<護憲三長老の歴史観と憲法観と今>3回続きの(中) 村山富市首相 「戦争責任にけじめ」をつけた村山談話

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 村山富市首相(99)の自社さ政権は「55年体制」が崩壊した後、細川護熙、羽田孜内閣に続いて誕生する。自民、社会、さきがけという組み合わせは、いかにも奇異に受け取られた。いくら政治は打算の産物的なところがあると言え、自社はことごとく対立して40年近く不倶戴天の敵の関係にあったからである。自民党が政権に返り咲きたい一心から編み出した奇手だった。

 村山政権は、1995年の「戦後50年国会決議」と、終戦記念日の「村山総理談話」を柱にした。日本の戦争責任を、はっきりさせることを主張してきた社会党の委員長が、戦後50年という節目の前年に首相になったことは、因縁めいたものも感じられた。

 村山氏は当時の模様をこう語る。「大臣の経験もなければ、首相官邸になんかめったに行ったこともない。それがいきなりだった。本会議場で総理に指名された途端に、役人やSPに囲まれてそのまま官邸に連れて行かれた。執務室に入って、おっこれが総理の椅子かと座ってみたら、腹を決めざる得なくなった。総理が務まるとすれば、捨て身に徹することしかないと言い聞かせた」

社会党政権の「役割と任務」

 社会党政権が歴史に対して役割があるとすれば、結党以来の党是ともいえる「戦争に対するけじめ」を掲げて、政権を争うのが政党政治の本来の在り方であろう。また政権担当に当っては、「違憲の自衛隊から合憲の自衛隊」「日米安保条約反対から日米安保支持」「日の丸・君が代の容認」は、党内で議論しておかなければならない。首相になって日米安保反対ではすまされないが、いずれも基本政策の大転換だから短期間で結論が出そうになかった。  
 
 一方、自民党にとって何はともあれ、政権奪還こそ至上命題である。本来ならこうした基本政策は、両党間で決着をつけておいてから、連立政権の話し合いになるのが筋だと思われるが、現実政治の方ばかりがどんどん進んでいった。この基本政策の転換は、社会党や支持層をはじめ労働組合、市民運動に激震を広げていく。譲歩を重ねてきた村山氏も「戦争へのけじめ」だけは、もはやどうしても譲れなかった。

「植民地支配」「侵略」「国策の誤り」「痛切な反省と心からのおわび」の4柱

 村山談話は、「植民地支配」と「侵略」によって損害と多大の苦痛を与えたこと、「国策の誤り」、歴史的事実を謙虚に受け止めて「痛切な反省と、心からのおわび」―の四つの柱からなっている。国の意志であることをはっきりさせるために閣議決定とし、世界に向けて発信された。

 ただし、この談話には当時でもまだ不十分だとの指摘があった。例えば、どの政権が国策を誤ったのか、責任者はだれだったのかなどには触れていないことである。もう少し具体的に踏み込み込むべきだったという声があった。この戦争責任については中曽根康弘首相が間接的に侵略を認め、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹政権と、議論はあったが「侵略」と「植民地支配」に言及し小泉純一郎、麻生太郎、安倍晋三など歴代政権に引き継がれている。したがって、アジアとの関係に関する限り、日本の戦争責任にけじめをつけ、戦後政治史に画期を刻んだということになる。

謝罪続けるドイツ 反発にも冷静に対処

 村山氏はその後、何度かアジアを回っているが、気になることがある。日本人は戦争の被害者意識はあるが、加害者意識は希薄なことである。同じ立場で戦争をした日本とドイツは事情が異なり一概に比較はできないが、ドイツは東京裁判にあたるニュルンベルク裁判のほかに、国内の裁判所で独自に戦争犯罪を裁いていることだ。その結果、9万人以上のナチス関係者を起訴し、有罪判決は7000件を超えたという。1979年にはドイツ議会は、ナチスの犯罪の時効を廃止し、永久に追及すると決議している。歴史教科書についても周辺諸国と調整を終えている。

 村山政権が発足した94年にはヘルツォーク大統領が「ナチスとドイツ国民の責任」と題したメッセージを発し、その後もフランスの山奥でナチスが教会を破壊した事件について、大統領がその村を訪ねて謝罪した。ドイツの謝罪は今も続いていることだ。そして村山氏が今でも感心することは、ドイツでも「反省や謝罪」に対して反発が起きるが、政府はその都度、冷静に対処していることである。
                                       (了)