<戦後80年連載企画>「核廃絶への道を探る」第2回 原爆開発競争は人類破滅への道 「パンドラの箱」を開けようとしているのでは 科学者の「封印・国際管理」とルーズベルト後継政権の対日無警告・投下が対立 

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 「ヒトラーが先に原爆を手にしたら」。科学者たちのこの恐怖感が米国の原爆開発成功のバネになった。しかし、未知の新兵器の魔性がはっきりと浮かび上がってくると、彼らは新たな恐怖感におののいた。

 人類の歴史は戦争の歴史だ。どんな新兵器もひとたび世に出ると間もなく拡散する。原爆もその道をたどることになるだろう。それは人類の破滅を意味する。「パンドラの箱」のふたをわれわれは開けようとしているのではないか。

亡命科学者たちの恐れ

 ドイツにヒトラーが登場して、第2次世界大戦への不安が高まってきた。第2次世界大戦がはじまる1年ほど前の1938年末、ヒトラーのひざ元のベルリンの科学研究所で、ウランが分裂して新しい元素に転換する際に巨大なエネルギーが発生することを発見、これが原爆開発競争の口火を切った。欧州からは多数のユダヤ人がヒトラーの迫害を避けて英国や米国などへ亡命したが、その中には優れた物理学者がいた。

 米国のルーズベルト政権はまだ中立の立場をとっていたが、こうしたユダヤ人物理学者の要請を受けて慎重な準備の上で1942年6月、原爆開発のための「マンハッタン計画」をスタートさせた。
原爆政策を取り仕切る軍事政策委員会を設置、委員長V・ブッシュ(マサチューセッツ工科大学副学長・カーネギー協会長、科学者)、補佐役にJ・B・コナント(ハーバード大学長、同)、委員にスタイヤー将軍(陸軍)、パーネル提督(海軍)。原爆開発製造部門の責任者に陸軍技術部門からグローブス准将を充てた。グローブスは物理学部門の責任者にオッペンハイマーを選んだ。

大統領に直訴

 ブッシュとコナントは、原爆開発に重い責任を背負いながらも、原爆開発は成功しない方がいいとの思いも抱いていた。二人とも科学者で、原爆の恐ろしさが分かっていたからだ。原爆開発で米国が当面はヒトラーのナチス・ドイツより先行しているとしても、原爆製造の科学的知識や情報は数十カ国の科学者の間に知れ渡っている、米国の優位はせいぜい5年、多分それ以下の期間しかもたないだろう。二人はグローブスをはじめ軍部の多くが、米国の優位は10年や20年は続くと思っていることに懸念を抱いていた。

 米英が同じ同盟国のソ連には秘密にして原爆開発を進めていることも心配だった。これが分かればスターリンのパラノイア(変質狂的猜疑心)を刺激して、独自に原爆開発に走らせ、他の国も加わった原爆開発競争が始まる。それは人類の破滅にもつながる恐れがある。

 2人はルーズベルトが戦後世界の国際協力機関として国連つくりを進めていることを知っていたので、「原爆」を国連が管理することを構想した。1944年9月、ルーズベルトにメモを送った。原爆に関する情報を国際的に公開するとともに原子力エネルギーの管理を強化する国内法を制定し、米国と共同開発に加わっている英国とカナダ(英連邦の国として米英共同研究に加わっていた)との関係を定める条約を急いで締結するーメモはこう要請していた。

科学者の洞察力

 しかし、ルーズベルトからは直接的な反応のないまま1週間が過ぎた。2人はスティムソン陸軍長官に相談、原爆開発の持つ問題点を説明したうえで、それを詳細なメモにして提出することになった。当時の軍隊は陸軍と海軍だけで空軍や海兵隊は独立しておらず、陸軍長官は現在の国防長官にあたった。スティムソンは共和党の長老、党を超えて尊敬される存在だった。民主党のルーズベルト政権は世界大戦で挙国一致体制をとり、請われて加わっていた。

 同月末に提出されたメモの要点は以下の通り。

 ▽原爆は1945年8月1日までに生産過程に入るだろう。その破壊力は1千機のB29爆撃機による1万回の爆撃に匹敵する。この爆弾をロボット航空機ないし誘導ミサイルによって投下する可能性もある。このスーパー爆弾を持てば戦争開始と同時に相手の産業地帯や一般資金に甚大な打撃を与えることができる。先に仕掛けた方が必ず勝つ。

 ▽米国は今、一時的な優位に立っているが、優れた技術と科学力を持つ国ならば、3年か4年で追いつくことが可能である。この新兵器を長年独占できると思うのは愚の骨頂である。

 ▽米国の原爆開発計画には多数の人員が参加しているので、その情報は既に広く知れ渡っている。原爆開発に成功した段階で全ての情報を広く公開し、その威力を実証するための爆発実験を日本ないし米国で実施し、日本がなお降伏しないなら、日本本土に投下すると通告する。

 ▽原爆開発を極秘のまま続けることは米英にとって極めて危険である。ソ連が秘密裏に開発を進めることは疑いない。敗退しつつある敵国も含めていくつかの国が同じことをやるだろう。もしどこかの国が先にこのスーパー爆弾を開発すれば、われわれは戦慄すべき状況に置かれる。

 ▽こうした状況に対処するには、戦争終結に際して個々の国家の主権を超越した国際機関のもとに、関連する科学的情報を自由に交換する体制をつくることを提案する。この機関は原子エネルギーの研究開発にかかわるすべての国の研究施設および関連軍事施設に自由に立ち入る権限を与えられる。これには強い抵抗があるだろうが、将来の世界が直面する危険はこの試みを実現させなければならないほど大きいのだ。

原爆情報の公開・国際管理

 このころ欧州戦線では米軍のノルマンジー上陸作戦、パリ解放と戦争は一気に終局へ向かい始め、国連創設の準備も始まる一方で、東欧でのソ連の勢力圏構築の動きが気になっていた。スティムソンはメモの内容を理解したが、ルーズベルトとの会談でこの問題を取り上げたのは2カ月後の12月初めだった。ほかにも年明けの3巨頭会談が重要テーマになっていた。

 スティムソンは原爆情報の公開・国際管理の手始めとしてソ連に対する公開について、彼らから「お返し」がもらえると確信できることが条件になると述べて、ルーズベルトも同意したとされている。ブッシュとコナントは、首脳部の動きが遅いと不満が残った。しかし、諦めはしなかった。2人は1945年に入ると、ヤルタ会談(1945年2月4〜11日)を終えて帰国したルーズベルト宛に、国連憲章に軍事利用にかかわる科学情報を自由な交換、公開を扱う科学局を設置すること盛り込むよう要請するメモをしたためてスティムソンに託した。スティムソンは理解するが、まだ時期が熟していないとして、ルーズベルトには届けなかったと思われる。

科学者のほぼ全員が原爆使用反対

 ブッシュとコナントの原爆開発に対する恐れは、マンハッタン計画に加わった科学者たちにも共有されていた。シカゴ大学冶金研究所の22人の科学者は、ブッシュ、コナントの動きと相前後する1944年11月、A・H・コンプトン所長に原爆を秘密裏に開発してそれを使用すると、戦後の国際管理を困難にして、核開発競争を招くとして、マンハッタン計画の公開を要求した。

 マンハッタン計画に参加した科学者たちは、原爆使用作戦の実施が迫った1945年5〜6月には150人のほぼ全員が使用反対、事前警告して降伏を促す、事前に軍事的実験を行って降伏を呼びかけることなどを求める運動を行っている。

原爆使用か封印かで深刻な対立

 日本への原爆の警告抜き使用に反対する科学者の動きは、科学者だけではなかった。太平洋を北上してきた米軍は硫黄島の苛烈な肉弾戦を制して4月1日沖縄島に上陸、全島民を巻き込んだ84日間の悲劇的な抵抗戦が6月23日終息した。日本軍がなおも「本土決戦、1億玉砕」を叫ぶ中、米国政府は日本を降伏に追い込むために、原爆を使うのか使わないのかの選択を迫られることになった。

 この沖縄戦が始まって間もなくの4月12日、世界大恐慌さなかの1932年から第2世界大戦にかけて異例の4選を果たして激動の時代を乗り切ってきたルーズベルト大統領が急死した。第2次世界大戦の終結となる対日戦をどう締めくくり、戦後世界につなげていくのか。その重責がトルーマン政権にのしかかった。

 米国は原爆によって確実に日本を降伏させることができるし、原爆独占によって戦後世界において強い指導力を発揮できる。トルーマンに国務長官を任されたバーンズはこう考えた。

 原爆を野放しにすると世界は危険な原爆開発競争を引き起こす、使用しないで情報を公開し国際管理のもとに封じ込めなければならない。ブッシュとコナントの懸念をルーズベルトに伝えたスティムソンはこのころには、軍制服組首脳とともに原爆封印の立場を支持するようになっていた。

 米国はどちらを選択するのか。深刻な対立が始まろうとしていた。
                            (長崎への原爆投下の8月9日記)