「原爆の父」の栄光、苦悩、悲劇描く映画が米欧で最高傑作と評価 「血に汚れたわが手」に苦しみ、悩む 米国は今「オッペンハイマーの歴史」が必要に 「プーチンの戦争」で核戦争の恐怖におびえる中

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 「原爆の父」を描く大作映画「オッペンハイマー」が欧米で公開中だ。恐怖の核兵器開発に成功するものの「血に汚れたわが手」と苦悩する姿を描き、「最高傑作」と米欧で評価。ロシアのウクライナ侵攻で世界が核戦争の恐怖におびえる中、かつて核廃絶と冷戦終結へタカ派レーガンを動かしたのも「核戦争」映画の衝撃だった。米国は今、オッペンハイマーの「成功、苦悩、悲劇」の歴史が必要になった。

 広島・長崎へ投下された原爆を開発した米科学者チームリーダーのオッペンハイマーを描いた映画にについての報道で、ある歴史が重なって思い出された。1981年に野放しの核軍拡競争でソ連を屈服させるという強硬策を掲げたレーガン大統領が登場、米ソ核戦争の危機感が広がった40年ほど前のことだ。核戦争がもたらす恐怖の世界を描いた映画「ザ・デイ・アフター」(ABCテレビ制作)が上映され、これを観たレーガンは衝撃を受けてゴルバチョフ・ソ連大統領との核廃絶交渉に転換、冷戦終結への道を開いた。「オッペンハイマー」をプーチン氏や岸田首相ら世界の指導者を含め、ひとりでも多くの人に観てもらいたいと思う。

初の原爆実験成功から78年

 映画監督C・ノーランが原爆問題の研究者K・バード、M・シャーウィン共著のオッペンハイマー伝記「アメリカのプロメテウス」(原題)を基にした映画「オッペンハイマー」製作の計画を公表したのは2021年7月。トランプ大統領が前年大統領選の敗北を受けいれず、バイデン大統領の当選の投票結果転覆を図る異常な政治状況に陥ってしばらくしたころだ。オッペンハイマーら原爆チームが初めて爆発実験に成功した1945年7月16日から78年目の週に、ニューヨーク、ロンドン、パリで一斉に封切る日程になっていた(ハリウッド労組のストライキなどで公開日程にずれが生じた)。報道によると、作品の評価はすべて「最高の傑作」。米国ではコメディー映画「バービー」と同時公開され、どちらも興行的にも今年最高記録で滑り出している。

ルーズベルト急死-歴史のイフ?

 オッペンハイマーをリーダーとする科学者チームの研究が進むにつれて、原爆がそれまでの(通常)爆弾とは桁違いの巨大な爆発力を持つことが分かる。こんな兵器は造っても、使ってもいけないのではないか。疑念と苦悶が科学者チームから原爆開発計画の責任者スチムソン陸軍長官(現在の国防長官に当たる)へ、さらにルーズベルト大統領へと伝わっていく。ルーズベルトはその答えを示さないまま急死する。

 しかし、その死(1945年4月12日)の前日、2日後のジェファソン記念日の演説を口述筆記させていた。そこには次の文節が残されていた。▽文明を存続させたいなら、すべての民族と人種が平和的に共存し、活動するすべを体得しなければならない▽この戦争を終結させるだけでなく、一切の戦争の原因に永久にとどめを刺さなければならない▽大量殺戮によって国家間の意見の対立を解決しようという考え難い、非現実的なやり方を終わらせなければならない。

 これが原爆についての考えを述べたものだったのかは分からない。だが、ルーズベルトの頭の中には間もなく手にする原爆があったと受け取ってもおかしくはない。

「洗い流せばいい」とトルーマン

 上院議員から副大統領に引き上げられたばかりのトルーマン大統領の経験は浅く、原爆開発計画も初めて知った。不安でいっぱいのトルーマンは、議会の実力者でルーズベルトに近かったJ・バーンズを特別顧問に頼み込込んだ(のち国務長官)。議会政治に長けたバーンズ主導の下で、歴史はヒロシマ・ナガサキへ向かって走り出した。

 オッペンハイマーは広島・長崎爆撃の結果を知って、その責任の重さに苦しむ。トルーマンに両手を差し出し「私の手は血で汚れている」と言葉が走った。トルーマンは冷たく「洗い流せばいい」と横を向いた。米国は原爆からさらに水爆開発に進む。オッペンハイマーは反対して政府から追われ、最後は「ソ連のスパイ」視されて、「国家秘密にかかわる資格」をはく奪された。しかし、米国は今、オッペンハイマーの「成功、苦悩、悲劇」の歴史が必要となった。

「悪の帝国」と交渉へ静かな転換

 ソ連を「悪の帝国」と呼び「強い米国の再興」を掲げるレーガンを、米世論は草の根の反核運動「フリーズ」(核軍拡の凍結)で迎えた。全米43州の州、市、郡の議会が次々と「フリーズ支持」を決議。レーガン政権発足から1年半の1982年6月国連軍縮特別総会開催、ニューヨーク市で100万人集会が開かれ、この勢いは西欧諸国にも広がった。レーガンは衝撃を受けながらも、100万人集会の背後で外国の工作員が煽っている証拠があると反撃もした。しかし、実はタカ派レーガンに少しずつ「変化」が起こり始めていた。

 レーガンは「核戦争には勝者はいないのだから、核戦争はしてはいけない」(82年4月のラジオ演説)と核戦争を否定した。次に「核の『フリーズ』ではなく『削減』を求めなければならない」(同5月のユーレカ大学での演説)と述べた後、それまでの米ソ核制限交渉は核削減につながらなかったとして、同交渉を「核削減交渉」と呼び換えた。メディアはこの微妙な変化に気が付くのが遅れた。

「ザ・デイ・アフター」の衝撃

 その一方で、一触即発の核戦争につながる出来事が次々に起こっていく。大韓航空機(kAL)が通常航路を外れてソ連領空に入り込み、その情報が関係国に十分伝わらないままソ連戦闘機に撃墜される事件(83年9月)。北大西洋条約機構(NATO)の30万人を動員した大規模な軍事演習がスカンジナビアから地中海にかけての広範な地域で行われ、レーガン政権の強硬姿勢を警戒するソ連が、演習に名を借りて実際に核攻撃を仕掛けようとしているとパニックを起こし、東独とポーランド駐留のソ連軍が核反撃態勢に入った(同11月)。 

 そんな緊迫した情勢の中で(レーガンは)映画「ザ・デイ・アフター」を一般上映に先立って軍首脳部とともに観た。レーガンは映画製作者が驚くほどの衝撃を受け、ほとんど言葉を発しなかった(同)。

 レーガンはそのあとすぐ、国防総省から対ソ核戦争のシナリオ、戦略統合作戦計画(CIOP)の説明を受けた。ソ連内の核攻撃目標は5万カ所。半分は軍事施設、残り半分は経済・産業施設で人口密集地も含まれている。レーガンは「ザ・デイ・アフター」そのままだ、非人道的だ、受けいれられない、核戦争に勝つと思うのはクレージーだ、などと発言した(同)。

 こうした推移の中で、レーガンは核戦争を引き起こさないためには「核廃絶」しかないと判断を固めるに当たって最も大きな影響を受けたのはテレビ映画「ザ・デイ・アフター」の映像だったと回顧録に記している。

レーガンとゴルバチョフ

 ソ連ではブレジネフ書記長が死去(82年11月)して18年の長期政権が終わり、85年3月.ゴルバチョフ書記長がトップに就いた。レーガンとゴルバチョフは85年、ジュネーブでの初の首脳会談で核不拡散などに合意、続く86年10月のレイキャビック会談はレーガンの「夢」と呼ばれた「スターウォーズ計画」を巡って「物別れ」に終わった。しかし、その後は87年に「中短距離核廃絶条約」に調印、さらに1990年12月レーガンを引き継いだブッシュ(父)とゴルバチョフが冷戦終結を宣言する。歴史は大きく動いた。

(7月27日記。本稿は拙著「原爆カード」2007年明石書店、「核と反核の70年」2015年リベルタ出版から多くを引用した)