい新型爆弾を使ったという話が出ていたように思うのだが、何かほっとしたという雰囲気だった。

 その数日前だったか、戦争がこわいものだと知らされる体験をしていた。夏休みに入ると、近所の荒川で水遊びをするのが日課になっていた。そこで水潜りや泳ぎ、魚釣りを覚えた。時折り空襲警戒警報が聞こえることもあったが、天気が良ければはるか高空を飛ぶB29爆撃機を見上げていた。

 その日は5,6人の仲間といつもの川遊びをしていると、警戒警報が鳴って下流の空に小さな機影が現れた。だんだん大きくなってくる。1人が近くの竹やぶに飛び込み、みんな後を追った。 

 あっという間に機影はかなりの低空飛行で頭上を越えて飛び去った。子どもたちの知識でも戦闘機とはっきり分かり、パイロットの姿も見えた。裸で竹やぶに逃げ込んだので、全身傷だらけになったが、それどころではない。水遊びを続けていたら機銃掃射を受けたにちがいない。みんなそう信じ込んで震え上がった。

 9月の新学期の初日、担任の若い女性の先生がいきなり黒板に大きな字で、これからは「民主主義」の時代になると書いた。それから筆と硯を用意させて、教科書のあちらこちらを塗りつぶさせた。残った頁の方が少なかったと憶えている。

 1年後の8月15日は東京・世田谷区の自宅の焼け跡のバラック建ての家で迎えた。3月10日の東京・下町大空襲のしばらく後に城西地区も空襲を受けた。わが家から二子玉川にかけての一帯は一面の焼け野原で、天気のいい日には夕焼けで真っ赤な富士山が手に取るようによく見えた。

 その後の8月15 日の政府主催の戦没者追悼式には特別の記憶は残っていないが、この20年ほどは8月15 日を「6日―9日-15日」という3連続の中の1日ととらえるようになった。6日広島、9日長崎という原爆投下の大統領命令も、日本に突き付けられたポツダム宣言も、ポツダムでの米国・英国・ソ連の3国首脳会談に出席中のトルーマン米大統領が会談休憩中に発令しているからだ。

 なぜ、こんな異常な事態になったのか。

 第2次世界大戦の対ドイツ戦争は、1945年5月初めに既に終結してから2カ月が過ぎ、米国ではルーズベルト大統領が同年4月に急死、トルーマンが後継大統領になっていた。チャーチル首相(英国)とスターリン党書記長(ソ連)は5月中旬には3首脳会談を開こうと呼びかけてきたが、延々と引き延ばして、両首脳をいら立たせてきた。

 ソ連の対日参戦が決まったのに、スターリンの署名を伏した宣言を出したポツダム会談はようやく7月17日に始まり、8月2日まで延々と約2週間にわたって続けられた。

 これも、もう一つのなぜである。     

                                   (了)