「アラブの春から10年」混乱と混迷の中、無残に消え去る 軍の裏切りでつぶされたエジプト 悲惨なシリアで死者は38万人に 

投稿者:


 中東と北アフリカを席巻した民主化運動「アラブの春」から10年。民主化を求めるデモが巻き起こり、長期独裁政権が相次いで倒れ、市民を熱狂させた。しかし、その後は紛争と政変、イスラム過激派の跋扈。アラブの春は無残に消えさり、混乱と混迷の10年だった。「春」は再び、訪れるのだろうか。

チュニジアから始まりエジプトなどに拡大

 アラブの春のきっかけとなったのは、2010年12月17日、地中海に面した北アフリカの小国チュニジアで、失業中の若者が警察に対する抗議で焼身自殺を図ったことだった。長期独裁政権の横暴に対する民衆の不満が爆発して反政府デモに発展、全土に拡大していった。11年1月14日にはベンアリ大統領の内閣が総辞職、大統領はサウジアラビアに亡命した。この事態がエジプトでも大きく伝えられていた。

 11年1月25日、エジプトの首都カイロ中心部のタハリール広場に数十万人、全土で百万人を超える民衆が集まり、30年間、独裁支配を続けていたムバラク大統領の辞任を要求して決起した。軍も警察も広場での弾圧を避け、大統領は2月1日、9月に予定される次期大統領選挙の不出馬を発表して大統領官邸から去った。この18日間の民衆の行動と成果は「アラブの春」「1月25日革命」と呼ばれる。この間、広場外での治安警察部隊の発砲などで、850人の若者が犠牲になった。

エジプト初の民主的選挙で選ばれた大統領に軍のクーデター

 しかし、民主化運動の広がりとともに、各国でクーデターや内戦が発生、多数の悲惨な事態も続き、拡大していった。

 エジプトでは、ムバラク政権後の暫定統治を経て12年5月に、大統領選が行われた。史上初の自由選挙となり、イスラム組織「ムスリム同胞団」出身で自由公正党のモルシ党首が勝利して大統領に就任した。モルシ政権は当初、組織外の政治家なども加え、安定政権としての期待を国民に抱かせたが、間もなく偏狭なイスラム色の強い政策を実行し始め、主要閣僚をイスラム同胞団のメンバーに替え、12年12月には、イスラム原理主義色の強い新憲法制定を強行した。しかし経済政策に失敗、リベラルな国民の反発が強まった。翌13年6月以降、連日数十万人の反政府デモが発生。

 7月3日、シシ国防相率いる軍がクーデターを起こし、モルシ大統領以下同胞団メンバーと同調者の閣僚、政権幹部を逮捕、投獄。以後、全国で同胞団狩りを進めた。シシは14年1月、軍の権限を強化する憲法改正を国民投票にかけ承認された。さらにシシは15年5月に大統領選を実施して勝利、6月に就任。同年10月-12月の国会議員選挙では、ムバラク政権時代の与党議員を加えて圧勝、現在に至っている。

シリアではアサド政権の冷酷な弾圧

 エジプトと共にイスラエルと4回の戦争を戦ってきたアラブの大国シリア。多くの国民がエジプトでの「アラブの春」に敏感に反応。2011年3月15日、首都ダマスカスで、小規模な民主化要求のデモを開始した。南部のダラアで18日、数千人の民主化要求のデモに発展。まもなく全国各地に広がった。

 シリアでは、1970年に軍部のクーデターで独裁的な権力を握った故ハフェズ・アサド大統領が死去(2000年)。後継者となった次男のバシャール・アサドが以後、独裁与党バース党と軍を支配してきた。エジプトでの「アラブの春」の展開に敏感に反応、2011年4月21日、治安当局に強い権限を与えてきた非常事態法を撤廃、8月には与党バース党による事実上の一党独裁から、複数政党制につながる政党法の見直しを規定した法案を議会で可決。8月には複数政党制につながる政党法を承認する大統領令を出し、同法が発効した。

 しかし、大統領とバース党の一党支配は変わらず、民主化を求める勢力のデモと治安部隊との衝突はさらに拡大した。民主化勢力は9月、「シリア国民評議会」を結成、政権側の軍や治安機関から離脱したメンバーも加えて、アサド政権への武力抗争を全国に拡大していった。

 それから10年。アサド政権と軍、治安機関は、民主化を要求してあくまで抵抗する反アサド勢力の全滅を目指して、戦いを続けてきた。アサド政権をロシア軍が空爆で支援、民主化勢力を限られた規模ながら米国とトルコが支援してきた。政権側の攻撃は冷酷で、民主化勢力に降伏か全滅かの選択を事実上迫ってきた。現在、民主化勢力が支配している地域は北西部の狭い地域に限られている。政府軍の攻撃で、多数の国民が死亡、シリア国民の半数以上が国内で難民化するか、レバノンはじめ周辺諸国に避難して難民化、少数はトルコ経由で欧州諸国に難民として逃れ、各国に住みついた。

シリア総人口の半数以上が悲惨な難民

 英BBC放送はことし1月26日シリア難民の実情を報じた。それによると、この10年間に発生した難民総数は1200万人以上で、うち約660万人が国内難民、560万人が国外に逃れ、難民となった。内戦開始当時のシリア総人口は約2200万人。各地の難民キャンプの住民150万人の80%は子供たちと女性たち。

 インターネット上の百科事典「ウィキペディア」によると、2015年段階の難民の行き先は、国内難民は少なくとも760万人以上。国外難民の内訳はトルコに約180万人、レバノンに117万人、ヨルダンに63万人、イラクに25万人、エジプトに13万人。トルコから欧州諸国に移住したシリア難民も相当数いるが、その総数は分からない。

 20年3月14日、国際的な信頼度が高い「シリア人権監視団」は、10年目を迎えたシリア内戦による死者について、38万4000人(うち民間人11万6000人超)、難民や国内避難民は100万人以上と発表した。

 日本政府に難民申請を行っているシリア人は、18年6月までに81人で、うち認定されたのは15人だ。