1人の死が歴史の方向を歪めたということでは、ルーズベルト米大統領(1932-1945年)はその最たるものではないかと思う。ルーズベルトは米国では3人の偉大な大統領の1人(ほかの2人はワシントンとリンカーン)。しかし、そうした偉大さによってではない。その死がトルーマン大統領(当時)と同大統領に強い影響力を行使したJ・バーンズ国務長官(同)の政権を生み、彼らが原爆を実戦で投下する過ちを犯し、人類滅亡につながる核の脅威におののく世界への道を開いたからである。
失われた「重大な選択」
1945年2月、第2次世界大戦は終局に入っていた。米、英、ソ連の3大国首脳によるヤルタ会談は、ドイツ降伏を想定した「戦後欧州」の統治、および日本降伏による太平洋戦争の終結について協議した。
米国では原爆開発の成功がすぐそこまできていたが、原爆をどう使うかで政権が真っ二つに分断されていた。人類の破滅にもかかわるこの重大な選択をゆだねられていたルーズベルト(以後FDRと記す)が、その判断を示すことなく急死したからだ(「核廃絶への道を探る」第2回参照)。
「権力の空白」
米国では大統領が指名する副大統領はナンバー・ツーでありながら、ほとんどは政権中枢からは外される。トルーマンもそんな一人、原爆についても何も知らされていなかった。突然の大統領昇格で「太陽も月も、全ての星がおちてきたような思い」のトルーマンはとっさに上院議員時代の先輩J・バーンズに助けを求めた。
バーンズは政界入りが遅れたトルーマンより2歳だけ年上だったが、すでに下院から上院へと長い議会経験を積み、辣腕で知られた。南部サウスカロライナ州出身で、同じ南部ミズリー州出身のトルーマンを何かと引きたてた恩人であり、「親分」でもあった。
20年を超える議員活動のあと、FDRから最高裁判事、米国が第2次大戦に参戦すると戦時国家動員局長に起用されて引退したところだった。バーンズは相談役としてトルーマンに寄り添い、権力の中枢で強い影響力を行使しているうちに現役に立ち戻っていった。
3者の複雑な人間関係
バーンズ、トルーマン、FDRの間には複雑に怨念の絡み合った人間関係があった。バーンズは恵まれない家に生まれ、15歳で地元裁判所書記に。独学で法律を身に着けて政治の世界に飛び込むと辣腕を発揮、有力政治家にのし上がった。当時の民主党は工業中心のリベラルな北部と農業中心保守・右翼的な南部にと勢力に二分されていた。ニューヨーク州知事から大統領になったFDRが支配する北部民主党に対して、バーンズは南部民主党のリーダーだった。ともに1882年生まれ。党内ではライバルながら、対外的には民主党を率いて協力し合う関係でもあった。
FDRは大恐慌さなかの1932年から第2次世界大戦を通して異例の大統領4選を果たした。野心家でもあったバーンズは大統領へのステップとして、FDR政権の副大統領を狙っていた。1940年の3選、44年の4選では有力な副大統領候補とされたが、FDRは候補選びは党にまかせるとの立場をとった。
4選目ではバーンズに決まりとまで報道されたものの、土壇場でバーンズにとっては「子分」にあたるトルーマンに持っていかれた。その後の最高裁判事や戦時国家動員局長への起用にしても バーンズには重い仕事に利用されただけだったとの思いが残ったとしてもおかしくはない。
トルーマンには副大統領にしてもらっても、なんの仕事も与えられなのは面白くなかっただろう。だが、FDRのリベラリズムと、奴隷解放後も「隔離は差別ではない」として実質的な黒人差別を容認し、白人至上主義の秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)の黒人リンチの禁止法にさえ反対する南部民主党との間には越えがたいものがあったのだろう。
特別委員会、機能不全に
スティムソンがトルーマンに原爆開発について報告したのは、就任から2週間になろうとする4月25日だった。スティムソンは原爆がいかに恐るべき兵器かを説明して、世界の平和と文明を救うには原爆に関する情報を公開して平和機関(国連)の管理にゆだねるしかないと結んだ。トルーマンは聞き置くといった反応だったという。バーンズは戦時国家動員局長としてFDRから極秘の原爆開発計画を知らされていて、先回りしてトルーマンに教えていたからだ。
スティムソンは政権交代に即して原爆に関する最高政策を取り扱う軍事政策委員会にバーンズを大統領特別代表としてメンバーに加えた(議会の承認を得る時間の余裕はなかったので暫定委員会と呼ぶことした)。これでバーンズは公の発言権を得た。
暫定委員会でバーンズは、原爆の国際管理による封印を主張するスティムソンらFDR政権からの科学者や軍代表の発言にことごとく反対した。ある委員会では米国の原爆独占は何年もつかをめぐって科学者を含むその他は3〜4年と主張したのに、バーンズは少なくも10年、グローブスは20年とともに根拠は示すに発言したままで終わった。
当時でも両者の見方は明らかに大きな誤りだった。だが、議会の大物で最高裁判事や戦時国家動員局長という経歴のバーンズに対して反論はしにくく、暫定委員会は機能不全に陥った。
「天皇制存続」を進言
スティムソン率いるFDR派は一方で、日本は既に壊滅状態に陥っているとみて、沖縄の激戦の進行を見守りながら独自に原爆無用の対日戦終結を目指していた。滞日10年の日本通、元駐日大使のJ・グルー国務長官代行は5月末、日本では無条件降伏は天皇制廃絶と受け取っているので、降伏後の政治体制は日本側の判断に任せると示唆することによって、米国の犠牲を最小にして日本を降伏に導くことができるとのメモを用意して意見を伝えた。
トルーマンは同じ意見だと応じて、陸・海両軍の制服代表を加えた会議(3者委員会)で検討して、その結果を届けて欲しいと指示した。軍部は既にこの方向で動いていたので、すぐ報告を届けた。
沖縄では4月1日の米軍上陸で、島民を巻き込んだ凄惨な戦闘が続いたが、6月23日終息した。日本の最高戦争指導会議は敗戦は不可避と判断した。7月12日に日本の東郷外相が、天皇の意向でソ連に特使を送るのでソ連当局と接触を取るよう指示する電報を打ち、米軍がこれを傍受。解読した。
日本とソは中立条約を結んでいたが、FDRは中国大陸に展開している日本関東軍を掃討するためにソ連の対日参戦を要請してきた。2月のヤルタ会談でスターリンは欧州戦終結後3カ月で対日戦に加わると約束し、4月には中立条約の延長を拒否(1年後失効)した。和平仲介を頼みにしている日本にとって間もなくそのソ連が敵に回ることを知れば、これも原爆投下を無用にする降伏促進の大きな圧力になる。
首脳会談大幅遅れ 原爆実験日程に合わせる
FDRの急死でトルーマン政権に代わり、ドイツが5月7日降伏して欧州戦が終わると、チャーチル英首相(当時)とスターリン・ソ連首相(同)は早期に同盟3国の首脳会談を開こうとトルーマンに呼びかけてきた。これまでの首脳会談は戦争協力のためだった。だが、トルーマンとバーンズは原爆の威力でソ連を威嚇し、封じ込めに転じようとしている。次の3国首脳会談はその最初の舞台。原爆実験を済ませて、交渉のカードとしてその結果をもって首脳会談に臨みたい。その原爆実験は当初6月に予定されたが7月に延期されている。首脳会談の引き延ばすしかない。
しかし、チャーチルが怒って連日のように督促電報を打ち込んでくる。トルーマンは追い込まれて5月末、原爆実験を7月4日に決め、首脳会談を同15日からと設定した。チャーチルは「なに? 6月15日ではないのか? 7月か・・・」と怒り治まらなかった。
7月15日までに原爆実験が終わり、好ましい結果が得られるか。危うい賭けだった。
ポツダムへー米英軍部は天皇制存続で一致
7月7日トルーマンと国務長官就任4日目のバーンズはポツダムの首脳会談へ向かった。巡洋艦オーガスタで大西洋横断、後は陸路と空路をつなぎ15日夜到着の長旅。スターリンは1日遅れの16日到着、首脳会談は17日から始まった。
バーンズと鋭く対立する陸軍長官スティムソンと海軍長官フォレスタルは外されて独自判断でポツダム入りした。スチムソンは77歳、尊敬される共和党長老で2次大戦参戦で挙国一致のFDR民主党政権に招かれていた。首脳会談開会前日の16日、米陸海空軍参謀本部の合同会議がポツダムで開かれ、この会議に向けて合同でまとめた情勢分析が公開された。その内容はスティムソンらの判断と重なり合っていて、日本は明日にも降伏する可能性があるとみていた。出席していた連合国軍欧州最高司令アイゼンハワーは、日本は既に敗北していて原爆を投下する必要は全くない、日本本上陸で想定される米軍将兵の犠牲を少なくするといった主張は通らず、米国は国際世論の批判を浴びると発言した。
続いて米英合同参謀本部会議が開かれた。英国軍部も天皇制は解体しないと日本に知らせるのが得策ということで一致した。会議はチャーチル英首相にこの問題をトルーマンとの間で話してもらうよう要請することで意見がまとまった。
原爆実験成功-「間に合った」
何回も先送りされてきた原爆実験は17日実施となったが、天候悪化でさらに数日遅れそうになっていた。開発計画担当責任者グローブス将軍は現地に電話をかけまくって圧力をかけ、無理矢理に16日実施となった。ポツダム時間の同日夕方から実験成功の報告第1報が入り、翌日開会の首脳会談に何とか間に合った。
翌17日午後からの首脳会談の前にスターリンはトルーマンに、ヤルタ会談の約束通り8月15日に日本との戦争に加わると通告した。トルーマンは「これで日本は終わりだ(当日の日記)」と大喜びした。ソ連参戦が日本の降伏につながることは理解していたことになる。対日原爆投下の目的が日本降伏ではなく、ソ連威嚇のためであることが改めてはっきりした。
21日午後、原爆実験大成功と詳細な第2報が航空便でスティムソンに届いた。爆発の模様は「最後の審判の日」を思い起こさせ、「全能の神」を感じたという実験の責任者ファレル将軍の報告が同封されていた。
大急ぎの原爆投下作戦
ソ連の対日参戦で日本の降伏が早まると原爆を使うチャンスがなくなる。トルーマンとバーンズは原爆投下を急いだ。スティムソンを通して原爆投下作戦はいつから可能かと問いあわせ、「8月1日以降いつでも可能。天候条件は10 日までの間は有視界投下を難しくする予想外の事態はないだろう」との回答を得た。
トルーマンは24日首脳会談が休憩に入った時、スターリンの耳元にささやくように、原爆と言わずにこれまでにない威力の爆弾開発に成功したと通告した。スターリンは「それは結構、日本に対しうまく使うように」とさらりと応じた。だが、スターリンは原爆と見破って、すぐ原爆担当部門に急いで米国に追いつくよう厳命した。
続いて日本に対する無条件降伏を求めるポツダム宣言の草案を重慶の蒋介石・中国国民党総統に電報で送って同意・署名を求め、すぐ「OK」の返電をえた。ソ連はまだ対日戦争に参加していないのでこの宣言には加えないが、交戦国の中国の署名は必要だった。
この宣言は日本軍国主義を激しく非難、その権力を取り除くとして、日本民族を奴隷化したり、国家を消滅させたりはしないが、戦争責任者は厳しく裁くと述べてから無条件降伏を要求、それに代わるものは迅速かつ完全な破壊だと宣言していた。原爆が使える時間を確保するために抵抗を続けさせようという狙いがにじみ出るように読みとれた。
原爆投下命令
翌25日にはトルーマンとバーンズは原爆投下作戦を担当する第509特別部隊を指揮下に置く陸軍戦略空軍司令官スパーツ将軍に原爆投下命令を発した。投下目標は暫定委員会の下部組織である投下目標選定委員会が、「見せ場効果」を狙える直径3マイル(約5キロ)を下回らない都市で戦略的価値を有し、有視界飛行可能(爆撃結果の目視、写真撮影の必要性)などの条件を基に京都、新潟、小倉を選んでいた。
スティムソンは京都を2回訪問したことがあり、日本の歴史と文化を象徴することを原爆で破壊したら、戦後も当分は和解ができなくなると外させた。代わりに広島と長崎が加えられて、天候次第で最初の1発は小倉、新潟、広島、長崎のどれかに投下し、2発目は同じく天候次第で残り3都市の1つに投下することが決まっていた。
首脳会議は8月1日までかかり、諸文書への署名が終わったのは2日未明になった。トルーマンはその早朝、空路英国に飛んでジョージ6世国王と昼食をとって往路と同じ巡洋艦オーガスタで帰国の途に就いた。トルーマンは大西洋上で6日の広島への最初の原爆投下の報電を受けた。スターリンは15日に設定していた対日戦を急きょ9日午前零時(日本時間8日午後11時)に機繰り上げて宣戦布告し、中国北部や北方領土で日本軍を攻撃し戦勝国となった。
(注;ルーズベルトの国際協調主義は第2次世界大戦を勝利に導いたが、その死とともにイデオロギー対立に取って代わられ、歴史は東西分断の冷戦時代へと移行していった。本稿はその転換のきっかけになった広島・長崎への原爆投下の舞台裏の素描である。死せるルーズベルトとバーンズ・トルーマンの攻防にはこの後、国連による原爆の国際管理挫折、ソ連の原爆開発成功と水爆開発競争の始まり、バーンズの変わり身と失速などの展開が待っていた)
(了)