✺神々の源流を歩く✺

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◎第44回 伊奈久比神社  稲作の伝来地

◆「稲を食う」が「イナクヒ」

 上県の西海岸に飛び出した岬は伊奈崎と呼ばれ、伊奈久比神社のある伊奈はこの地方の中心地で、近隣の越高,志多留には縄文時代の貝塚、弥生時代の遺跡などがあり、古くから人々が生活していた。

 伊奈のすぐ隣の志多留の榎田には、縄文後期から弥生時代にかけての遺跡から石包丁が出土している。これは、中国や朝鮮で半月形石刀と呼ばれ、金石併用期の頃、稲の穂を摘むために使われた農具といわれる。中国の揚子江下流域から山東半島、さらに南朝鮮、北九州を経て畿内まで分布していることか対馬は面積の89%が山地だから農耕地はほんのわずかだ。だからかもしれないが、穀物神のお稲荷さんは対馬では見かけなかった。お稲荷さんの神獣のキツネも対馬にはいないという。

朝鮮半島からの最初の稲の伝来地

               
 いかにも歴史を感じさせる緩やかな石組みの階段を上りきり、目の前の伊奈久比神社本殿に目を凝らすと、サッシの戸で、窓にもガラス戸がはめてあるので一瞬、戸惑った。ただし神とともに生きた往古の人々の生活感が知られるようで親しみも持てる。祭神は穀神の大歳の神で、朝鮮半島から最初の稲の伝来地とされる。

                                                          
 社伝によると「上古、八幡尊神を伊豆山に祭る時、大空に奇しき声あり。白鶴稲穂を銜(くわ)え来り、これを沢の邊に落し、たちまち大歳神(おおどし)となる。その霊を祭りて稲作神となし、田を開きて落穂を植え、神饌を得てこれを祭る。これ本州(対洲・対馬)稲作の始めにして、伊奈の地名は稲に由来す。古は大伊奈といふ。其の稲を落せし所を穂流川といひ、古跡今に存す」とある。「式内社調査報告」もほぼ同じ記述である。

「伊奈久比」は「稲喰い」

       
 この故事は稲作の伝来地であることがうかがわせるとされる。白鳥の古名は「鵠(くぐい)」と呼ばれる。稲鵠(いねくぐい)が、伊奈久比だとすると、稲を運んだのは白鶴ではなく白鳥ということになる。

 郷土出身の古代史家、永留久恵氏は、伊奈久比については定まった解釈はないが、伊奈は稲で、クヒは収穫した稲穂を献じてそれを食する「喰い」のことという。新嘗の儀式が当然行われていたであろうから、伊奈久比神社は稲魂を祭る所だったのだろう。稲作の経路、ひいては弥生文化の源を考えるうえで重要な手掛かりになるとしている。

志多留が対馬稲作の伝来地か

 この弥生遺跡に近い大将軍山古墳からは、中国後漢時代の鏡や朝鮮の土器も発見されている。この地域は早くから開発され、大陸との交渉があったことがうかがえる。坂を越えると志多留でこの地名は、「(水が)したたる」から来ていると言われ、この地域に「鶴鳴橋」「穂流川」「垂穂橋」など稲に関係する地名がある。

 近くに志多留能理刀神社、伊奈久比神社に奉納する赤米を作る斎田もあることから、志多留の方が対馬稲作の伝来地だったのではないかとみられている。

                                    (了)