第36回 香春神社
香春の里は「秦王国」だった 渡来人が祭った守護神
五木寛之の「青春の門」に登場し、「月が出た出た」の炭坑節は、この香春(かわら)岳をうたったもので、盆踊り歌として全国に知られる。香春神社はJR香春駅から神社の大鳥居まで、香春岳の三つの峰に向かって、炭坑節を口ずさみながら田園地帯を歩くこと15分。
炭坑節にうたわれた香春岳
香春岳は田川盆地の三つの峰の総称で、南から北へ、一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と並び、古代から神の住む山として田川の人々に親しまれた。三つの岳は石灰岩でできていて一ノ岳の中腹にはセメント工場がある。492メートルの高さのほぼ半分が削られた。周囲の山は青々しているのに、ここだけ白く平らになって痛々しい。
香春町役場の前に立っている「豊後国風土記逸文」の石碑が、香春の歴史を簡潔に説明してくれる。「田川の郡。香春の郷、郡の東北のかたにあり。此の郷の中に河あり。…此の河の瀬清浄し。因りて清河原の村と号(なず)けき。今香春の郷と謂ふは訛れるなり。昔者、新羅の国の神、自ら渡り到来(きた)りて、此の河原に住みき。便即(すなわ)ち、名づけて河原(かわら)の神と曰ふ。…第二の峯には銅、并(ならび)びに黄楊(つげ)、龍骨等あり。第三の峯には龍骨あり」―。龍骨とは動物の化石で、不老長寿の薬とされる。
神社の説明書によると、「一座、祭神は辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおめのみこと)(神代、唐土の経営に渡られ給い崇神天皇の御代にご帰国、香春に鎮まり給う)。二座、忍骨命(おしぼねのみこと、天照の第一の皇子で、香春二の岳に鎮まり給う)。三座、豊比咩命(とよひめのみこと、神武天皇の外祖母。住吉大神宮の御母にて三の岳に鎮まり給う)709(和銅二)年、一ノ岳南麓に一社を築き三神を合祀し香春宮と尊称した」とある。
香春の銅は東大寺の大仏にも
辛国息長大姫大目命の「辛国」とは、韓国のこととされるから、朝鮮半島から銅の採掘者や精錬技術を持った人々が、守護神として祭った神に違いない。これに対して「太宰管内志」によると、古事記では神功皇后について息長帯比売命・大帯比売命と記述しいる。この息長姓は出石神社の項でも触れたが。渡来神の天日槍の子孫とされている。したがって辛国息長大姫大目命と神功皇后は同一性ではないかということになるが、そうなると「三韓征伐」とは何だったのか。旧領地の奪還を目指したものではなかったかという空想もわく。
第三の峯の麓の「採銅所」は「採銅所小学校」、JR日田彦山線の駅名にもなっているが、ここで活躍した人々は、283(応神14)年に秦氏が百済の百二十県の民を率いて、渡来した弓月王の後裔だとされる。香春の銅は東大寺の大仏、和同開珎にも使われた。
大和岩雄氏の「秦氏の研究」、加藤謙吉氏の「秦氏とその民」によると、香春の地は新羅、加羅系の秦族が開発し「秦王国」を形成していたのではないかとしている。
宮司は往古の渡来人
歴史のある小字名は、今は使われなくなったので、町役場で古い地名の地図をみせてもらった。カラクリ、唐ヶ谷、唐花、唐ノ山、唐細工、唐人池、唐木、唐川、唐子橋、唐ノ町、唐人原、呉屋敷、呉、クレ町など、いずれも渡来をうかがわせる町名である。
赤染氏はあいにくお留守だったが、香春神社の古くから宮司を務める赤染、鶴賀両家は往古の渡来人で、清少納言や紫式部らと同時代の歌人、赤染衛門は一族という。西鉄の駅名に「白木原」(しらきばる)があり、東京銀座にあったデパートは「白木屋(しろきや)」と読んだ。イングランド民謡の唱歌「埴生の宿」や「庭の千草」の作詞者、里見義(ただし)氏は、香春神社の神職を務めていた。