「ノーベル賞候補に日本人2人」膨大なデータ重視の個別化医療研究 米学術情報サービス企業が重要性裏付け

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 ノーベル賞の季節になると米国の学術情報サービス会社「クラリベイト・アナリティクス」から興味深い発表がある。ノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、経済学賞を受賞してもおかしくない研究者名が明らかにされるのだ。今年は生理学・医学賞で中村祐輔東京大学名誉教授・シカゴ大学名誉教授、化学賞で藤田誠東京大学卓越教授の日本人2人が入っていたので、多くのメディアが報じた。

驚きの一言

 あれは日本でノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の受賞者がわずか4人しかいなかった1980年代初めのころだったと思う。日本でこれら三つのノーベル賞をもらえそうな研究者を推測するあてなど全くない状態で、東京大学教養学部の助教授(専門は化学)を訪ねたことがある。日本化学会の役員をしており、化学研究の現状に明るい、と誰かに聞いたのだと思う。驚きの一言があった。ノーベル化学賞の受賞者の推薦依頼が、選考機関であるスウェーデン王立科学アカデミーから日本に来るのは何年かに一度というのである。そもそも推薦することすら時々しかできないのに日本人が受賞するのは、至難のこと。日本人でもらえそうな人がいるかなどという雲をつかむような取材を国内でしても意味がない。そう思い、以後その通りにした。

 ノーベル賞の選考機関は毎年、まず世界各国から受賞者にふさわしい研究者を推薦してもらうという手順を踏む。後年知ったのだが、過去のノ―ベル賞受賞者には推薦権があるほか、例えば米国の場合、米国科学アカデミー会員にも毎年、受賞者を推薦してほしいという依頼が来る。米国科学アカデミーというのはリンカーン大統領時代に国の要請で設立された機関だが、中立の非政府機関である。優れた業績を持つ終身の正会員(米国籍)だけで約2400人もいる巨大な科学アカデミーだ。

有力受賞候補は米国だけで2百人も

 若い時から米国に移り、米国科学アカデミー正会員となっていた生物学者、大野乾氏(故人)に40年ほど前、インタビューしたことがある。大野氏は遺伝子重複説など顕著な業績で知られる。無論、ノーベル生理学・医学賞の受賞者推薦権を持つ。「今、受賞しておかしくない研究者は米国だけで200人くらいいる」という一言にあらためて納得した。米国で研究生活が長い、あるいは米国人との共同研究などで著名な米国人研究者によく知られる。そんな日本人研究者でない限り、受賞は困難。選考委員会に名前を知られること自体、難しいだろうから、と。

 冒頭に紹介したノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、経済学賞を受賞してもおかしくない研究者を選んで公表しているクラリベイト・アナリティクス社は、トムソン・ロイター社の学術情報サービス部門が独立してできた。それ以前、トムソンサイエンティフィックという社名だった2002年から毎年、ノーベル賞を受賞する可能性が高い研究者を選び「引用栄誉賞」を贈っている。こんな大胆なことができるのも、同社が世界中の主要な学術誌と主要な学会の講演要旨集に載った論文、講演要旨を集めた「Web of Science」と呼ばれるオンライン学術データベースを持っているためだ。分野は自然科学に限らず社会科学、人文科学も含む。

「引用栄誉賞」受賞者が有力候補に

 1970年以降、「Web of Science」に掲載された約5000万件の論文や講演要旨のうち、2000回以上、他の研究者に引用されているのはわずか5700件(0.01%)にすぎない。同社はまず、今年のノーベル賞授賞対象になると予想した研究領域を3~4種類選ぶ。引用される数が特に多い5700件の論文筆者の中から、この注目研究領域に当てはまる研究者、それぞれ1~3人が選ばれ、「引用栄誉賞」受賞者となる。1~3人に絞り込む際には、主発見者かどうかといった研究への貢献度や他の重要な賞の受賞歴も考慮される。これまで「引用栄誉賞」受賞者が同じ年のノーベル賞も受賞するずばり的中のケースもあれば、数年後に受賞したというケースもある。引用栄誉賞の公表が始まったのは2002年からだが、これまで受賞者の中から54人がノーベル賞を受賞している。

 筆者が「引用栄誉賞」を知ったのは、共同通信社を退社してすぐ科学技術振興機構の「サイエンスポータル」というウェブサイトの編集に関わって間もなくだった。2007年のプレスリリースを見て、「引用栄誉賞」の物理学部門に飯島澄男氏と戸塚洋二氏が選ばれているのに気づく。巨大なデータベースを基に定量的にノーベル賞受賞の可能性が高い研究者を割り出すという方法に、すっかり感心したものだ。労多くして功少なし! だれがノーベル賞を受賞しそうかなどという取材はそんなものと決め込んでいた身には、ちょっとした衝撃だった。

 当然、ウェブサイトのニュース欄で紹介したのだが、当時、新聞や放送がこのプレスリリースに関心を示したという記憶はない。今年の受賞者である中村祐輔、藤田誠両氏を含め、これまで日本人の「引用栄誉賞」受賞者は28人いる(うち2人は故人)。このうちその後、晴れてノーベル賞を受賞したのは、山中伸弥氏(2012年生理学・医学賞)、中村修二氏(2014年物理学賞、現在米国籍)、大隅良典氏(2015年生理学・医学賞)、本庶佑氏(2018年生理学・医学賞)と4人いる。当初、関心を示さなかった日本の報道機関も近年は「引用栄誉賞」発表に関心を持たざるを得なくなったということだろう。

 「引用栄誉賞」に関する話が長くなってしまったが、筆者がこの話を取り上げた大きな理由は、巨大なデータを基に重要な事実を割り出すことの意味とともに、中村祐輔氏の受賞に思うところが大きいことにある。

中村祐輔氏とのインタビュー

 今回、中村祐輔氏の「引用栄誉賞」受賞理由となったのは、「遺伝的多型マーカーの開発とその応用による先駆的な研究とゲノムワイドな関連研究への貢献により、個別化がん治療の先駆けとなった」研究である。「個別化がん治療」とは何か。10年前、当時、東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センター長だった中村氏にインタビューしたことがある。

 【サイエンスポータル「オーダーメイドがん治療目指し」】
https://scienceportal.jst.go.jp/columns/interview/20100125_01.html

 自身の研究がオーダーメイドの治療を目指すものだとして、日本でなかなか認めてもらえない実情も含め、次のように説明してくれた。

 「一人一人に薬をつくるのか、などとばかなことを言っている人がたくさんいる。そうではなくて、今ある薬のうちから、この薬はこういう人たちにいいのではないか、という医療だ。例えば、ある乳がんの薬は、肝臓でその患者の体内にある酵素を使って薬の成分に変わる。その酵素の働きが弱い人は薬をつくれない。この薬はおそらく日本で年間50億円から100億円使われている。しかし、日本人の5人に1人は飲んでも意味がない。こうした意味もない薬を別の薬に換えて再発を減らすことができれば間違いなく全体の医療費は減るはず。効かない薬を飲み続けて再発した患者さんの苦痛や、かかる医療費を考えれば今の状況がよくないのは明らかだ」

 「オーダーメイド(個別化)治療」を可能にするための基盤として中村氏が力を入れてきたのが、医療の基盤となるのが遺伝子多型データベースの構築である。こちらについては次のような説明だった。

「今、いろいろな病気を持ったDNAが30万症例分、集まっている。それを順番に解析していて、一昨年は生活習慣病とがんを、昨年からは肝臓や子宮の病気をやっている。糖尿病でも、日本人に特異な新しい遺伝子が見つかっている。糖尿病患者が腎臓をやられて透析になると患者さんの「QOL(生活の質)」がすごく悪化する。どういう遺伝的な背景を持つ人がどういう不健康な生活を送ると腎臓がやられやすいかが分かれば、それを予防できなくても少なくとも透析に入るのを遅らせることはできる。それは患者さんが健康に生活を送るという観点からも大事だし、国の医療費節減という面からも大きな意味がある」

日本での研究に見切りつけ米大学へ

 さて、こうした中村氏の大規模で意欲的な研究に対する国の支援はどうだったか。2009年に始まった「FIRST(最先端研究開発支援プログラム)」と呼ばれる大型プロジェクトがある。「新たな知を創造する基礎研究から出口を見据えた研究開発まで、3~5年で世界のトップを目指した先端的研究を推進する」とされ、30の課題に1000憶円の予算が付いた。中村氏も応募したが、採択されなかった。

 その後、中村氏は日本での研究に見切りをつけて2012年4月に米シカゴ大学医学部教授・個別化医療副センター長に転じている。2018年7月、公益財団法人がん研究会がんプレシジョン医療研究センター所長に就任するまでの6年余り、シカゴ大学で研究生活を続けた。クラリベイト・アナリティクス社は、中村氏の初期の論文(1987~1991年)が、11カ国82の企業からも引用されており、最も多いのは米国で39の企業に上ることも明らかにしている。

 日本よりむしろ米国で研究の価値が認められ、米国の学術情報サービス会社による膨大な論文データベースの分析で研究の価値が明確に裏付けられた。こうした中村氏のケースから、日本の科学技術や学術の振興策に不安を感じる人はいないだろうか。日本の科学技術・学術政策は明確なデータに裏付けられた政策になっているのだろうかという。