✺神々の源流を歩く✺

投稿者:

◎第43回 高御魂神社と神御魂神社

高皇産霊、中央に進出 対馬にそろった記紀神話と対馬の神々

 対馬の神社を訪ねていて不思議に思うことは、記紀神話に登場する神々が対馬に集中していることだった。皇室の祖神では高御産霊(たかみむすび)、天照魂(あまてるみたま)、彦火火出見(ひこほほでみ)、その側近の神御魂(かみむすび)、天児屋根(あめのこやね)、天太玉(あめのふとだま)がいる。

      
 出雲系では素戔嗚、大己貴(おおなむじ)、少彦名(すくなひこな)、海神系では大綿津見(おおわたつみ)、豊玉姫などを祭る和多都美系、住吉系、宗像系など、建国神話にかかわる多くの神々が、狭い対馬になぜこんなに大勢そろっているのか興味がわいた。

対馬固有の天道信仰の聖地

                
 高御魂神社は、島の南西部にあたる厳原町豆酘(つつ)の多久頭魂神社の境内にある。祭神は 高皇産霊尊(たかみむすび)。大都市にあるような大きな社殿を想像していたが、いたって小ぶりである。ここ一帯は前にも触れた対馬固有の天道信仰の聖地でもある。

 高御魂については、宮廷祭祀で皇室本来の神々を祀る「八神殿」には、タカミムスビ以下の八神が祀られている。ただしこのなかにアマテラスの名がないことから、高御魂が皇室本来の祖神だったのではないかいう見方がある。

 高御魂は、ここから遠くない豆酘中学校の校地にあったが、1957(昭和32)年、学校建設地の拡大のために、この地に移された。近くに赤米の斎田があり、神社の神事用に耕作されている。

日本書紀に興味深い記事

                       
 日本書紀の顕宗天皇三年の条に興味深い記事が載っている。それは「日神人に著(かかり)て、阿閇臣事代(あべのおみことしろ)に謂て曰く。磐余の田を以て我が祖高皇産霊に献れ、便ち奏す。神の乞いの依(まま)に田十四町を献る。対馬の下県直祠に侍る」という記録である。

 これは阿閇臣事代が、任那に使いした際、日神がある人に神懸って託宣して言うには、タカミムスビが天地を作った功績に対して「磐余(いわれ、奈良県桜井市・橿原市))の田を以て、我が祖の高皇産霊に献れ」というもので、朝廷は日神の要求通りに田十四町を献上し、対馬の下県直が祠になって仕えたというのである。

皇室と同じ祖神祭る

                   
 郷土史家の永留久恵氏は、「対馬に祭られていた高御魂が大和に移り、対馬の下県直が祠官として仕えたということは本来、高御魂と神御魂の神は、八百万神の上位に立つ神とされているが、対馬県直といわれた古代の為政者は、皇室と同じ祖神(天照魂と高皇産の霊)を祭っていたことになる」といっている。

                      
 一方 神御魂神社は、北部の上県町佐護の佐護川河口の森にある天神多久頭魂神社の敷地内にある。神御魂の性別は不明とされるが、ご神体は木造で、日輪を抱いていることから女神とされる。ここも天道信仰の聖地で、厳原町豆酘の高御魂神社はタカミムスビを祀り、神御魂神社は女房神とされる太陽神のカミムスビを祭って、男女対になっている。

朝鮮半島との関係の濃密さ

                               
 対馬の神道については記紀が、5世紀に対馬と壱岐の神社と亀朴が磐余に遷座したという記事が注目される。磐余(いわれ、奈良県)は大和朝廷発足の地で、その磐余と対馬は多くの似た神社を共有しているのは、すべて移ったのではないとしても、古い海神系の神話などは、記紀神話に反映されたであろう。亀朴、占いなどは中国、朝鮮半島が進んでおり、例えば、対馬の亀朴や卜部は中臣、藤原氏につながる対馬の藤氏がかかわり、その一族は伊勢神宮の宮司になっているという記録もあり、対馬が重視されていたことがうかがえる。 

 対州神社誌には、高御魂神社のご神体石は、「うつお船」に載って海の向こうから漂着した霊石を祭っているといわれる。志多留のカナグラサマにも、海岸に流れ着いた甕を祭ったという言い伝えがる。記紀に出てくる天(あま)は、「海」とも書かれている。高御魂、神御魂も海の向こうからの由来を思わせる。朝鮮半島との関係は尋ねれば尋ねるほど濃密さが深まってくる。

古代史の宝庫売り出しを

 対馬は、町中少し歩くとすぐに鳥居や神社が目につく。壱岐に次いで神社の密度が高いといわれ、記紀神話にかかわりを持った伝承も豊富だ。ただし不思議なのは、どこもPRに控えめで、神社に由緒書きや案内版なども少ない。そのなかで対馬観光物産協会が編集したコンパクトな「対馬神社ガイドブック」は大いに役に立った。記紀神話に先だつような神話や地名がたくさんあるのに、もっと古代史の宝庫を、売り出してもいいのではないかと思われた。