復興のシンボル「二つの辰」 横綱像と龍の松

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2011年3月11日、宮城県気仙沼市は巨大な津波に襲われ壊滅的な被害を受けた。だが湾最先端の「岩井崎」で約10トンある秀ノ山雷五郎の銅像はビクともせず残った。足元には「龍の松」も残った(Photo by Ken Shindo)

 東日本大震災震災から99年になる。岩手県気仙沼市は巨大な津波に襲われた。気仙沼湾の入り口で陸中海岸国立公園「岩井崎」の先端に江戸時代の第九代横綱、秀ノ山雷五郎の銅像が立つ。その足元には龍(辰)の形をした松がある。

大津波に立ち向かった横綱と松の木

 横綱像(10トン)も龍の松も311の大津波に倒れず、この岩井崎で荒浪に打ち勝ち、復興を雄々しく見つめてきた。コロナウイルス対策で無観客試合になっている大相撲は低調だが小柄な炎鵬の活躍が注目されている。秀ノ山は今流に言えば身長163センチで炎鵬(168センチ)より小さかった。 秀ノ山本の名は橋本(旧姓:菊田) 辰五郎。 1808年、陸奥国本吉郡(現・宮城県気仙沼市)で海上運輸業の家の長男として生まれる。

気仙沼市岩井崎の海岸にあった松の巨木は津波で幹や枝が削がれたが、龍のような形として押し止まった(Photo by Ken Shindo)

 力士になる夢あきらめきれず

 根っからの相撲好きの辰五郎は、力士になる夢を諦めきれずに家出、仙台の兄を訪ねたが、猛反対されたため、江戸一人で江戸へ。いくつかの相撲部屋を訪ね歩く。 だが辰五郎は身長の低さから全く相手にされなかった。一度は諦めていたところへ、同郷の荒熊に拾われると、荒熊から使い走り扱いされたことに失望して仙台に戻り、魚問屋「境屋」へ奉公に出た。この奉公の合間に相撲の稽古に励むと力量が増し、再び江戸へ出て秀ノ山部屋へ入門した。 入門後も雑用ばかりで稽古どころか土俵にも上がらせてもらえなかったが、激しい闘志でようやく「北山辰五郎」の四股名で1828年に初土俵を踏む。雲州藩の抱え力士となってからは「天津風雲右衛門」と改名し、のちに横綱へ昇進する不知火諾右衛門と同時に新入幕を果たした。

陸中海岸国立公園岩井崎は気仙沼市の南に位置しダイナミックな大平洋の眺望と松林のコントラストが素晴らしい(Photo by Ken Shindo)

悲願の横綱に

 1844年、「秀ノ山 辰五郎」を襲名した。1847年9月場所で、入門から19年目で吉田司家から悲願の横綱免許を授与された。 1862年6月16日(文久2年5月19日)に死去、56歳没。秀ノ山の墓は東京都江東区亀戸の普門院と、岩手県一関市の願成寺にある。(Photo by Ken Shindo)