「今この人がいたらな」という話になると、名前が挙がるのが後藤田正晴(副総理大臣)氏である。「今日はびっくりしたな」とか「さっきは腰を抜かしたよ」と言って話が始まった。いったい何があったのですかと聞くと、九州出身のある議員が自民党本部の会合で「我々の世代には戦争責任はない。戦争責任は戦争を行った世代にある。われわれはそれにとらわれることはない」と言ったというのである。その議員はその後もこういう分野で活躍している。
辞表を懐に掃海艇派遣止める
後藤田氏がなぜ護憲派なのか、宮沢、村山両氏もそうだが、ほぼ同じ世代、戦争観や歴史観を共有していることである。1987年7月、イラン・イラク戦争によってイランがペルシャ湾に機雷を敷設され、日本政府は米国から掃海艇派遣を求められた。当時、中曽根内閣の官房長官だった後藤田氏は、「憲法上、自衛隊は他国からの不法侵略を防ぐための存在で、行動は国内に限っている。交戦地域に海上自衛隊を派遣するのは許されるということですか」と、中曽根首相に派遣を思い止まらせている。宮沢政権はPKO(国連平和維持活動)でカンボジアに自衛隊を派遣したが、これは休戦協定が成立していたからである。
後に聞いた話だが、後藤田氏は中曽根首相に、「閣議に海上自衛隊の派遣などの法案が提出されても署名しません」と伝えたという。その後、安倍晋三政権の憲法論議とか内閣法制局長官人事とかがあると、「第二の後藤田氏は出ないか」と期待したが、残念ながら東洋の古典が言う「国乱れて忠臣現る」には至っていない。
党綱領から「改憲を外す」
自民党は95年に野に下り、河野洋平総裁が、党の改革に取り組んだ。結党以来、党綱領に掲げてきた「憲法改正」を「国民とともに広く議論していく」と変えたことがある。主導したのは党基本問題調査会長の後藤田氏だったが、激しい口調で会長席に詰め寄ってきた1人にくだんの議員がいたという。
後藤田氏の言動には戦前、戦中、戦後を踏まえた歴史観を抜きに考えられない。1918年に第一次世界大戦が終わると景気は一気によくなった。だが、すぐ反動で極端に悪くなり、三陸沖地震などもあって、農村では娘を売りに出すという事態になる。農村出身の兵から窮状を聞いた若手将校は同情して右翼の青年に話す。30年11月に浜口雄幸首相がテロに遭い、32年2月に井上準之助前蔵相、3月には団琢磨・三井合名理事長、5月には5・15事件で犬養毅首相射殺と続く。
後藤田氏は中学生だったが、新聞はテロのたびに大きく掲載し、国民はむしろ喝采するようだったという。それだけ国民生活は苦しく、政治家や経済界に対する批判が強かったといえる。そして日中戦争から日米戦争に向かう。今は社会保障制度など当時より整っているが、政治家は日ごろ国民生活に細心の注意が必要だとよく言っている。
アジア情勢の中で考える
憲法観になるが、憲法は国家運営の基本だから内外情勢に対応しきれなくなれば改正して然りです。ただし憲法に流れている基本精神、28年の不戦条約とか国連憲章の流れを受けた平和宣言、国際協調や基本的人権、民主主義などは近代国家としての価値観を持っている。この憲法があったからこそ憲法制定76年の間、日本は戦争でだれも殺さなかったし、殺されることもなかった。「戦争を知らない世代は威勢がよすぎて心配だ」というのも口癖だった。
集団的自衛権については、この76年間、米国ぐらい戦争をしている国はない。朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフリカや中東、平和と言いながら戦争をしている。これに日本はお付き合いできますか。今でも日本の防衛予算はドイツ、フランスに次いでほぼ同じだ。集団的自衛権はよく考えた方がいいのではないか。
後藤田、宮沢、村山の3氏は、アジアとの関係を視野に入れていることでも共通している。「中国は安定するか、朝鮮半島の対立や台湾情勢はどうか。中国や台湾情勢がきしんでいる時に憲法論議をしたら、中国や韓国を敵視する雰囲気が憲法に反映され、取り返しのつかなくなる―と言っている。
異見言う勇気持て
こんなことを聞いた。日米安保条約は軍事同盟で敵を想定しているが、日中両国には平和友好条約がある。日米安保条約は日米平和友好条約にするのが歴史の進歩ではないか。けだし卓見というべきであろう。
後藤田、宮沢、村山3氏は、新自由主義経済にも共通した懸念を抱く。富裕層は誕生するが、一方で貧富の格差が広がり、しかも格差は固定化されがちだ。そうなると不満が膨らんで社会不安が起きる。このところ妙な事件が相次いでいるが、今の経済、社会状況と無関係ではないのではないか。
最後にもう一点、つけ加えると、日本人は大事なことはほとんど議論をしないで、会議の空気で決めることである。決まると一瀉千里に走り出す。どんな会議でも意見があったら「私には異見がある」と発言する勇気をもつことではないか。護憲三長老の憂国である。
(了)