<放送法の解釈変更問題(その3)> 「放送の自由」を守るためにはどうしたらいいのか 〃サル発言〃に惑わされず、「問題の原点」に戻れ 「政治的公平性」政府見解の撤回にとどまらず法改正などの「再発防止策」は必要だ 

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   安倍晋三政権下で首相補佐官が介入したことが告発文書で判明した放送法の「政治的公平性」をめぐる解釈変更問題。立憲民主党の小西洋之参院議員の衆院憲法審査会に対しての〃サル発言〃で、真の問題点がそらされて問題がうやむやになる可能性が出てきた。本来問題の核心は、憲法の「表現の自由」に関わる民主主義の基本問題だったはずである。4月3日から始まった後半国会で立憲民主党は小西発言があってか、この問題を〃封印〃したかのように放送法の総務省文書のテーマに触れなくなった。

重要なのは「放送法の解釈問題」か〃サル発言〃か

 メディアの中には、総務省審議官が国会で解釈変更前の従来解釈を認める答弁をしたことから、これで問題は幕引きとなるのではないかと予測する報道も出始めた。立憲民主党をはじめ野党が直ちにやるべきなのは、岸田文雄首相自らによる放送法の「政治的公平性」をめぐる2016年2月の「政府統一見解の撤回」である。それと同時に、日本以外の先進7カ国(G7)加盟国にはある「政府から独立した放送免許などを扱う行政機関」の設立や、「倫理規定」のはずが、いつの間にか「法規範」となってしまった放送法第4条の「番組編集準則」など法改正の検討を含む「再発防止策」の議論を国会の場で始めるべきではないか。いまこそ、そのチャンスである。このままでの幕引きは許されない。

 「総務省文書」を国会の場で取り上げた〃立役者〃は小西氏だ。その小西氏が衆院憲法審査会について、記者団に「(審査会の)毎週開催は憲法のことなんか考えないサルがやることだ」と発言。このことをフジテレビなど一部メディアが報道したことに対して、3月29日、総務官僚出身の小西氏は「(総務省)元放送政策課課長補佐にけんかを売るとはいい度胸だ」などとツイッター投稿した。小西氏はフジテレビが「国会審議の核心論点を報道していない」とその報道姿勢に不満を示した上で「放送法違反でBPO(放送倫理・番組向上機構)等に告発することが出来ます」と発信したという。これが報道への〃圧力〃と受け止められ、この問題を追及してきた朝日新聞なども大きく報道した。

 小西氏は参院憲法審査会で野党側の筆頭幹事を務め憲法改正に積極的な与党と対立してきた。そういう経緯もあり、衆院審査会の毎月開催を批判する中で、オフレコで記者に話した内容に〃サル発言〃があったという。小西氏は発言後「人にサルはいけないですね」と撤回したものの、この部分をフジテレビなどに切り取られ報道されたと、主張している。仮に事実関係が小西氏の言う通りだとしても、さすがに、憲法審査会をサルに例えたことは〃失言〃だろう。特にまずいのは、フジテレビなど一部メディアがほとんど総務省文書問題を取り上げないことに小西氏が個人的に不満を抱いていたことは理解するものの、放送局の報道内容に対して脅しともとれる表現を使って批判したことである。小西氏が文書公表の翌3月3日付朝刊で、朝日は1面、東京は政治面トップと大きな扱いだったが、読売と産経は記事掲載なしだった。このような政権に対するメディアのスタンスの違いも今回の小西発言につながったのではないか、と筆者は見る。

問題の本質の矮小化

 NHKや民放の自主的な機関であるBPOを使った〃圧力〃ともとられかねない小西氏の投稿は、いままさに、政治による放送への圧力を示す「総務省文書」が問題になっているおり、事態はなおさら深刻だ。4月5日にも中曽根弘文参院憲法審査会長が「委員に対して極めて失礼」などと与党の怒りは収まりそうもない。ただ、政府・与党と野党では、放送法の規制権限のありようは全く異なることも事実だ。筆者が心配するのは、小西氏の振る舞いが、時の政権による「放送法の解釈変更」という重大な問題の本質を矮小化させないかである。小西発言で喜んだのは、この問題をできるだけ早く終わらせたかった政府・与党である。

 一方で、表現の自由にとって、「サル発言」よりも「放送法の解釈変更問題」の方が重要なのは言うまでもない。「問題の原点」に戻るために、改めて今回「総務省文書」により暴露された問題の今後の「再発防止策」を考えることが必要だ。放送法立法時の放送事業者による「自主・自律」という目的から現在は政府の権力介入の根拠となってしまった放送法第4条の「政治的公平性」規定の在り方などに関して、改めて「何が問題か」「放送の自由を守るためにはどうしたらいいのか」を中心に、メディア研究者らの見解を紹介しながら考えてみたい。

「番組編集準則」は放送局が自主・自律的に守る「視聴者への約束事」

 放送法第4条は放送事業者が放送番組の編集に当たって配慮すべき四つ(の事項を定めている。①公安及び善良な風俗を害しないこと②政治的に公平であること③報道は事実をまげないですること④意見が対立する問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。これを「番組編集準則」という。「準則」(放送局が準拠すべき法律の定め)は、放送事業者(放送局)を国が規制する法規範ではなく、放送法第3条による放送局が自主・自律的に守る「倫理規定」であり、「視聴者への約束事」(山田健太専修大教授)というのがメディア法などの研究者の通説だ。この問題の大切な論点であり、分かりにくいので、<放送法の解釈変更問題(上)(下)>と一部ダブルところがあることをお許し願いたいが、筆者なりにやや詳しく説明を加えてみたい。

 BPOの 放送人権委員長をつとめた三宅弘弁護士と同放送倫理検証委員会委員長の小町谷育子弁護士共著の「BPOと放送の自由」(日本評論社)によると、現在、総務省がとっている「番組編集準則」についての見解は以下の取りである。

① 法的拘束力がある②準則は放送局が自律的に遵守することが基本③違反があった場合、総務省がその違反の有無を判断する④放送法第4条2号の「政治的公平性」違反の有無は、放送局の番組全体をみて判断するが、「番組全体」は「一つ一つの番組の集合体」であり、一つ一つの番組をみて、全体を判断する⑤一つの番組のみでも、例えば(1)選挙期間中、またはそれに近接する期間において、特定の候補者や候補予定者のみを相当の期間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を及ぼすと認められる場合、(2)国論を二分するような政治課題について、放送局が一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、それを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合にように、放送局の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められるといった極端な場合においては、一般論として「政治的公平であること」を確保しているとは認められない⑥総務省は放送局に番組編集準則違反があれば、行政指導を行うことができる⑦行政指導があっても、改善されず違反が繰り返される場合には、総務大臣が電波の停止などの行政処分を行うことができる-という内容である。

立憲民主党の国会追及は問題の本質からずれていた 

 今回、小西議員が総務省職員から入手したとされる「総務省文書」が暴露したのは、2014年11月26日当時の安倍政権の礒崎陽輔首相補佐官が放送法を担当する総務省放送政策課に電話し、当時の総務相だった高市早苗氏(現経済安保担当相)が翌15年5月12日に⑤の見解を国会答弁で示した間の官邸側と総務省側の詳細なやりとりである。高市氏はこの答弁の後、翌16年2月8日に「電波停止」の⑦に言及した。そして、同年2月12日、総務省はこの答弁を受けてそれまで「政治的公平性」については「放送事業者の番組全体を見て判断する」としていたものを「一つの番組のみでも、極端な場合には政治的公平が確保されると認められないと判断する場合がある」と解釈を変更する「政府統一見解」を出した。

 総務省は今回暴露された一連の文書を「行政文書」と認め、文書に「捏造があったとは考えていない」としたが、高市氏は、自分のことが書かれた4枚の文書について「捏造」と否定している。この問題を複雑にしたのは、高市氏が小西氏から「捏造でなかった場合、閣僚や議員を辞職するか」を問われ、「結構だ」と明言してしまったことだ。この答弁により、文書の真偽や否定し続ければ実現しない高市氏の辞任問題へと論点がすり替わり、立憲民主党もそこを中心に高市氏を追及したため、「放送の自由と放送法の解釈」という問題の本質・核心から国会議論が離れてしまった。筆者は〃サル発言〃以前に立憲民主党の国会追及は問題の本質からずれていた、と考えている。

 この「政府統一見解」の撤回を求めた小西氏に対して今年3月17日、参院外交防衛委員会で総務省審議官は「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体で判断する」との解釈変更前の従来解釈を繰り返し述べて「何ら変更はない」と断言した。この審議官答弁から「新解釈を事実上撤回したことになる。政府の責任ある答弁と受け止める(3月31日、東京新聞社説)との報道も出てきた。繰り返しになるが、これが果たして政府が本当に解釈変更を撤回したのかについては冷静に見極める必要があるのではないか。

時系列でたどる政府の放送への圧力や見解などの変遷から見えてきたもの

 もうひとつ、戦後、放送法ができてからの政府の圧力の動きや見解の変遷なども今回の問題を理解する上で必要だろう。少し長くなるが、07年から18年までBPO放送倫理検証委員会の委員長をつとめた川端和治弁護士の「放送の自由ーその公共性を問う」(岩波新書)や立教大学教授、砂川浩慶氏の「安倍官邸とテレビ」(集英社e新書)などを参考に時系列で抜き書きし、そこから見えてきたものを探った。

■「政治的公平性」=線引き難しく、どのようにも解釈できる余地がある
 1950年6月1日、放送法施行 政府に管理されていたラジオが戦争に協力した教訓から、戦後、連合国軍最高司令部(GHQ)が民主的な放送が行われるよう法律作りを指示。第1条で放送がどんな勢力にも偏らない不偏不党や真実や自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保することを定めた。第3条で番組は何人からも干渉され、または規律されることがないことを宣言している。このあとの第4条の番組編集準則で四つの項目が書かれているが、3号や4号に比べ2号の「政治的に公平であること」は規定があいまいで線引きが難しく、どのようにも解釈できる余地のある「放送の自由」にとって、その後も問題となるキーワードだ。  
■「独立行政委員会」の廃止は独立機関を嫌う吉田首相の意向だった
 1952年7月、サンフランシスコ講和条約発効直後、政府から独立した行政委員会である「電波監理委員会」が約2年で廃止となった。この委員会には、政治的公平性を担保するため、「過半数で同一の政党で占めないようにするという縛りがあった。廃止は吉田茂首相が行政の重要な機能が内閣から独立した機関によって行使されるのを嫌ったためだと言われている。「これにより、放送法や電波法の運用権限は郵政大臣が持つことになった。ということは、放送法の番組編集準則や電波法第76条の停波処分の対象などの判断が閣僚の地位にある与党の一政治家の判断にゆだねられることになったことを意味した」と川端氏は指摘する。
■放送局が自主的に定める「番組基準」が順守の基準
 1958年、「公安を害しない」という準則に「善良な風俗」という文言を追加する放送法改正案が国会に上程されたが,田中角栄郵政相は「準則をいかにして表現の自由を侵すことなく実効あらしめるよう工夫した。その結果、準則及び番組審議機関を設けた放送事業者の自律によって番組の適正を図る措置を講じた」と述べた。この改正案は審議未了で廃案となったが、59年3月の改正でも同様な見解が存続し、準則ではなく、放送事業者が自ら考えることに従って自主的・自律的に定めうる「番組基準」こそが放送事業者に番組編集や放送に当たって遵守が期待される基準であることが明確にされた。
■三つの従来答弁はいずれも準則違反について「番組全体を見て判断する」
 1964年電波監理局長答弁、2004年麻生太郎総務大臣答弁、2007年増田寛也総務大臣答弁の三つの答弁は、いずれも「準則違反かどうかは、一つの番組ではなく、当該放送事業者の番組全体をみて判断することが必要」とし、これが準則違反についての「従来からの見解」となっていた。ただし、64年見解では「一つの番組だけでは判断しない」と説明したあと、「極端な場合を除いて」との留保条件を付けている。今回の14年12月25日付文書で礒崎補佐官が「この部分は昭和39年(1964年)の答弁以来明確にせずに(逃げて)きた部分なんだろうが、極端な事例はあることぐらいは認めるべきではないか」と総務省情報流通行政局長に迫っている。国会答弁は細かい部分までみないと、常に〃悪用〃される可能性があることが分かる文書だ。
■自民党の番組干渉相次ぐ=「ハノイ報道」で田英夫氏がやり玉に
 1960年代 、「60年安保闘争」や「ベトナム戦争」などの政治問題をめぐり自民党からNHK、TBS、日本テレビ、NET(テレビ朝日の前身)のテレビ番組へ干渉する出来事が相次いだ。今回も政権のターゲットとなったTBSは1967年、米軍による北爆下のベトナムに日本のテレビ局として初の取材班を送り、ニュース番組「ニュースコープ」のキャスター田英夫氏も同行。「ハノイ・田英夫の証言」を放送した。この後、自民党幹部と今道潤三TBS社長が懇談した際に、橋本登美三郎氏が「なぜTBSは田を派遣してあんな放送をするのか」と注文を付けたが、今道社長は「報道機関である以上、ニュースのあるところなら、どこでも人を派遣するのは当然だ」と反論したという。当時の放送経営者は立派だった。しかし、その後、田氏は番組を降板した。
 田氏は共同通信社会部の大先輩で60年に社会部長、その後,TBSに移り、62年からニュースコープキャスターとして活躍、71年、社会党から参院議員に立候補、社民連、社民党に移り、2007年に引退した。09年11月、86歳で亡くなった。筆者が共同通信に入社したときはTBSに移っており、のちに政治家引退後、何度か酒席でお会いした。穏やかな語り口の中にも、権力と戦うための心に秘めた闘志は終生持ち続けた人だった。今回の「総務省文書」にも田氏が登場する場面がある。2015年3月6日付文書には、礒崎補佐官の発言として「昭和39年(1964年)ごろの報道番組は意見なんて言わなかった。おかしくなったのは田英夫が出てきてから。みんなびっくりしたもんだ」と書かれている。67年の出来事だが、礒崎氏は57年10月生まれだから、「ハノイの証言」のときに10歳の小学生だったはずである。よく覚えているな、という感じだ。
■「行政指導」という名の政府の放送への介入=「準則」の「法規範性」を強調
 1985年11月、放送番組内容で初の郵政省(現総務省)の行政指導。テレビ朝日「アフタヌーンショー」が報じた女子中学生番長のリンチ事件。担当ディレクターが元暴走族リーダーに頼んで仕組んだやらせ事件だった。「真実でない報道が行われ、大きな社会問題を引き起こした」として郵政大臣による「厳重注意処分」となった。これ以降、放送メディアで「行政指導」という名の行政の介入が頻発するようになる。
 14年5月に放送されたNHK「クローズアップ現代 出家詐欺報道」で、NHKがすでに調査報告書を出し、BPOの審議対象になっていたにもかかわらず、15年4月、高市総務相が「厳重注意」の行政指導を行った。このことのメディアへの萎縮効果は絶大だった。BPOは15年11月6日、意見書で自民党の政治介入を厳しく批判した。意見書は「番組編集準則」について「これらの条項は、放送事業者が自らを律するための『倫理規範』であり、総務大臣がこの放送の番組に介入する根拠ではない」という内容だった。これに対して、高市総務相は「準則は法規範性を有する」と反論。安倍首相も4日後、国会で「単なる倫理規定ではなく、法規であって、その法規に違反しているのだから、これは担当の官庁としては法に則って対応するのは当然」と答弁した。07年にBPOに放送倫理検証委員会が設置されて以降は局長名の行政指導はあったが、総務大臣による行政指導はなかった。当時、放送倫理検証委員会委員長の川端氏はこの処分にびっくりし、「自主・自律の制度のはずなのに、過剰な介入ではなかったか」と疑問を投げかける。
■「椿発言」=「準則違反」を「停波」ができる「法規範」との解釈を始める
1993年、テレビ朝日椿貞良報道局長による「椿発言」、詳しくは<放送法の解釈変更問題(下)>で触れた。政府はこのときから、準則違反について、「停波」ができる電波法第76条による処分という制裁を伴う法規範であると解釈し始めた。川端氏は「この問題がターニングポイントとなった」という。大事なのは、このとき、郵政省はテレビ朝日が再免許の時期にあたったため「局長発言について、事実関係が明らかになったときに必要な措置を取る」という条件付きの再免許交付だったことだ。放送免許は「自動更新」するのではなく、「再交付」であることに注意したい。
■解釈変更は安保法制の議論前の〃民放へのジャブ〃なのか?
そして、2015年5月15日、高市総務相が準則違反について「極端な場合は一つの番組でも判断」と従来解釈を変更、翌16年2月8日、「違反に電波停止を命じる可能性」に言及、その4日後に「政府統一見解」となる。安倍政権は14年7月、集団的自衛権行使容認の閣議決定をし、15年9月19日には、「平和安全法制」関連2法が成立する。「総務省文書」15年2月18日付文書には当時の山田真貴子首相秘書官による「礒崎補佐官からすれば、前回衆院選の時の萩生田文書と同じ考えで、よかれと思って安保法制の議論をする前に民放にジャブを入れる趣旨なんだろうが、(山田秘書官からすれば)視野の狭い話」との発言が載っている。解釈変更の狙いは〃民放へのジャブ〃だったのか。

4条削除論」と「撤廃論」

 このように問題を時系列で整理して見ていくと、政府が本来は倫理規定であるはずの「番組編集準則」をさまざまなやり方で解釈を変え、放送の番組内容に介入しようとしてきたことが分かる。「放送法は本来、放送の自由を守るためのものだったが、後に番組を制限するものになった」(山田健太教授)ということなのだ。また、国会での大きな議論もなく、当初は放送業者の「自主・自律」に任せていた放送内容の規制が少しずつ「行政指導」の名目で崩されていく過程も浮かび上がってくる。本来は「一つの番組」であれ、「番組全体」であれ政府が放送内容に介入すること自体がおかしいのだ。それではどうしたらいいのか。まずは、「政治的公平」規定のある放送法第4条の削除論がある。

 テレビ朝日の番組で降板経験のある元経産官僚の古賀茂明氏は「放送法本来の精神に立ち返って政府が放送に介入できないようにする手立てを講じることが重要だ。そのためには『政治的公平』という文言が含まれる放送法第4条そのものを削除する法改正に取り組んでもよいのではないかと思う。3条の『放送番組は、何人からも干渉され、または規律されることがない』という条文だけで十分なはずだ」(3月24日、集英社オンラインでのインタビュー)と述べている。「4条削除論」は確かにシンプルで分かりやすい。

 国連が「削除論」に言及したこともある。2016年4月、言論と表現の自由に関する国連のデービッド・ケイ特別報告者(米カリフォルニア大教授=国際人権法)が政府の招きで来日。ケイ氏は日本の政府関係者やメディア関係者、研究者らと面談して日本の表現の自由の状況を調べた。翌17年5月、報告書を公表した。その中で「放送への政府の介入の法的な根拠を除去してメディアの独立性を強化するために放送法第4条を見直して削除する」よう日本に勧告した。これに対し日本政府は「指摘された事実の多くが伝聞や推測に基づいている」と反論書を提出している。

「公平原則」撤廃の米国では「フェイクニュース」が分断助長

 また、18年には安倍政権が「放送制度改革案」に絡めて、「4条撤廃」を打ち出したこともある。NHK放送研究所の出す「放送研究と調査」18年6月号などによると、18年3月15日の共同通信のスクープ報道をスタートに安倍政権が考える放送制度改革案がメディアで一斉に報じられた。この年6月の内閣府の規制改革推進会議で答申策定に向けて放送をめぐり議論が続けられていた。その方向性としては、放送と通信の垣根なきコンテンツ流通環境の実現や、放送波に過度に依存しない流通網を整備することで電波の有効活用を図るという内容だ。その具体策としては①放送と通信で異なる規制や制度の1本化②地上波放送におけるハード・ソフトの分離の徹底化③NHKの公共メディア化を進める-というものだった。

 特に「4条撤廃」について注目が集まった。民放連は「放送を通信と同様に扱うというのは、放送が果たしてきた公共的役割、通信との違いについて考慮されていない」などと新聞界と歩調をそろえて強く反発。民放労連も労組の立場から「私たち放送で働く者が、放送倫理に基づく番組作りで視聴者から信頼を得ようとしてきたこれまでの努力をないがしろにするものだ」と断固反対の声明を出した。安倍首相は17年秋の総選挙の公示2日前にインターネットテレビ「ABEMA」に出演。このインターネット放送体験を踏まえてその後、放送事業のあり方の見直しが必要との発言を繰り返していた。安倍首相はインターネットについて「新たな規制を導入することは全く考えていない、と明言したので放送法の番組内容規制を通信に合わせて改正するというのが首相の意向だったと思われる」と川端氏は「放送の自由」で書いている。結局、同年6月の推進会議の第3次答申には放送法4条撤廃は全く言及されておらず、うやむやのまま立ち消えになった。

 放送法第4条と同様の政治的公平原則「フェアネス・ドクトリン」(1949年成立)をもっていた米国では、インターネットの発達により「電波の希少性がなくなってきた」などとして、この原則を1987年に撤廃した。ところが、これにより、放送局の偏った主張の展開が可能となり、「フェイクニュース」が社会の分断を助長している、といわれている。「4条撤廃」は分かりやすいが、〃諸刃の刃〃の面もあることを指摘しておきたい。それにしても、安倍氏は放送に介入する放送法の解釈変更を促したり、インターネットTVで好き勝手なことを言えた経験から、それとは正反対の「4条撤廃」をちらつかせるなどご都合主義がすぎないか。安倍氏に限らず、とかく権力者というのはそういうものだ。だから、マスメディアの「権力監視」は欠かせない。

むしろ「政治的公平」規定には「意義がある」という識者も

 「政治的公平性」の規定には、大きな声に遮られがちな弱い立場の人々の声を世間に知らせる役割がある」とこの規定を肯定的にとらえるのは、憲法学者で成城大学法学部教授の西土彰一郞氏。西土氏は「私はさらに、この規定が放送局で番組作りに関わるジャーナリストたちを守る意味もあると考えている。例えば、放送局の経営者の意向で、現場の制作者たちが意に反して政権に有利な放送を強いられた場合を考えてみると、放送法が政治的公平を定めているからこそ、『法に反することはできない』と抵抗することができる。これは大きな意義だ」(3月17日、朝日新聞デジタル「耕論」)という。

「4条撤廃は危険」との意見も

 また、「4条撤廃は非常に危険だ」というのは、筆者の論考で何度も登場する山田健太専修大教授(言論法)。安倍政権下で検討された「放送制度改革案」の危険性を指摘する中での議論だが、18年4月2日、FMラジオ局J-WAVEの番組でジャーナリストの津田大介氏と対談した山田氏は「放送法は、『放送の自由』を守りましょう、という法律であるため、どちらかというと、憲法と同じように〃政府・国家を縛る〃法律なのだという。諸外国のように、本来なら、政府が直接放送局に権力を行使できないように、独立機関が番組を審査する、あるいは放送免許を出すのが普通だが、日本や北朝鮮、ベトナムなど特別な国だけが、直接、政府が管轄している」と日本の特異性を強調する。だから、まず政府から独立した行政機関に免許権限を与えることを主張する。

 その上で、山田氏は18年4月27日、WEB論座の「放送の自由のためにやるべきことはほかにある」の論考で、①政府が準則を〃悪用〃するのは、免許制度と強く結びついていることが原因だから、少なくとも、免許権限を定めている電波法と、番組内容の規律を定める放送法を明確に分離する②放送に携わる人の職責を高めるため、現在は十分に活用されていないとされる「番組審議会」をより活性化させる方策を、放送局自らが実行するーことの必要性を説く。その上で「現行の放送法を1ミリも動かしてはいけないということではない。例えば、焦点になりやすい放送法第4条の四つの視聴者への約束事の文言を、時代に即して変更することはあってもいいかもしれない。政府が〃悪用〃するのであれば、「政治的公平」という言い方はやめて報道倫理として普遍的な「公正さ」とするのは1つのアイデアだろう、としている。

 メディア法や憲法の研究者らの間にもさまざまな意見があることがお分かりになったのではないか。筆者は放送法の「番組編集準則」が政府によりさんざん〃悪用〃されてきたことが今回の「総務省文書」でより明らかになったわけだから、放送免許は独立した行政機関にゆだねること。そのために一刻も早く独立の行政機関を発足させること。また、山田教授のいうように放送法と電波法を分離させること。そして、準則については、「表現の自由」についても、一定の制限はあるので、放送局の「自主・自律」を前提にして、あくまでも「視聴者への放送局の約束事」として、その文言を全面的に見直したらどうかと考える。このため、放送法や電波法の改正、あるいは独立機関の設置法が必要となろうが、民主主義国家の根幹としての現行の放送の在り方はあまりにも遅れており、国際的にも恥ずかしい。この自覚を日本の与党を含めた政治家は当然、持つべきである。 

                                (了)