住民側の飛行差し止め請求を退けた1981年の「大阪空港騒音公害訴訟」最高裁大法廷判決。このほど見つかった元最高裁判事、団藤重光氏(1913年11月8日~2012年6月25日)の在職中に書いたとみられるノートにより村上朝一元最高裁長官のこの訴訟への介入の可能性が暴露された。ノートには「この種の介入は怪(け)しからんことだ」と書かれていた。団藤氏が亡くなって11年。40年以上前の「司法の独立」を脅かす事実が明らかになったわけだが、団藤氏の自伝には、この〃告発〃を予告する文言があった。
死後も貫かれた団藤氏の「反骨の精神」。日本の刑法学の権威で、東大法学部教授を長くつとめ、最高裁判事(在職は74年10月~83年11月)として果敢に多くの少数意見を書いた。「自分はこころならずも、常に体制の側にあった」(対談集「反骨のコツ」=朝日新書)と自己評価しながらも、終生「死刑廃止論」を展開するなど人権派のオールドリベラリスト(何か懐かしい言葉である)としての存在がいま改めてクローズアップされたのではないか。団藤氏の人権重視の熱い思いは司法でその後、成し遂げられたのか・・・。判決によってではなく、住民側との話し合いで、大阪空港訴訟での最高裁判決後も夜7時から朝7時までの飛行停止は維持されている。しかし、住民側の飛行差し止めの主張を最高裁が退けたことがターニングポイントとなり、横田や厚木の基地公害訴訟では、裁判所が差し止めを認めないという流れを招いている。この事実が、大法廷判決のあった40年以上前の話などではないことを示している。いまも解決せずに続いている問題なのだ。「団藤ノート」が、あらためて司法の在り方を浮き彫りにしたともいえそうである。
「言いたいことは山ほどある」
この〃告発〃を予告していたのは、団藤氏が最高裁判事退官後の86年12月、門下生が聞き手となって書かれた自伝的著書「わが心の旅路」(有斐閣)である。団藤氏の生い立ちから学校時代、東大時代などの思い出が平易な言葉で綴られている。この中で「最高裁判所の9年」を振り返り「最高裁時代の思い出は、今までにもいろいろなものを書いて、(それを別の本にまとめたので)それを読んでいただきたいと思います。そしてお話をするにはやはり、限度があって、それを超えると微妙なことになりすぎますから、いまは申せません」と前置き。その上で「もし、タイム・カプセルの中に入れておいて、100年後に掘り出して後世の人に読んでもらうということなら、言いたいことは山ほどあるのだということだけは申しておきましょう」。団藤氏が「山ほどある」とした言いたいことのひとつは、この「大阪空港訴訟の内幕」のことだったのではないか。私はこの自伝の言葉が百年もたたないうちに今回の「団藤ノート」という形で公にされたことは、日本の司法のより民主的な在り方を考える上で、大きな前進だととらえている。
この「団藤ノート」などを分析・調査したのは、京都市の龍谷大の福島至名誉教授。福島氏は団藤氏と親戚関係にあり、遺族らが同大に日記や事件記録などの資料約9万点を寄贈、同大は福島氏を中心にプロジェクトチームを作り、調査を進めていた(読売新聞オンライン)という。福島氏は龍谷大の文集に「これら一切の団藤文庫について、生前、先生は、龍谷大学に寄贈される意思を示された。このご意思に従い、12年12月までに大学への搬入が完了した」と書いている。12年6月に団藤氏は98歳で亡くなっているので、その半年後に持ち込まれたことになる。この分析結果をNHKが入手し、4月15日午後11時から約1時間、EテレのETV特集「誰のための司法か~團藤重光 最高裁・事件ノート~」で放映され、同月19日、龍谷大が新聞などのメディアに発表した。
NHKのETV特集は関係者多数から証言をとった丁寧な取材で、私はフェイスブック友達からの記事でこのことを知り、NHKプラスで視聴した。この番組で印象的だったのは、当時の大阪空港訴訟の被告・国側の代理人をつとめた法務省訟務局の代理人(裁判官出身)の「裁判官には守秘義務があるからこういうものはシュレッダーにかけて捨てるべきだった」という怒りの言葉だった。私はこの元代理人の怒りの言葉により、なぜ国が元最高裁長官を使ってまでして飛行差し止め阻止にこだわり、この訴訟に介入してきたかが理解できたように思う。
「大法廷回付」で2審判決逆転の可能性
団藤氏はノートに岸上氏の話としてその詳細を記載。「法務省側の意を受けた村上氏が大法廷回付の要望をされた由。この種の介入はけしからぬことだ」と強く批判した。しかし、同年8月、大法廷回付が決まり、79年11月に結審。ところが長官を交代した服部高顕氏が4人の裁判官の交代を理由に審理のやり直しを決定。新たに内閣が任命した4人は、全員が差し止め否認派だった。これで判決が大幅に延びただけでなく、差し止め容認の裁判官は15人中4人の少数派となった。81年12月、大法廷は過去分損害については賠償の支払いを認めたが、飛行差し止めは請求を却下した。差し止めでは、門前払いの判決だった。電話をかけた村上元長官は法務省民事局長など法務省の経験が長い裁判官だった。岡原氏は検察官出身。団藤氏は日記で判決の際の法廷の様子をこう回想している。
「傍聴席からためいきのようなものが洩(も)れる。しかし、感心に最後まで静粛にじっとしていた。それだけにこの判決は原告たちに可哀相(かわいそう)だ」。(=)私はこの言葉にあくまでも、法や証拠に従いながら、弱者・被害者に寄り添うという団藤氏の心の葛藤を見た気がする。
団藤氏の判決での「反対意見」
「多数意見は差し止めについて不適法とみるが、差し止めに関する限り、現行法上、民事訴訟の途(みち)を閉ざすものである」。=団藤氏の多数意見に対する、怒りに近いものがみてとれる。団藤氏の言葉通り、差し止めを認めなかったこの判決のその後の影響は絶大だった。(以上、新聞報道や判決文から)
NHKは特ダネだったのではないか。なぜ総合テレビではなく、Eテレでしかも、視聴する人が少ない深夜の放送だったのか。NHKニュースとしてもっと大きく報道すべきだったのではないか。なぜ読売新聞オンラインは村上元長官の名前を匿名で報じたのか。全体的に大手メディアの扱いは、司法の根幹を揺るがす問題にもかかわらず、控え目だった。
「自民党が米軍を慮って司法に介入」
大阪空港訴訟で飛行差し止めが認められなかった影響は全国の基地騒音公害訴訟に大きな影響を与えた。「当時の自民党政権が米軍を慮って司法に介入したとしか思えない」=4月23日付東京新聞の「本音のコラム」=と言のは前川喜平元文部科学事務次官。私も全くその通りだと思うが、残念ながら、推測でしかない。米軍基地相手の訴訟は日米安保条約や地位協定に関係する。NHKの特集もこの問題の真相に迫れていない。この辺はさらなるメディアの調査報道が必要だろう。
「死刑廃止論者」としての思い
「最高裁判事といっても、人間は人間です。それが『あなたに死刑を宣告します』と言えるかというと、それは絶対に言えない。人間は人間に『死になさい』とは言えない。その単純な事実に、自分が死刑宣告する立場に立って、初めてはっきり気づいたのです」(「反骨のコツ」)と言い切る団藤氏は「死刑廃止論者」としても有名だった。
1991年11月には「死刑廃止論」(有斐閣)を出している。この本の中で①まず「誤判の問題」がある。今では75年の「白鳥決定」により免田事件、財田川事件など4件の死刑事件が無罪となり、再審の道が広くなったので、誤判が少なくなることは間違いない。しかし、これから誤判が本当に絶無になると、一体、誰が断言することが出来るのか。裁判官も人間である以上、絶対に間違いないと言い切ることはできない。再審による救済にも限界があって、決して絶対的なものとはいえない②現在、先進諸国の中で死刑を存置しているのは、米国と日本だけ(米国は州レベルでは古くから死刑を廃止している=筆者注、10年以上死刑執行を停止している州を含めると50州のうちの33州)。日本はさいわいに、世界でもっとも治安状態のよい国である。死刑廃止の条件はすでにそろっている。今や日本でも死刑廃止の方向に進むことこそが、世界の潮流に合致し、憲法前文に示されている通り国際社会において「名誉ある地位を占める」ゆえんではないか③死刑執行の法務省による「恣意の問題」もある。
どのような基準によって執行される死刑囚を選ぶのか。法務省内には基準があるに違いないが、厳秘にされている。公表された的確で合理的な基準があるのでない限り、それは基準がないのと同じことであって、恣意というほかはないーなどと現状を厳しく批判、どうしたら死刑廃止ができるかを論じている。
世界最大の国際人権団体であるアムネスティ・インターナショナルの「死刑廃止著名人メッセージ」に団藤氏は98年2月、「東京大学名誉教授、元最高裁判事」の肩書で以下のようなメッセージを出している。全文は長いので一部を紹介する。
「以前は学者として、死刑は廃止すべきだと考えていましたが、最高裁判事になって痛切な経験があって、確定的に死刑廃止論者になりました。その事件はある田舎町で起きた毒殺事件でした。事件の容疑者としてある男が捕まりました。彼は逮捕以来ずっと否認を続けていました。直接証拠は何もないのです。指紋も残っていませんでした。状況証拠からいうと、この人がやったと疑わせる十分な証拠がありましたので、1,2審とも死刑でした。いよいよ死刑判決を言い渡す日がきました。裁判長が『本件上告を棄却する』と言いました。死刑が確定するということです。私たちが退席しようとし始めたときです。(傍聴席から)『人殺し』という声が法廷中に響いたのです。私には(死刑判決に)わずかに引っかかるものがありました。しかし、現在の司法制度の下では、このようなケースで判決を覆すことはできません。死刑制度がある以上、この事件で死刑が確定したことはやむを得ない結果でした。この経験を通じて、立法によって死刑を廃止する以外には道はないとはっきり確信するようになりました」
団藤氏はこの事件の被告名などについて、明らかにしていない。作曲家、伊東乾氏との対談集の「反骨のコツ」でも同様のエピソードを紹介しているが、「わずかに引っかかるもの」という表現ではなく、「一抹の不安」とやや踏み込んだ言い方をしているが、具体的には語らなかった。インターネットで調べてみたが、63年に茨城県で起きた「波﨑(はさき)事件」のことだとみられる。ウイキペディアにはそのことがはっきりと書かれている。被害者の男性の遺体から青酸化合物が検出されたとして県警は被害者の妻の証言などで富山常喜氏を逮捕し、76年4月に最高裁で富山氏の死刑が確定した。このとき団藤氏は陪席裁判官としてこの事件に関与した。
富山氏は逮捕時から一貫してえん罪を主張。02年、衆院法務委員会で保坂展人衆院議員(現世田谷区長)が、85歳になり、身体の具合が悪化していた富山氏を病院に移すことを求めた。しかし、当時の森山真弓法相は「拘置所が適切に判断するだろう」と答えただけだった。このとき、保坂氏は「有名な最高裁判事だった団藤氏もインタビューで言っている」と上記の話に触れた上で質問している。富山氏は3度目の再審請求中の03年に東京拘置所で死亡した。86歳だった。この判決をきっかけに、さらに、団藤氏の死刑廃止への思いは亡くなるまで深まっていった。
刑事裁判においては、最高裁は一般の事件と「死刑事件」を区別して、死刑事件は慎重を期して口頭弁論を開くことが慣例となっている。しかし、団藤氏が戦後、起案した刑事訴訟法によって、上告審では事実認定に関して判決に影響を及ぼす重大な事実誤認がなければ、原判決を破棄できないと定められている。団藤氏が「現在の司法制度の下では」というのは、このことを指す。また、1審では「裁判員裁判」となるが、死刑判決は裁判官と裁判員の多数決で決まる。ただし、多数意見には裁判官、裁判員の双方の最低1人は加わらなければならないルールとなっている。人の命を奪う死刑を多数決で判断していいのか、という問題もある。団藤氏は「国民や民衆から沸き上がってくる制度なら別だが、官製のものである」ことなどを理由に裁判員制度自体にも反対していた。
文化勲章を受章した元最高裁判事がアムネスティの著名人メッセージで「死刑廃止論」をとうとうと述べる。これだけでも国際的インパクトは大きい。20年12月現在のアムネスティ調査によると、事実上死刑を廃止しているのは144カ国、存置国55カ国。EUは死刑廃止を加盟条件としているし、フランスは07年、憲法で死刑を禁止した。こういう中で日本では世論調査(2019年内閣府調査)で8割が死刑に賛成している現実がある。日本も参加する国連人権理事会はことし2月、日本の人権状況ついて審査を行い、「死刑制度の廃止」を勧告した。日本は死刑廃止だけでなく、特定秘密保護法、共謀罪、放送法、入管法などでの国連人権機関のさまざまな勧告を受けているが、いずれも「法的拘束力がない」ことなどを理由に再三、拒否している。日本は人権理事会の理事国を長年つとめてきたはずである。国際人権法上、とても先進国とは思えない恥ずかしい状況が続いている。団藤氏の期待する政府や国会はこの問題に本気で取り組む気は全くないようだ。また、メディアもこの問題について、ほとんど報道しない。「死刑廃止」で団藤氏の思いが国民に十分に伝わる日はくるのだろうか。
まだ険しい「再審開始」への道
団藤氏は75年5月の最高裁「白鳥決定」に裁判官として関与した。再審にも「疑わしきは被告人の利益に」との刑事裁判の原則が適用されるとして、それまで「開かずの扉」といわれた再審開始の門戸を広げる日本の刑事裁判史上、画期的な決定だった。私は74年7月から79年6月まで約5年間、司法記者クラブに在籍し、「白鳥決定」の記事を書いている。白鳥事件は52年1月に札幌市で白鳥一雄警部補が射殺された事件。63年に被告の懲役刑が確定したが、被告は証拠の偽造などで無罪を訴え65年、再審請求。75年、被告側の最高裁への特別抗告は棄却された。
私はこのとき、自分の不勉強もあるが、「主文」だけみて、単に再審請求が退けられただけと考えていたが、記者クラブ担当の最高裁局付け判事補のレクチュアで最高裁が再審開始の門戸を広げたことを知り、共同通信ボックスが大騒ぎとなったことを覚えている。この「白鳥決定」により、以後、確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じれば再審を開始できるようになった。第1小法廷、全員一致の判断だった。確かに、「白鳥決定」後、4件の死刑囚の再審無罪が出て、再審の門戸は広がったことは事実だ。しかし、その制度改正にはつながらなかった。66年、静岡県清水市で起きた一家4人が殺された「袴田事件」でことし3月、静岡地裁の再審開始決定を東京高裁が支持する判断を出し、東京高検が最高裁への特別抗告を断念したため、死刑確定事件としては戦後5件目となる袴田巌氏(87)の再審開始が確定した。しかし、検察側が有罪立証をするのか、7月まで明らかにしない対応を示したことから弁護側だけでなく、国会でも批判が高まっている。これに伴い、70年以上変わっていない再審法(刑事訴訟法)の改正を求める声も出てきた。日弁連では、「再審手続きに関する規定が少ないため、担当裁判官によって再審請求審の進め方に格差がある」とした上で①証拠開示の制度化②審理の長期化につながる特別抗告など検察官の不服申立禁止ーなどを訴えている(東京新聞、4月12日付の「こちら特報部」)。団藤氏が裁判官として加わった「白鳥決定」の再審開始への影響は大きいが、本格的な再審開始への道のりはまだ険しいというのが実態だろう。
「反骨のコツ」
「団藤ノート」をきっかけに、団藤氏のあまたある「司法の在り方」の問題提起について、私は①民事訴訟での差し止め請求②死刑廃止③再審開始決定ーの三つの問題に絞って取り上げて、団藤氏の考えや司法のその後の動きを紹介した。団藤氏の指摘や業績はいずれも「法曹界の巨人」といっても言い過ぎではないほどの大きな影響をもたらした。その根本にはご自分が自称される通り「反骨精神」があったと思う。団藤氏は「反骨のコツ」でこう言う。
「反骨のコツですか・・・気骨を持って進むとき、何かにぶつかることがあるでしょう。ぶつかると跳ね返りますね。そこで『反骨』になる。そのとき囚われた目で見るのではなくてね、あるがままを見て、そこで『正義』を実践する。法の本質はここにありますね。そして正義の実践には反骨をも辞さない。正義の骨法、これが陽明学の要諦です。それは腹の底から出て来なきゃならない。ざっとこんなところでしょう。未来を担う若い人々には、そういう反骨精神を持ってもらいたいですね」。
その道の最高の権威者になってからも、このようなことが言える人間こそ、万人が尊敬する偉大な人物だと私は思う。この言葉こそが若い人たちに対する、団藤氏の「遺訓」として受け止めたい。
(了)