伝説のフォトジャーナリスト、W・ユージン ・スミス夫妻をモデルした米映画『MINAMATA―ミナマタ―』が全国で公開されている。製作主演 :ジョニー・デップ、監督:アンドリュー・レヴィタス、脚本:デヴィッド・ケスラー、音楽:坂本龍一という豪華さだ。そして映画の冒頭には「史実に基づいた物語」とある。
1970年代の日本は各地で公害問題が噴き出していた。熊本ではチッソ(当時の社名は新日本窒素肥料)水俣工場から不知火海に流出した工場廃液による水銀中毒で奇病「水俣病」が深刻な事態に直面していた。写真家、桑原史成の写真に触発されたスミス夫妻は1971年から3年間、水俣市月浦に住み取材、その撮影した写真を米国のグラフ雑誌「ライフ」に発表した。映画は、その写真集を原案に製作された。
「気づかせることが大事だ」
だが映画はドラマではあっても実話ではない。ドキュメンタリータッチではあっても事実ではない場面やストーリーも散見される。チッソ社長から現金5万ドルの封筒を渡されネガ買取り話を持ちかけられたことや、ユージンの作業場が不審火で全焼したことは事実ではない。
ユージンが千葉県市原市にあるチッソ五井工場でチッソ工場社員から集団で殴られ負傷したシーンは水俣市になっていいるーなど、時間的なつながりや場所の設定が荒っぽい。さらに、ユージンがライフへ発表を諦めようとして編集者ボブとの口論シーンも真逆のストーリーになっている。
今日、戦争を含め地球の環境破壊や気候変動、コロナの感染拡大は人類がさけて通れない喫緊の問題となっている。だから被写体と真摯に立ち向かってきたユージンが生きていたらドラマであっても「誤解や偏見を生む」と厳しく指摘、映画化を拒否しただろう。
史実に即したエンタメとはいえ違和感が付きまとう物語だが、メディアが弱体化している今日、「ミナマタ」や「W・ユージン・スミス 」という名前を若い人たちが関心を持ってくれることはいいことだ。ユージン・スミスが言っていた。「気づかせることが大事だ」と。
元妻のアイリーンはメディアの取材に、「この映画はドラマだし、実際に生きた人にとっては複雑な気持ちがあります」「患者さんの苦しみと闘いの素晴らしさが世の中に知られていくこと、そしてユージンのジャーナリストの信念が話題になっていくことは非常に嬉しく思います」と語っている。
それにしてもユージンの代表作ながらプライバシー保護から封印してきた写真「入浴する母と娘(智子ちゃん)の再現シーンは見事だ。議論はあるが必見の価値はある。
沖縄戦従軍で重傷、アルコール依存の引き金に
米軍の日本への反攻は中部太平洋のギルバート諸島マキン・タラワの激戦から始まる。
1943年11月21日、米海兵隊が撮影した戦闘シーンは「タラワの恐怖」といわれる。米側の犠牲も多いが日本軍は全員玉砕した。自決した遺体の数と姿は凄惨だ。
1944年2月、マーシャル諸島クエゼリン環礁のロイ・ナムル島でも日本軍は自爆をはかった。投降した日本兵はフンドシ一本の姿だった。同時期、エニウェトク環礁では取材中の米雑誌「YANK 」の従軍カメラマン、ジョン・ブシェミが戦死。この一連の太平洋の激戦地で従軍し、記録撮影をしてきたのがユージン・スミスだった。
1944年6月15日、米海兵隊はサイパンに上陸。3日間以上にわたった激戦で米軍は島の北東端まで制圧、日本軍は約4万人が戦死した。末期の悲惨な日本人の姿をユージンは米国メディアの代表撮影者として捉えてていた。
1974年、ユージンは歌舞伎町の居酒屋で、沖縄戦で負傷したくるぶしの傷痕を私に見せてくれた。それは一見、火傷のように見えたが、酒の席のジョークか「栄養失調が原因」と笑いとばしていた。だが実は沖縄戦に従軍中、日本軍の迫撃弾が炸裂し、砲弾の爆風で全身を負傷した。左腕に重傷を負い、顔面の口蓋が砕けた。約2年の療養生活を送ったが、生涯その後遺症に悩まされることになった。そしてチッソ社員約200人による強制排除に集団暴行が追い打ちをかけ極度のアルコール依存症になっていた。
写真家、桑原史成に米国で入手したサイパンや沖縄戦の写真の、考証作業を手伝っていただいたことがある。ユージン撮影と確認できたサイパンの写真は12カット。特に女性の水浴写真は彼女が戦火をかいくぐり生き残った喜びを愛情溢れる気持ちで写していることが伝わってくる。
桑原は「女性が水浴しているシーンはユージンさんらしい。はにかみながら撮ったのでしょう。それが水俣で撮影した母子の入浴写真に結びついたのかもしれません」と語り、こう続ける。
「ユージンさんは戦争ニュースだけでなく人間を撮っているのでしょう。人が生きようとしていることを大事にしている人なんです」。