渡来系神社と習慣の宝庫
朝、大阪駅で福井行の特急の発車ベルが鳴っているので飛び乗ったら、敦賀には止まらずに福井まで連れて行かれてしまった。ほどなく上りの列車があったので、それほど時間のロスにはならなかったが、相変わらずの慌て者である。
敦賀の地名になっている角鹿(つぬが)神社とはどういう神社なのか見たいところだった。はじめての敦賀は、晴れ渡っていて空が高い。敦賀駅を出て中心街の大通りもアーケードの続く歩道も広々としていて気持ちがいいが、人通りが少ないのが気になった。
商店街は五軒に一軒ぐらいシャッターが下りている。いまや日本の地方都市ではどこでも見かける光景である。遅くなった昼を食べようと老舗らしい蕎麦屋に入ったら、店の中はお客でいっぱいなのでほっとした。
駅から15分ぐらい歩いてアーケードが途切れると、気比(きひ)神宮の独特の赤い両部鳥居(四脚造り)が現れた。境内に5、6人のグループの観光客が何組か訪れている。角鹿神社は広い境内の一角にあって、気比神宮の摂社になっている。
崇神天皇の時代に任那から渡来の祭神
気比神宮略記によると、角鹿神社の祭神は都怒我阿羅斯等命(つぬがあらひとのみこと)で、崇神天皇の時代に任那の王子としてこの地に上陸し、天皇、気比大神宮の司祭と政治を委せられるとあるから、相当の権限を持っていたとみられ、その政所(まんどころ)の跡に祀られている。
「敦賀市通史」によると、命の額に角のようなものがあったので、人々がこれを称して角鹿(つぬが)と呼んでいたが、それがやがて都怒賀に転じる。朝鮮の冠帽には当時は、角のようなものが立っていたので、それが角のように見えたらしい。
都怒我は日本に来てからつけた名で、阿羅斯等は朝鮮半島南部にあった小国、安羅からの渡来ではないかとの見方もある。敦賀市の紋章にも角が図案化されているから、人々からいまも親しまれているのに違いない。
記紀に登場する気比神宮
摂社の方が先になってしまったが、気比神宮は越前国一之宮で、古事記、日本書紀にも早くから登場する古社である。主祭神は伊奢沙別命(いささわけのみこと)で、ほかに仲哀天皇、神功皇后,日本武尊、応神天皇、玉紀命(たまひめ)、武内宿禰命が祭られる。中央の有名な神を勧請するというケースは、神社の歴史にはよくあることで何か政治的な事情があったのかもしれない。
「気比」(けひ)とは珍しい名前だが、「食の霊(けのひ)」「けひ」のことで、伊奢沙別命は笥飯(けい)、気比(けひ)大神とも呼ばれる。干拓や土木事業、米作りなどに活躍したのではないか。ここで注目されるのは伊奢沙別命には、天日槍(あめのひぼこ)説があることだがこれは別稿に譲る。
今も残る新羅、伽耶にちなんだ地名や習慣
敦賀地方には都怒我阿羅斯等、天日槍をはじめ渡来系の神を祀っている神社や、新羅、伽耶にちなんだ地名や習慣などが少なからず残っている。美保神社もそうだったが、福井県の白木村も、鶏や卵を食べない古い習慣がある。敦賀市沓見(くつみ)の信露貴彦神社(しろきひこ)は、新羅神社のこととされる。敦賀市には、渡来人がもたらした洗濯ものを棒でたたく習慣なども残っており、歴史の奥深さを感じる。