<安倍氏国葬(下)> 法的根拠が不明確な国葬は撤回すべきだ 「お別れ会」方式の「自民党・民間合同葬」がベスト 100年前暗殺の「平民宰相」原敬の遺訓思い起こせ  

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 私が安倍晋三元首相の「国葬」に反対する第2の理由は、「法律的根拠がもともと不明確である」という問題である。この問題も「国葬」を考える上で、避けて通ることのできない重要なテーマなので、法律の素人なりに私の考えをまとめておきたい。

 「霊感商法」などで問題となっている統一教会(現、世界平和統一家庭連合、以下「統一教会」とする)と安倍元首相や現職閣僚、自民議員との「選挙などでの便宜供与」「関連団体でのあいさつ」など〃ズブズブな関係〃がメディアによって次々と暴露されている。8月2日には、野田聖子少子化担当相が統一教会の関連団体のシンポジウムに2度にわたり祝電を送り、そのうち1回は秘書が代理出席していたことを認めた。その付き合いには濃淡はあるものの、岸田文雄内閣で何らかの統一教会との接点を認めた閣僚はこれで5人。疑惑の中心のひとつ、「統一教会の名称変更問題」で、2015年の変更を認めた際の文科相だった下村博文氏は3日、改めて名称変更への「関与」を否定したが、翌16年に教会と関連が深いとされる新聞社「世界日報」から6万円の献金を受け取ったことを認めた。底がどこにあるかわからない統一教会との〃政治家汚染〃が広がる中、国会もようやく動き出した。

 しかし、3日から始まった臨時国会は会期はわずか3日間で実質審議は行われない。統一教会問題での「政権への打撃」を懸念する自民党が逃げ切った形だ。ただ、はじめは開催に抵抗を続けてきた自民党もさすがに内閣支持率の急速な下落などで「このままでは国民の理解を得られない」と考えたのだろう。自民党は「閉会中審査」という形で妥協し「安倍氏国葬」や「統一教会問題」を議論することに1日、立憲民主党などと合意した。「閉会中審査」の日程は決まっていないが、とりあえず、これを見守るしかない。

岸田首相の決断の政治的理由 

 9月27日の東京・千代田区の日本武道館での安倍氏の「国葬」については、海外からの弔問客を含めて参列者への意向確認が事務当局によって、進められている。岸田首相は「丁寧な説明」という言葉を念仏のように繰り返すばかりだが、総理大臣経験者の「国葬」については、1967年の吉田茂元首相の「国葬」を含めて、その法的根拠はもともと不明確で野党などは「その根拠がない」と指摘してきた。「閉会中審査」で政府がどのような説明をしたとしても、岸田首相の〃決断〃に基づく「政治的理由」以外は「説得材料」がないので、おそらく「安倍氏国葬」に反対する国民や野党が納得する結果にはならない、というのが私の見立てだ。

 あくまでも「安倍氏国葬」については、「安倍氏国葬(上)」で示した統一教会と安倍氏、自民党議員との関わりに加えて、法的根拠が明確でないことからも、日本の民主主義のためにも政府は「国葬」を撤回すべきである。「元総理国葬」は一般企業でいえば、いわば、国民を巻き込んだ「お別れ会」だ。私は国費を全く投じない「自民党・民間合同葬」の形にすることがベストであると考える。「毀誉褒貶」が激しい政治家ではあったが、多くの支持者から慕われていた安倍氏にふさわしい「葬儀の形」であると考えている。

 ただ、国葬の決定からかなり時間も経過している。そこで、一歩、譲って考えると、費用の全てが必ずしも国費ではない形の80年の大平正芳元首相以来、2020年の中曽根康弘元首相まで、9人の現・元首相(このうち88年の三木武夫氏は衆院・内閣合同葬)の慣例となってきた「内閣・自民党合同葬」の形で、岸田政権はおさめるべきではないのか。これは現実的な「次善の策」である。私がベストとする「葬儀の形」とは異なるものの、これまでの慣例なので、国民の反発は「国葬」よりは小さいと思う。安倍政治には、森友・加計学園や「桜を見る会」を巡る問題に象徴される「権力の私物化」への国民の批判がつきまとう。安倍氏だけがなぜ「特別扱いの国葬」なのか。私はとても納得がいかない。共同通信の世論調査で国葬反対が賛成を上回ったことがそれを証明している。

 「人の死は、本当にその死を悲しみ悼む人々によってとむらわれるべきである」(成城大学教授森暢平(ようへい)氏が最近のサンデー毎日で紹介)とのジャーナリストの大先輩、元毎日新聞論説委員松岡英夫氏(故人)のことばをいま一度かみしめたい。

自民タカ派の取り込みか

 7月8日昼前、奈良で参院選での自民党候補の応援演説を始めた安倍元首相(67)が山上徹也容疑者(41)の手製の銃により殺害された。その4日後の12日、東京・増上寺での家族葬を終えた安倍氏のひつぎが車に乗せられ首相官邸の前で止まると、岸田首相は目を閉じて手を合わせた。「国葬に近い形にしたい」。執務室に戻った首相は思いを秘書官に打ち明ける。準備が急ピッチで始まった(東京新聞7月23日付朝刊)。

 家族葬前日の11日、安倍派会長代理の元文科相下村博文前政調会長は、BS日テレの番組で「岸田首相はリベラル系、自民のコアの保守の人たちを安倍さんあるいは清和政策研究会(安倍派)がつかんでいた。それを疎んじることになったら、コアの保守の人たちが自民から逃げるかもしれない」と語った。下村氏は岸田氏への(9月に予定されている内閣改造)後の人事をけん制しただけでなく、「安倍氏の国葬を行うべきだ」と主張した(13日付朝日新聞朝刊)。

 「麻生太郎副総裁が12日夜に岸田首相に携帯電話で国葬の決断を促した」(週刊朝日8月12日号「強引すぎる『国葬』裏事情)という記事や、沿道を埋める長い弔問の列など家族葬の盛り上がりをみて岸田氏は「国葬」を決断した、との報道もある。いずれも、普段は優柔不断にみえる岸田氏がなぜ「国葬」という重大な決断をしたかを理解する上で参考になる。

 〃ホンネベース〃の決断の理由を岸田氏は明らかにしているわけではない。安倍氏を「国葬にすることにより外国から派遣される要人のレベルも高くなる」と書く新聞もある。ジャーナリストの田崎史郎氏がテレビ朝日系の「羽鳥モーニングショー」に出た際に語った「自民党は楕円形をしており、その左側にリベラルの岸田氏、右側に保守の安倍氏がいた。右側がいなくなったので、岸田氏はその取り込みが必要となった(うろ覚えなので、そういう趣旨だと私はとらえた)」との解説にも説得力がある。私も岸田氏には、首相まで上り詰めた政治家なので、一見、優柔不断にみえるが、当然、党内のタカ派を利用することはあると思われる。

 岸田首相による「安倍氏の死の政治利用」の側面は強い。タカ派取り込みにより政権を盤石なものにして、「黄金の3年間」といわれる次の国政選挙までは政権を維持し、長期政権を作る、というしたたかな構想が見え隠れする。しかし、その思惑は、「国葬反対」の世論が少しづつ高まりつつあり、必ずしも思うようにはいかなくなっているのではないか。すでに外国の要人をはじめ参列者への打診が始まっており、いまさら「国葬」を「合同葬」に格下げすることなど「内閣の信用」に関わるので困難な状況だ。がんじがらめの中で政権を維持するのは容易ではないだろう。うまくいったと思ったら、政敵にすぐひっくりかえされる。海千山千の政治家の「一寸先は闇」は政治の常である。

「総理経験者の国葬」は実施しないことが慣例

  内閣総理大臣経験者の「国葬」は1967年の吉田茂元首相以来55年ぶりとなる。それ以来、75年、ノーベル平和賞の受賞者で沖縄本土復帰という功績のあった安倍氏のおじの佐藤栄作元首相や「大勲位」といわれた2020年の中曽根康弘元首相の葬儀の際にも「国葬案」が自民党内で持ち上がったが、いずれも党内事情や内閣法制局の「法的根拠が不明確」との見解を受けて、「国葬」は実現しなかった。佐藤氏は「国民葬」だった。「国民葬」が「内閣・自民党合同葬」とどのように違うのか、国費はいずれも一部は投入するので、よくわかりにくい。中曽根氏の妥協策だったとの説もあるが、はっきりしない。国葬規定や基準がないからこういうことが起こる。自民党が国会議論を避けて、「閣議決定」で勝手に決めるからこういうことが起きる。どう転んでもその責任は岸田政権にある。 80年の大平正芳元首相以来、「内閣・自民党合同葬」が定着していた。むしろ、吉田氏は例外で、法律的根拠の希薄な、「根拠がない」といってもいい総理経験者の「国葬」はむしろ「実施しない」ことが、政権に慣例として受け継がれてきた。このことは、安倍氏の「国葬」を考えるうえで、非常に重い事実である。

岸田首相、実は「国葬」に自信がなかったのでは

 「法的根拠が必要だから、(内閣)法制局には何度も『大丈夫か』と確認した」。岸田首相は7月14日の記者会見で安倍氏の国葬の実施を発表した後、周囲にこう語った。(産経新聞社のニュースサイト「産経ニュース」7月16日)。 朝日新聞は国葬決定翌日の「時時刻刻」にこう書いている。
「政府内に『行政訴訟のリスクがある』との慎重論もあった。そこへ内閣法制局から内閣府設置法を理由に天皇の『即位礼正殿の儀」などと同じ政府単独による国の儀式としてなら、閣議決定を根拠に国葬も可能だと法的に整理した内容だった」。(岸田首相)「政府だけでできるなら、国葬でいこう」(7月23日付朝刊)。

 何度も「大丈夫か」と法制局に確かめたり、「できるならいこう」と言ったり、岸田氏の気持ちは動揺しているようにみえる。首相の判断はいかにも自信なさげで、かつ軽い感じすらにじみ出ている。これまで国葬ができなかった先例の教訓となぜ、首相は真摯に向き合わなかったのか。むしろ、自分にとって都合のよい内閣法制局見解に飛びついた、というところだろう。

 内閣法制局は行政機構の一員でありながら、長い間「憲法の番人」といわれ、時の政権と法律解釈などで対立することもあった。それを「集団的自衛権」を容認しようと、安保関連法制で当時の安倍首相が突然、堂々と長官を自分の意のままになる人にすげ替えた。それ以降、内閣法制局は「政権の番人」なっているのではないか。「憲法裁判所」のない日本で戦後、内閣法制局は時の政権の法律的お目付役と評価されていた。ここにも安倍政治の弊害が出ていると私は考えている。私が現役時代お会いし、先輩の政治部記者に誘われて「昭和天皇死去」の際の葬儀や即位の法律的根拠をどうするのか、について何度か取材した法制局長官は、角田礼次郎氏だった。戦前の反省からか、憲法の政教分離原則を非常に厳しくとらえる方で、政権に忖度するような人ではなかった。長官から最高裁判事となり、20年11月、99歳で亡くなった。こういう気骨のある立派な人がもう長官になることはないだろう。

怪しい「国葬儀」という言葉

 「総理国葬」の根拠法だった戦前の「国葬令」は、47年12月、憲法20条、89条の「政教分離原則」との関係で失効になった。従って、現在、「総理国葬」の根拠となる法律はない。戦前の国葬令では、天皇や皇族を除いて「国家に偉功あるもの死亡したる時は特旨により国葬を賜ることあるべし」と書かれ、実際は時の政権が決めていたが、タテマエは天皇から特別に賜るものだった。

 米軍機に狙われ撃墜死した山本五十六連合艦隊司令長官の43年6月の国葬は、日米開戦をめぐり山本長官と意見を異にした陸軍出身の東條英機首相による戦意高揚への宣伝に利用された。いまも、「国葬」は時の政権に政治利用され、「神話化」や国民へのナショナリズム高揚の道具となる危険性をはらむ。

 立憲民主党前衆院議員の 山花郁夫氏はブログで「国葬について」とのテーマで「安倍氏国葬」について詳述している。いろいろ、ネットなどで調べてみたが、山花氏は戦前の「国葬令」から安倍氏の「国葬」まで詳細に法的根拠について調査しており、このブログを書く上で、私にはとても参考になった。
 
 山花氏によると、戦後唯一の元総理の国葬となった67年の吉田茂元首相の場合、当時の佐藤栄作政権は「国葬」ではなく、「国葬儀」だと説明した。国葬令に書かれている「国葬」だとすると、「国民に喪に服すること」を強制することになり、憲法上問題となる可能性があるからだった。今回も政府は「国葬」とはいわず「国葬儀」と言っているのはそのためだ。だから、岸田首相は7月14日の記者会見で「国葬儀」であることを明言し、松野博一官房長官は「国民一般に喪に服すことを求めるものではない」ことをことさら強調した。

 佐藤内閣は、閣議決定によって「事実上の国葬」ができるとする政府見解に基づいて「吉田国葬」を行った。「国葬儀」は、皇室典範や退位特例法に法的根拠のある天皇や上皇の「大喪の礼」(憲法上の「天皇の国事行為」の「儀式を行うこと」に当たると解釈されている)が「国葬」なので、どうも、苦肉の策として「国葬儀」という言葉を使っているようだ。「大喪の礼」が「国葬」に当たるので、「内閣府設置法」などを持ち出して「国葬」とは別の「事実上の国葬」あるいは「準国葬」として法制局がひねり出したものだと考えられる。「吉田国葬」も一応、その法的根拠は「総理府設置法」だった。

国葬基準や立法化を50年以上放置

 山花氏のブログに掲載された吉田国葬の翌年68年4月の国会議事録によると、当時の社会党議員が吉田氏の国葬や大正天皇の皇后、貞明皇后の葬儀に関連して「国葬令の効力がいまもあるのか。国葬に関する法律を準備する用意があるのか」と質問。これに対して、田中龍夫総務長官は①吉田氏は、戦後の国政に非常に貢献をした。吉田氏の遺徳を国民がしのぶという意味において、閣議の議により行った②「皇室喪儀令」も失効していたにもかかわらず、貞明皇后のときに国の経費をもって執り行ったのは、「行政的な事実行為」にすぎない③国葬の今後の立法化、法制化は考えていないーなどと答弁している。このあとの国会でもこの問題について政府と野党のやりとりが続いた。68年5月と69年7月での決算委員会や内閣委員会でのやりとりを8月2日付東京新聞朝刊は紹介している、当時の自民党の閣僚は、国葬には「何らかの基準が必要」「検討が必要」と答弁していた。これは「法的根拠が不明確」なことを政府が認めたともとれる答弁だった。

 また、75年の佐藤栄作元首相死去の際にも「国葬」が検討された。当時の吉國一郎法制局長官は「『国葬の場合には、立法、行政、司法に及ぶ』(75年6月3日、日本経済新聞)とし、国葬とするには三権の合意が必要だと説いた」(森暢平成城大学教授「社会党と内閣法制局の力で佐藤栄作国葬は阻まれた」8月1日、サンデー毎日Online)。今日の「自民1強」に比べて当時は野党の力も強く、法制局もそれなりにしっかりと対応していたことが分かる。

 これらの国会議事録をみると、「吉田氏国葬」について、「非常に貢献をした」といい、また貞明皇后の葬儀も51年6月に「事実上の国葬」で行ったが、このことについても「行政的な事実行為にすぎない」と述べている。「国葬の立法化」については、はじめは「考えていない」から「何らかの基準が必要」に答弁が変化していることが分かる。ここで確認すべきは、「吉田氏国葬」も法的な根拠が不明確のまま行われ、その後も「国葬の基準や立法化」の要請が野党からあったにも関わらず、政府はこの問題を50年以上も放置していたことになる。だから、「吉田茂氏国葬」の前例自体の法的根拠は怪しいのだ。

「内閣府設置法は根拠にならない」

 私は現職を含む内閣総理大臣経験者の「国葬」については、現行法では皇室典範や退位特措法に「大喪の礼」として法的な規定のある「天皇」「上皇」以外は、「国葬」はできない、と考えている。ここで2人の憲法学者の安倍氏の「国葬」に関する見解を紹介しておく。

▼閣議決定は違憲
 「内閣府設置法」は「国の儀式」をするのは他の法令がない限り『内閣府』だと定めただけで、こんなものを無理筋に持ち出して実施できるのか、疑問である。憲法学者の小林節慶応大名誉教授は「設置法は皇室典範で決まっている国葬(大喪の礼)などの儀式を内閣が執行する規定であって、内閣が元首相の国葬という新しい儀式類型を創出してよいという規定ではない。今回の閣議決定は明らかに違憲だ」との厳しい見解だ(7月27日、AERA dot「安倍晋三元首相の『国葬』に疑問)。
▼「法律による行政の原理」に従うべきだ
 また、飯島滋明名古屋学院大学教授(憲法学)は少し細かい議論を展開する。「国葬にするかどうかを決めるのであれば、主権者から選ばれた国会議員が制定する法律に従って決めるべきだとの行政法の常識である『法律による行政の原理』に従うべきだ」と前置き。「国葬」を実施するには、行政活動の「要件」(国葬でどのような行為が行われるのか)と「成果」(例えば、休日になる)などを定めた「根拠規範」がなければならない。この点から見て、政権が主張する「内閣設置法」は「国葬」の「要件」や「成果」などを定めていないので「根拠規範」ではない、として「内閣設置法は安倍氏国葬の法的根拠とはならない」と結論している。(7月22日、ブログ「壊憲・改憲ウオッチ」)。なるほど、専門家の話は聞くべきだ。単に安倍氏には「大きな功績があった」ことを単純に根拠とする有識者の言説もけっこうあるが、私にはこの2人の理屈は「なるほど」と感じた。いずれの見解も私は納得である。

「行政マター」などとは認められない

 7月31日、フジテレビ系番組「ワイドナショー」で国際政治学者の三浦瑠璃氏が「大喪の礼」の読み方を間違えた上、「天皇陛下は国葬だというのに(天皇の)権威は認めるけど、民主主義で選んだ総理にはダメというのはおかしい。決めるのは行政マターだ」という趣旨の発言をして話題を呼んだ。字の読み方などは私も間違えることがしょっちゅうあるので、それだけの批判はいかがと思うが、三浦氏の問題提起にはそれなりに賛成する人もいるのではないかと思うので反論しておく。

 やはり、私は三浦氏のいう「行政マター」はとても認められない。極端に言えば、「国葬は時の政府が勝手に決めていい」と言っているのと同じだと思う。総理や総理経験者を「国葬」にするなら、やはりその根拠となる法律が必要だ。法律には、「国葬の条件」をきちんと書き込む必要があるだろう。その在任期間、現役だったかどうか。そしてその「功績」。一番判断が難しいのは「功績」の評価だろう。「功績の評価基準」を法律に書き込むことは実際にはなかなかできないのではないか。だから、歴代政権もこの問題を長い間、放置してきたのだろう。米国のように大統領は亡くなったらすべて国葬、と単純化することもひとつの方法である。ただ、大統領は「国家元首」であるが、首相は元首ではない。ここで天皇が元首かどうかは立ち入らない。立法化するかどうかを決めるのも国会の重要な仕事である。ただ、「国葬」を法制化した場合、どうしても「故人の神話化」や「ナショナリズム高揚」など「負の面」が出てくることは避けられないのではないか。この危険性もあることを配慮した上で、「国葬法制化」の議論は進めるべきではなかろうか。

「死ねばもはや私人」という言葉の重さ

 安倍元首相銃撃事件から100年前の1921年(大正10年)11月4日。現職の首相であった原敬(歴史上の人物なので敬称は略した)は東京駅で国鉄大塚駅で働く貧しい青年に刃物で胸を刺されて殺された。背後関係はいまだにはっきりしていない。原は首相になって3年。65歳だったので安倍氏とは2つ違いだった。朝敵となった東北の南部藩盛岡出身の原は薩摩や長州が大手を振るう時代に抵抗しながら外交官、ジャーナリスト、政治家として活躍。その政治手法は、「戦後の自民党政治のモデル」(ジャーナリスト、池上彰氏)とも言われた。「立憲政友会」の第三代総裁に就任して、日本で最初の本格的な政党内閣をつくった。終生、「爵位」を持たなかったため「平民宰相」と国民から親しまれた。

 東京駅で死去した際、駆けつけた夫人の浅は「亡くなればもはや官邸には用のない人ですから」といい、首相官邸ではなく、現場から直接、遺体を芝の自宅に運ばせた。このとき、「死ねばもはや私人」と夫人が言ったと書かれた伝記もある。事件の約9カ月前の2月22日、原は原稿用紙に「遺書」をしたためていた。「遺言」ともいえるその遺書には①死去に当たって位階勲等はすべて辞退すること②東京では何らの式を営まず、遺骸はただちに盛岡に送り、大慈寺(原の菩提寺)に埋葬すること③墓石の表面には姓名以外、戒名も位階勲も記さぬこと④葬式の際、儀仗兵などはむろん願ってはならないーなどが書かれていた。
 
 原の霊柩は11月7日、上野駅をたった。4日後の11日に本葬が大慈寺で営まれた。伝記では市民多数が見送った、という。完全な「市民葬」だった。寺の墓碑銘は遺言通り最後の元老、西園寺公望の筆による「原敬墓」の3文字のみ。隣には全く同じ形、同じ大きさの「原浅墓」が建つ。作家の石井妙子氏は「人間は平等と考え『平民』を貫いた原の強い信念が伝わってくる」と書いている(雑誌「選択8月号」をんな千一夜 原浅 平民宰相『暗殺』と後妻の信念)。(注 この項目は石井氏の文章や松田十刻氏の「颯爽と清廉に 原敬」、伊藤之雄氏の「真実の原敬」、佐髙信氏の「平民宰相原敬伝説」などを参考にした。

 東京・永田町の自民党本部の幹事長室には「宝積(ほうじゃく)」と書かれた原敬直筆の扁額が掲げられている。自民党衆院議員で安倍政権で内閣府副大臣をつとめた赤間二郎氏のブログによると、仏教用語で「人に尽くして見返りを求めない」という意味だそうだ。現在の自民党幹事長は茂木敏充氏。安倍氏の国葬について「国葬反対は国民の認識とずれている」と述べて、国民のひんしゅくをかった。そして、8月2日の記者会見で統一教会と自民党との関わりを問われて「党として関係部門に確認するよう指示し、これまで一切の関係を持っていないことを確認した」と述べた。立憲民主党や日本維新の会が統一教会と接点のある議員を調査し、まがりなりにもその結果を発表したのと大違いだ。統一教会と政治の問題を追及してきたジャーナリストの鈴木エイト氏の発表した接点のある自民党国会議員は100人近くと野党と比べものにならないほど多い。茂木氏のような対応では、自民党の自浄能力にはとても期待できない。

 7月12日の安倍氏の家族葬。会場の増上寺からひつぎが出発する際、陸上自衛隊の特別儀仗隊が出口で参列し、弔意を表した。磯崎仁彦官房副長官によると「元最高指揮官だった安倍氏に弔意を表するためで、防衛省令の定めによる」(東京新聞7月29日付朝刊)ということだそうだ。いうまでもないことだが、「家族葬」は安倍家の私的な葬儀。実弟の岸信夫氏が防衛相で、いくら法的根拠を強調したところで、納得できない人もいるだろう。 原敬の遺言には「葬式の際、儀仗兵などはむろん願ってはならない」と書かれていた。自民党は「死ねばもはや私人」との原敬の遺訓を思い起こしてほしい。こういうことも含めて安倍氏の「国葬」には反対である。