「東京大空襲」から何を学ぶのか 75年目に考える

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 1945年3月10日未明、アジア太平洋戦争末期、マリアナ基地から飛来 した279機のB29が30万発を超す焼夷弾を2時間半にわたり集中投下し た。木造家屋が密集した東京の下町は火の海になった。焼失面積は40平方㌔ に達し、死者は10万人以上とされる。この「東京大空襲」から3月10日で 75年を迎えた。

 ことし9月に75歳となる私は、「東京大空襲」を知らない。ただ、私は子どものころ、父や母から空襲とB29の恐ろしさを、繰り返し聞かされてきた。戦後直後わが家族は東京・千代田区に住んでいた。皇居に近い場所だったが、わが家を含め、近所はバラックばかりで、周りは焼け野原だった。焼け跡 が幼いころの私の遊び場だった。関東大震災も東京で経験した母は「空襲で焼け野原になるような戦争はもう2度とやってはいけない」というのが口癖になっていた。  

 アジア太平洋戦争では、兵士として戦場に行った人も、〃銃後〃で空襲を受けた人々もいる。日本国民の死者は310万人、アジア・太平洋で2000万 人といわれる。いずれもだれもが言葉で表せないような悲惨な目に遭ってい る。父や母だけでなく、空襲経験を伝える人は時とともに、少なくなっている。戦争被災者の声は,今後、継承されていくのだろうかー。75年という節目に「東京大空襲」の歴史的意味を改めて考えてみた。

空爆の原点はゲルニカ

 第2次大戦後も朝鮮半島やベトナムで、中東や東欧、アジア・アフリカで 何度も世界で戦争のたびに空爆は繰り返されてきた。最近では、無人機(「ドローン」)による爆撃が行われ、民間人の犠牲者も出ている。市民をも巻き込む「空爆の原点」は、ヒトラーなどの支援を受けて反乱を起こした フランコ軍と共和国軍が戦ったスペイン内戦中に起きた1937年4月のドイ ツ空軍による北スペイン・バスク地方にある「ゲルニカ空襲」(死者1654人) だとされる。しかし、その規模からいっても期間からみても世界史的に本格的 な市民を無差別に殺傷する「戦略爆撃」(当時の日本軍は「政戦略爆撃」とい った)の代表は、翌38年12月から43年8月まで続いた日本軍による日中戦争時の「重慶爆撃」だった。市民をも巻き込む無差別爆撃という「戦略爆撃」の本家本元は実は日本だったといえる。重慶爆撃では4年半で約1万2千人の死者を出した。(前田哲夫「戦略爆撃の思想」)  

 太平洋戦争で1944年6月から米軍による本格的な空襲が始まり、同年1 1月には初めてB29爆撃機がマリアナ諸島から飛んできて東京空襲が幕を開 けた。そして、米軍はこれまでの軍事施設など目標を絞った「精密爆撃」か ら、戦果の大きい市民をも巻き込む「無差別爆撃」(戦略爆撃)に作戦を変え る。その実質は〃皆殺し〃爆撃だった。その象徴が45年3月10日の「東京大空襲」なのだ。そして空爆による殺戮は8月6日の広島、同9日の長崎への原爆投下と続く。「空爆」は攻撃する側から見た言葉で、爆撃を受ける側は 「空襲」となる。原爆を含めて太平洋戦争中の日本での空襲の死者は優に50 万人を超す。全死者310万人の約6分の1に当たる。そのほとんどが子どもを含む〃銃後〃の市民だったことを忘れてはならない。  

B29の本格的本土初空襲は北九州

 44年6月16日、「超空の要塞」と呼ばれたB29爆撃機47機が、中国の米軍基地から発進して北九州の八幡製鉄所を爆撃した。八幡製鉄所の被害は 軽微だったが、B29による初の本格的な日本本土爆撃だった。この年の夏、 米軍はマリアナ諸島のサイパン(7月7日、守備隊3万人全滅)、グアム、テ ニアンを占領して、マリアナの航空基地からB29を発進させ、大規模な本土空襲を開始する。 B29は、最高時速600キロ、約1万メートルの高度で飛ぶ。航続距離は935 0キロ(その前のB17重爆撃機は約3200キロだから約3倍)で行動半径は3 219キロ。乗員11人。約4000機が造られた。高度9千メートルでも与圧装置で 加圧して酸素マスクがいらなかった。

”残虐爆弾”

 「本土空襲と占領日本」(太平洋戦争研究会)によると、米国はB29の開 発と並行して新型の焼夷弾の開発にも着手した。それは「M69」と呼ばれる ナパーム弾だった。「ナパーム」とは、ゼリー状の油脂ガソリン。石油精製の 際の副産物の1つである「ナフサネート」と椰子油などの油脂に水素を添加し た「パーム油」を混合したもので、引火すると燃え上がる。M69はさらに、 亜鉛、鉛、リン、ガソリンなどを混入して着火力と燃焼力を向上させた。後に ベトナム戦争などで使用され、湾岸戦争の時にあまりにも残酷な兵器であるこ とから、米軍はその後使用をやめている。

 ドイツ軍のロンドンへの焼夷弾爆撃や英空軍によるドイツ焼夷弾空爆の成果 をみて米軍は40年に導入を決め、42年11月に量産に入った。M69は、 六角形をした弾筒部19個を束ねて,2段に積み上げ、合計38個を1つの爆弾としたものだった。M69は投下されると、集束していた帯が解かれ、ばらばらに空中に放り出される。布製の約1㍍のリボンが飛び出して揺れを防ぐ。 リボンにも火が付くので、火の雨が降ってくるように見えた。屋根を突き破っ たり、着地すると、TNT爆薬が炸裂。ナパームに火が付く。その燃焼エネル ギーで鋼鉄製の筒を吹き飛ばし、30メートル四方に、ゼリー状のナパームをまき散 らして、建物や人間を火焔に包み込む〃残虐爆弾〃であった。

当初は「軍事関連施設」を主に狙う

 44年11月24日、サイパンなどマリアナ諸島から初の東京空襲が行わ れた。サイパンと日本本土は約2500キロ、行動半径3200キロのB29にと って十分な距離である。B29,111機が出撃した。早乙女勝元の「図説東 京大空襲」によると、6機あるいは10数のグループに分かれて来襲、武蔵野の中島飛行機製作工場に向かい、爆弾攻撃の火ぶたを切った。東京空襲の幕開けだった。12月に入ると、B29の攻撃目標は都市部へと拡大し、連日連夜にわたり来襲、警戒警報と空襲警報のサイレンが休みなしに鳴り響くようになった。12月は計15回もの空襲があり、延べ136機が東京を襲い、751人の死傷者が出た。敗戦の年の45年元日にもB29はやってきた。浅草など 下町を狙い1月中の来襲機は200機を超え人的被害も増え、前月の倍増にな った。2月にはB29のほか、空母から発進した艦載機も加わって計751機 に達し、死傷者は約2千人に膨らんだ。

「無差別爆撃」へ作戦変更

 しかし、精密爆撃では、天候などの影響で十分な成果が上がらないことから、米軍は一般民間人をも巻き込む無差別絨毯爆撃に作戦を変更する。これは都市そのものを抹殺する皆殺し爆撃だった。こうして3月10日の「東京大空襲」を迎える。東京大空襲などを担ったのは、米軍の「第21爆撃兵団」だっ た。司令官は、ヨーロッパ戦線で実績を上げたカーチス・H・ルメイ少将が3 9歳の若さで抜擢された。(保阪正康監修「玉砕の島々と沖縄戦、終戦への 道)

 ここに「第21爆撃兵団」の参謀が作成して、ルメイ司令官に提出した「焼夷電撃戦の分析報告」(原文は英文)がある。国立国会図書館の憲政資料室 が,米国の国立公文書館から購入した資料の中から,20年ぐらい前に岡山空襲資料センターの日笠俊男氏が発見した。これを日本の空襲を研究している奥住喜重氏が翻訳した。「ルメイの焼夷電撃戦 参謀による分析報告」との題名で 同センターが市販している。  

 報告書」によると、45年3月9日(東京大空襲前)以前の米軍の主たる攻撃法は「白昼に、高高度から編隊を組んで精密爆撃をすること」であった。その結果は「不満足」なものだった。例えば、(44年11月24日)中島飛 行機武蔵製作所は、835機が出撃して2327トンの爆弾を投下したが、被害 は4%にすぎなかった。このような例から、思い切って戦術を転換する必要性がある。

 さらに「報告書」は続く。日本上空での気象条件で最大の困難は高高度での上空に吹く風だった。この風に加えて高高度からでは諸目標をたたきつぶすことが確実にできるかは疑わしい。強風の高高度では、集束焼夷弾の特性 で弾道が不正確になる可能性が高い。また、低高度ならば、燃料の消費量も少 ない。そこで3月早々からは日本の都市に対して低高度から、かつ夜間に空襲 をすることにした。日本の経済は市中や工場地域に接した居住地で営まれる家 内工業に強く依存している。大都市に大火が起きれば、これらの地域に存在す る優先目標に火災が及ぶという利点もあり得るので、個々の優先目標に精密爆撃で破壊する必要はなくなる。    

 目標を確実に爆撃するため、低空爆撃の高度は1500-2400メートル。敵の戦闘機と対空砲火に備えて空襲は夜間に、そして爆弾搭載量との関係で、編 隊ではなく、B29の各機が単独で爆撃を行い、焼夷弾は最大限積んでいくことーなど詳細が書かれている。

米国は開戦前から日本家屋の空襲実験

 東京新聞(2015年11月7日)の連載「戦後の地層 近代建築の父の 罪」によると、東京・銀座の老舗書店「教文堂」の9階建てのビルは、1919年に来日したチェコ出身の米国人、アントニン・レーモンドが設計した。レ ーモンドは「聖路加国際病院」などを設計した「日本近代建築の父」と呼ばれ る。日米の開戦直前、帰国していたレーモンドは、米軍からの依頼を受けた。 日本で使う焼夷弾の実験で燃やす木造家屋の設計だった。米西部の砂漠に建て られた日本の街は、布団や畳など細部に至るまで実物と同じようにつくられていた。より効果的に街を空襲するために実験は繰り返され、レーモンドは資材を送り続けたという。米国は空爆で日本家屋にどれだけの被害が出るかの実験 を、開戦前から繰り返していた事実に改めて驚く。

 1945年3月9日、マリアナ諸島の米軍基地。B29の搭乗員に「夜間、 低高度」のほか、「編隊で飛行せず,単独で飛行する」「焼夷弾にのみで市街 地を焼き払う」「できるだけ多くの焼夷弾を搭載するため、武装を取り外す」 などの命令が伝えられた。同日の薄暮に279機のB29が次々と出撃した。 3月10日の午前零時を回ったころから、B29は数機づつ東京に侵入した。

 朝日新聞(2015年3月10日)の「戦後70年」特集によると・・・。 「落ちたぞ。逃げろ」3月10日未明。東京・亀沢(現・墨田区)に暮らし ていた橋本代志子(よしこ)さん=千葉県船橋市=は、父の叫び声 で、押し入れの床下に掘っていた防空壕を飛び出した。北の空が炎で赤く染ま っていた。B29爆撃機が、轟音を響かせながら、次々と焼夷弾を投下してい く。まるで電柱すれすれを飛んでいるかのように、大きく、迫って見えた。橋 本さんは、当時23歳。夫は軍に警備召集され、家を空けていた。1歳3カ月 の長男を背負い、両親や妹らと南へ逃げた。焼夷弾は破裂すると、ゼリー状の ガソリンをまき散らして発火させる。木造家屋が密集した東京の東部の下町 は火の海になった。

長崎原爆より多い死者、東京空襲105回

 この日、B29の大群が焼夷弾をばらまいたのは、東京でも下町が中心だ った。現在では、墨田、台東、江東の各区。しかし、被害地域は渋谷、本郷な どほとんど全都に及んだ。「本土空襲と占領日本」によると、死者は、警視庁調査8万3793人、帝都防空本部8万3070人、米国戦略爆撃調査団8万3600人となっている。いずれの調査も8万人を超えており、その後、手当てのかいもなく、死亡した人もいるので「東京大空襲」の死者は約10万人と いうのが定説となっている。

 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の死者が5万8千人。第2 次大戦の空襲では、43年7月24日のドイツ・ハンブルク空襲の死者が4万人、45年2月13日のドレスデン空襲は死者13万5千人といわれている。 広島原爆の死者よりは少ないが、長崎原爆の約7万人よりも東京大空襲は多く の死者を出した。 ルメイ少将はこの後も、3月12日名古屋、14日大阪、 17日神戸、19日名古屋、25日名古屋、27日北九州と矢継ぎ早に、大規模な焼夷弾空襲を行った。東京空襲は1機のみでのものも加えると、105回 に上った。この中で来襲機数や焼夷弾の投下量で東京大空襲に匹敵するか上回る空襲が4回もあった。この4回の大規模空襲の被害総計は、焼失家屋約50 万戸、死者7713人、負傷者2万8387人、罹災人口約178万8千人に 上る。

 東京大空襲の被害が桁外れに大きかったのは、3月10日は烈風に煽られ, 本所、深川、浅草が木造家屋の密集地帯であったこと、掘割や隅田川にさえぎ られたこと。これらに加えて、「隣組」組織を通じて空襲の際には住民に逃げることよりバケツリレーなどでも消火することを重視した政府の政策が被害を大きくしたともいえよう。早乙女勝元によると、当時は、人々が無断で居住地 から退去したり、避難する自由はなく、防空法によって固く禁じられていた。 東京大空襲・戦災資料センターによると、空襲での死者は東京を始め全国約530市町村で,原爆被害を除き約20万3千人にのぼる。

空爆担ったルメイ少将に勲一等旭日大綬章

  ルメイ少将は、後に第5代空軍参謀総長を務め、空軍大将にまで上り詰め た。原爆投下にも関与し、1962年10月の米国とソ連による核戦争の「キ ューバ危機」の際に「キューバ空爆」を唱えたが、ケネディ大統領から却下さ れたというエピソードの持ち主だ。  

 佐藤栄作内閣当時の1964年(昭和39年)12月、航空自衛隊の育成に貢献したとして、当時、最上位クラスの勲一1等旭日大綬章を授与された。被災者団体などから批判が出たのは当然である。日本の米国従属極まれりの著しい 事例である。佐藤は1974年、非核三原則やアジアの平和への貢献を理由と してノーベル平和賞を日本人で初めて受賞した。(5年前に文教大学情報学部 で教えた「近現代史から今を考える」の8回目のレジュメを一部書き直し、コ ンパクトにまとめた)