市民の集合住宅、負傷者の救急に当たる病院、子どもたちの防空壕となった劇場、避難民が列車を待つ鉄道駅と、狙い撃ったとしか思えない無差別砲爆撃。ロシア軍部隊に席巻された都市や町に残された暴行、拷問の末の殺戮による遺体の山。「戦争犯罪」との国際批判が渦巻くなか、プーチン・ロシア大統領は主戦場を北部から東部や南部に移して新たな大攻勢に乗り出している。プーチン氏はなぜ、ここまでやるのか。何が欲しいのだろうか。
ロシア軍のウクライナ侵攻は2カ月に迫る悲惨な戦闘を経て、西側軍事同盟(NATO)加盟を許さないというロシアとウクライナのスラブ民族の兄弟国家間の紛争から冷戦後世界を一極支配してきた「米国の価値」を拒絶する「ロシアの価値」を対置する「文明の衝突」へと拡大してきた。
「崩壊寸前」の米民主主義
ロシア・ウクライナ関係や東欧に詳しい歴史家T・スナイダー教授(米イエール大学)は、プーチンがウクライナ侵攻のシナリオを次のように描いていたとみる。
「2021年1月6日の米議事堂襲撃デモの映像を見たロシア人は、あれを『平和デモ』というのだから(西側世界の)民主主義も法の支配も、いたるところでジョークになっていると受け取った。トランプがこうした行動で選挙結果をひっくり返そうとしていることは米国民主主義が脆弱になっていることを示している。あと一押しで崩壊するのではないか」
「ウクライナに侵攻して成功を収めれば、バイデンの無能ぶりを見せつけ、屈辱を与えることになる。トランプの政権復帰(2024年選挙で再選)を助け、世界のポピュリスト勢力を元気づけることになる」
「トランプとプーチンは世界をどう見るかで、同じではないがよく似ている。2人にはルールがなく、自分を縛るものは何もない」
スナイダー氏はこれをプーチンの「幻想」だったという。特にバイデンを過少評価したことは、ウクライナ軍と市民たちの決死の抵抗を甘く見て首都キーウは数日で制圧できると判断したことに加えて、2つ目の大誤算だったとスナイダー氏は指摘している(3月25日ワシントン・ポスト紙電子版の同紙コラムニストG・サージャントとのインタビュー)
グローバリズム終焉と文化戦争
プーチン氏のウクライナ侵攻決定の背後には、米国民主主義の脆弱化につけこめるという計算があったと見るのはスナイダー教授だけではない。民主党支持の論客でノーベル経済学賞受賞のP・クルーグマン氏やワシントン・ポスト紙客員コラムニスト、M・バイ氏(元ニューヨーク・タイムズ紙日曜版記者ら)もそうだ。
バイ氏はロシアおよび中国との「第2の冷戦」が始まろうとしているとの見方があることについて、冷戦に米国が勝利したのは軍事力と民主主義の力があったからで、現在のトランプ登場で衰退した米国民主主義では新たな冷戦も勝てると思うのは誤りだと論じている(ロシア軍のウクライナ侵攻が始まった直後の2月25日電子版)。
共和党系の穏健保守主義の理論家で民主党左派には厳しいD・ブルックス氏もニューヨーク・タイムズ紙国際版に1ページ半を費やして「グローバリズムが終わり、米国の民主主義が衰えて、世界的な文化戦争が始まった」(4月12日国際版)とプーチン・ロシアのウクライナ侵攻を論じていることも注目されている。
「プーチンは天才」とトランプ
トランプ氏はプーチン氏のウクライナ侵攻について「プーチンは天才だ、実に賢い」と称賛するコメントを出して、反発を買った。その後は自分が大統領だったらプーチン氏はこんなことはしないなどと取り繕っている。だが本人もトランプ支持者もいまだにプーチン氏を直接批判することは避けている。プーチン、トランプ両氏の間には「特別な関係」があるとみられている。
2016年米大統領選挙の共和党候補に選ばれたトランプ氏。対する民主党クリントン候補はオバマ政権の国務長官で、米ロ関係のリセットの担当者だったが、プーチン氏には嫌われたとされる。ロシア情報機関がクリントン候補に不利になる情報を大量にSNSなどに流して足を引っ張り、トランプ氏を支援したという疑惑が今もくすぶっている。トランプ氏はこの疑惑に関して、トランプ氏に不利な情報がウクライナ政府筋から流されたという疑いを持っている。
ゼレンスキー・ウクライナ大統領は2019年4月に当選するとすぐ、支援要請のためにホワイトハウス訪問を申し入れた。当時、翌2020年の大統領選挙の対立候補と目されるバイデン氏の息子がウクライナのエネルギー企業役員で汚職捜査の対象になり、同氏が前副大統領の立場を利用して捜査を中止させたとの情報があった。トランプ大統領(当時)はバイデン親子の捜査再開を条件にしたり、議会で決まった軍事援助を一時凍結したりした。この時の電話記録が表に出てトランプ氏は議会の弾劾裁判にかけられた(結果は3分の2票の支持は得られず無罪)。
ロシアやウクライナ問題の担当で、この2つのスキャンダルにかかわったホワイトハウスや国務省のスタッフもそろって、トランプ氏の「盗まれた選挙」キャンペーンや議事堂襲撃事件がプーチン氏のウクライナ侵攻に踏み切った判断の背景にあるとみていると報じられた(ニューヨーク・タイムズ紙国際版4月16日)。
「ロシア人の精神の闇」
プーチン氏が執念を抱く「ロシアの価値」とは何か。これは米欧の政治学者や経済学者、あるいはジャーナリストのコメントよりは、日本のロシア文学者や哲学者の説明を聞いた方が分かりやすい。
佐伯啓思・京都大学名誉教授によると、ヨーロッパが生み出した近代文明の典型は米国文明とソ連社会主義だった。ソ連社会主義イデオロギーは冷戦で米国文明に敗れて解体、ロシア民族のアイデンティティが出てくる。それは「ロシア的」なもので、大地と憂鬱、神と人間の実在、ロシア正教風の神秘主義といった独特の空気を持ったものだという(朝日新聞3月26日「異論のススメ」欄)。
ロシア文学者・亀山郁夫氏(東京外国語大学学長を経て名古屋外国語大学学長)は、プーチン氏が抱いている夢が旧ソ連の版図を統制経済とロシア正教の原理で一元化し、西欧でもアジアでもない、独自の精神共同体とみなす「正教の帝国」とする。そこには国境の概念は希薄だとみる。
プーチン氏のウクライナ侵略戦争が2014年に始まった時「ロシア文学者をやめようと思った」というほどの衝撃を受けた」という亀山氏。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」を引用しながら、「神がなければすべては許される」というアナーキーな精神性がロシア人の精神の闇に深く通じているとみている。
亀山氏はプーチン氏のこうした思想を「新ユーラシア主義」と呼び、その観念的なものを実現しようとする過度の思い入れが一番厄介と指摘する。ドストエフスキーはそうした気質を「悪魔つき」と呼んでいるという(毎日新聞4月15日 夕刊「特集ワイド」欄)。
「独自文化」理解しても・・・
プーチン氏はロシア軍部隊による「戦争犯罪」を全て、ウクライナ軍自作自演の「フェイク陰謀」と切り捨てている。このことは「戦争犯罪」が「米国の価値」はもとより、現在の世界においては許されないことだと知っているからのウソとみていいだろう。いかに「独自の文化」の戦争としても、一般市民の無差別殺戮が許されることはない。これはトランプ氏の「盗まれた選挙」や「議事堂襲撃は平和デモ」とする「大ウソ」(民主党)も同じだ。問題は民主主義にはこうした身勝手な陰謀論に対抗する効果的な手段がなかなか見つからないことだ。
「プーチンの戦争犯罪」を非難して国連人権委員会からロシアを追放する決議案が93カ国の賛成多数で採択されたものの(4月7日)、反対24、棄権58、無投票18とその合計が100 となって賛成票よりも多かった。その前に採択されたロシア非難決議の賛成は141カ国、人道支援決議の賛成140カ国だったのと比べると、賛成国が大幅に減っている。国際関係には各国それぞれの様々な事情が絡む現実を語っている。
(4月17日記)