✺神々の源流を歩く✺ 第3回「記紀神話の不思議」

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宮殿から出た天照大神と大国主命 

 古事記の第10代崇神天皇の条に次のような有名な記事が出ている。『此の天皇の御世に、疫病多に起こりて、人民死にて盡きむと為き。爾に天皇愁い歎きたまひて、神床に坐しし夜、大物主大神,御夢に顕れて曰りたまひしく、「これは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(太田田根子・おおたたねこ)を以ちて、我が御前を祭らしめたまは神の気起こらず。国安らかに平らきなむ」とのりたまいき』

霊力の強い二神を別々に祭る

 ここには「崇神天皇」とあるが、この時代にはまだ「天皇」という名称はないので「大王」か「すめらみこと」だったとされる。

 これには前段があって、日本書紀によると、崇神天皇は三輪山の近くに宮殿を造って天照大神と大国主命の二神を祭った。ところが、凶作になりまた疫病がはやって多くの人が亡くなった。原因を知ろうと何度も占ったが、そのたびに二神は霊力が強いからセパレートするようにとの卦が出た。 
 そこで二神を宮殿から出して別々に祭ることになった。崇神天皇の皇女は天照大神の鏡を奉じして宮殿を出てまず、三輪山から山野辺の道を少し天理市に向かった笠縫の檜原神社に入る。この檜原神社も本殿はない。珍しい三つ鳥居から三輪山を直接、参拝する古い形式の神社だ。すぐ先を巻向川(まきむくがわ)が三輪山の方向から、山野辺の道を横切って箸墓古墳の方に流れている。

新羅から入ってきた須恵器

 天照大神はここにどのくらい滞在したのか記事にはないが、しばらくいて次に移る。

 一方、朝廷は八方手を尽くして大国主命の娘の太田田根子を探したところ、茅渟縣(ちぬのあがた)の陶(すえ)邑(むら)で見つかった。現在、堺市にある式内社陶荒田神社(中区上之1215)の辺りとされる。

 陶(すえ)は須恵器から転訛といわれ、この一帯は今でも須恵器の登り窯の跡が発見される。須恵器は灰色をした薄手の焼き物で、土師器より高い温度で焼くので固く、たたくと澄んだ音がする。韓国各地で観光用などに焼かれているが、5世紀ごろ新羅から列島に入り当時は、最新の焼き物だった。

国譲りは円満にいかなかったか

 こう見てくると須恵器の里で探し出された太田田根子は、渡来人ではなかったかと推測できる。ともかく二神を別々に離してお祭りし直すと、疫病や災害は治まったと記紀は伝えている。

 これはいったいどういうことを意味しているのか。記紀神話は天照大神が大国主命に国譲りを迫ったことを軸に展開されていくが、この国譲りは円満に行われたのではなかったことを物語っていると思われてならない。