第26回 滋賀県 日撫神社(ひなで) 山津照神社(やまつてる)
東海道本線米原駅から、米原市顔戸(ごうど)の集落まで、往古を思い浮かべながら2キロぐらい歩くと、突然、見上げるような鳥居が現れた。少し先に「式内日撫神社」と大きく彫られた石標が立つ。ここからはじまる参道には小ぶりの石灯籠が両側に並ぶ。
祭神の少毘古名命(すくなびこな)は、大国主命の国造りを助けたとされる。神話では一寸法師のように小さかったといわれ、それにちなんで灯籠も小さいのかもしれなかった。この辺りは天日槍一行のなかでこの地に残った人々が、息長と名乗って開発したとされる。
神功皇后、先祖の渡来系豪族を祭る
日撫神社の「御由緒」によると、「当社は神功皇后の祖先、代々住まれし地なるを以て、皇后この地を慕い給う事深く、三韓より凱旋し給うや、この地に祠を建て、御父息長宿禰王および国土経営と医薬に功ありし少毘古名命を祀り給いしを創始とする」とある。
「近江国坂田郡志」では、「新羅王子天日槍の阿那邑に暫住の後、其の跡に息長の地名は称えられたり。是を豊前国香春神社(福岡県田川郡)に祭る辛国息長大姫大目命に考え合すれば、息長は新羅語なるべし」とする。辛国息長大姫大目命、つまり神功皇后の三韓征伐は議論のあるところだが、帰国してこの地に祠を立て、父息長宿禰と少彦名神を祀ったというのである。
「日本の神々」(編者、谷川健一)の日撫、山津両神社の項の著者、江竜喜之氏は、息長氏について「息長氏は神功皇后の母方を通じてアメノヒボコ(天日槍)の系譜に連なること、古代新羅と関係の深い越前国とのつながりをうかがわせることなどから、新羅系渡来人である可能性が強いが…。ちなみに、神功皇后(オキナガタラシヒメ)は、おそらく息長氏の伝説的な巫女であり、それが記紀にとり入れられて『応神王朝』成立の立役者とされたのは、二つの王朝を系譜の上で連結するための作為であろう。同時にこの女性がいわゆる『三韓征伐』の主人公とされたのは、かえって逆に息長氏の出自を示唆しているように思われる」という。とすると『三韓征伐』とは、息長氏が自分たちの故地を取り返そうと新羅に攻め入ったとも考えられる。
国常立神は新羅の神か
一方、日撫神社の近くの山津照神社の周辺には5、6世紀の古墳が多い。境内にも古墳が広がっていて往時、この一帯は繁栄していたことがうかがえる。山津照神社の創建は不詳だが、現在の祭神は国常立神(くにのとこたちのかみ)である。「近江国坂田郡志」は、「山津照神社は延喜式内の古社にして、其の地古の名族息長真人家の住地なるより考ふるも、同族が其の祖先を祀りし神なるは疑うべからず」とある。とすると日本書紀に出てくる国常立神は新羅の神ということになるのではないか。
鳥居の先の左手に寺を思わせる建物があり、案内板にはこの神社の別当職、青木氏の善性寺で、青木氏は22代目の子孫で毎日仏事をされる。明治の神仏分離令で神社から寺は分離されたが、ここではお寺が残された。青木さんはお留守だったが、近所の人の話では、山津照古墳が、明治時代に社殿の移築のために発掘し、神功皇后の父、息長宿禰王の墓と確認されたという。
滋賀県の郷土史家、田中勝弘氏の「古墳と寺院―琵琶湖をめぐる古代王権」によると、発掘の際、鏡、鉄刀、馬具、須恵器とともに金銅製の冠帽が出土した。この冠帽は日本海沿岸の他の古墳からも見つかっており、新羅の役人のかぶる冠帽だとされる