〖山崎博康さん逝く〗激動の旧ソ連・東欧取材に足跡 共同通信OBらが偲ぶ会

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 共同通信社でワルシャワ、モスクワ支局長を務め、東欧と旧ソ連の激動期を現場でウオッチし続けた山崎博康さんが7月18日に逝去された。享年75歳。独り暮らしの病死でした。共同外信部のOB、OGを中心に55人余が9月29日、山崎さんを偲ぶ会に集まり、旧ソ連・東欧の取材に情熱を傾けてきた山崎さんを追悼し、旧ソ連・東欧の取材に渾身を傾けた思い出を語りました。

 ロシアのウクライナ侵攻で世界が大きく揺れ動く中、山崎さんが東欧、ロシア取材で残した足跡や人となりをよく知る元共同通信記者の2人の思い出を掲載しました。また山崎さんの長男山崎マイク晴樹さんの父親への愛情あふれる謝辞を載せました。

                   保田龍夫                    

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激動の情勢を著した「東欧革命」を岩波新書からともに出版 戒厳令直後のワルシャワに赴任 邦人の社交場となった支局 ポーランド語教えた女性と結ばれる

                    三浦元博

                    共同通信元ウィーン支局長

 山崎さんとの初対面は1984年9月9日、ワルシャワの夜10時半ごろだった。留学のためモスクワ経由でやっとたどり着いたオケンチェ空港(現在はショパン空港)の到着ロビーに、あの人なつっこい丸い笑顔があった。それからほぼ10カ月間、奥方マゴーシャさんとハルキ、トモキの幼い兄弟のいる山崎家は私のワルシャワ生活に欠かせないオアシスであった。

 外信部から急逝の報を聞き、当時の日記を繰ってみた。随所に山崎さんが登場する。ワルシャワ到着の翌日、大学の諸手続きに付き合ってくれた。日本なら真冬並みの気温のなか、シャワーの温水が出ず、便器も目詰まりしていて、およそ人間が棲息する所とは思えない学生寮で絶望的な気分になっていると3日後には北東部マズーリ湖沼地方で開かれるワルシャワ大日本学科の合宿に一緒に行こうと誘われ、山崎さんのフォルクスワーゲン・サンタナで出かけた。

 就任間もないゴルバチョフ(旧ソ連共産党書記長)が来訪したワルシャワ条約首脳会議。出張してきた榎彰ウィーン支局長、浜島高而モスクワ支局長を案内してクラクフ-アウシュヴィッツへ小旅行(85年4月27日~29日)。西ドイツへの旅(85年5月26日~6月3日)では大塚寿一ボン支局長に紹介していただいた。いつも山崎さんの愛車に便乗した。先輩風を吹かす凡庸な人とちがって、後輩への言葉づかいも実に丁寧な紳士だった。                                                                                                                                                                

 当時ワルシャワに常駐支局を置いていたのは共同と読売。山崎さんは大塚さんの後を継いで1981年12月の戒厳令発令直後(大晦日だったらしい)にワルシャワ入り。日本人記者にポーランド語を教えていたマゴーシャさんと知り合って間もなく結婚した。忙中閑ありか。奇しくも、戒厳令が解除される83年には長男ハルキ君が、翌年にはトモキ君が生まれた。その人柄から多くの邦人に頼られ、交換教員としてワルシャワ大で教鞭をとっていた北大の歴代教授や日本人留学生らを招くなど、山崎家(兼支局)は邦人の社交場になっていた。私も支局には頻繁に顔を出し、そのおこぼれにあずかったわけである。

 ポーランド語をなんとか習得した私は、山崎さんの後任になるとばかり思って満を持していたのだが、1988年秋からウィーン支局へ。86年に帰国し、次は楽都ウィーンを希望していたにちがいない山崎さんは、翌89年暮れから再びワルシャワ勤務になった。互いの応援取材で、私たちは頻繁に顔を合わせるようになる。もっとも、酒席の話題は仕事を離れ、音楽や文学など中欧文化論が中心だった。

 私が離任する際、共に経験した東欧の激動を本にまとめることで意気投合した。これは『東欧革命』(岩波新書、1992年)として実を結ぶ。その後、ポーランド学の泰斗、工藤幸雄先生監修の下で訳書『新しい東欧』(1994年、K.K.共同)を、私が共同を退社した後も大部の訳書『東欧革命 1989』(2009年、白水社)を、一緒に手がけることができた。のんびり屋だけれど信頼できる人だった。

 過日、偲ぶ会で会ったハルキ君はゲーム制作などをコーディネートするオフィスを東京に開設。トモキ君はポーランドでウェブ関連のデザイナー。生物学専攻だったマゴーシャさんは日本からポーランドに帰国後、中退していたワルシャワ大に再入学し卒業単位を取得。今は同大の研究誌編集長を務めているという。「マゴーシャを自由にしてやりたいんだ」――いつか新橋で飲んだ折、山崎さんの口から漏れたひと言の意味がやっと分かった。あの人らしい愛情だったのだ。

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深層の歴史、文化に目を凝らし、記事の水面下に深い知の集積 ロシア語の専門家ながら教条的・強圧的な「ソ連的なもの」に肌合わずか ソ連崩壊期にともに各地を取材して回る 

                    松島芳彦
                    共同通信元モスクワ支局長

              
 私が山崎博康さんと最後に会ったのは、ことし6月15日である。ポーランド大使館で開かれたウクライナ情勢に関するシンポジウムに姿を見せた山崎さんは、趣味のいい帽子を手に持ち、暑いのにネクタイを締めて、いつものダンディないで立ちだった。私の隣に座り、熱心にメモを取っていた。ロシアや欧州に対する関心は全く衰えていない様子だった。

 「独裁者のスターリンはモーツァルトが好きだったんだ。今はそのことを一生懸命調べているのだが、つい夢中になって時間を忘れてしまう。調べものをしていると、いつの間にか一日が終わってしまう」と話していた。自分が本当にやりたいこと、好きなことに迷いなく向き合い、それを楽しめる教養人であり趣味人だった。功名心や損得勘定より、自分の知的な好奇心が常に優先していた。

 通信社の記者として日々の生ニュースをこなしつつ、事象の深層にある歴史や文化に目を凝らす姿勢は一貫していた。単純明快を旨とする新聞記事に、山崎さんの知的好奇心が十分に反映される機会は少なかったかもしれない。しかし彼が書く記事は氷山の一角であり、水面下には深い知の集積があった。だから話していて楽しいし、勉強にもなった。「理解したい」「分かりたい」という言葉を時折つぶやく人だった。

 旧ソ連が崩壊期に入った頃、駆け出しの外信記者だった私は山崎さんと一緒に旧ソ連各地を取材した。大先輩であるのに、決して威張らず、後輩にも丁寧な態度で接してくれた。ずいぶんと一緒に時間を過ごしたので、いろいろと話をうかがう機会があった。ある時ふと「実はソ連をやっていても、あんまり楽しくないんだよね。むしろ東欧に惹かれてしまう。でもソ連がこんな大変な情勢になっては、そんなことも言っていられないな」と漏らしたことがあった。

 山崎さんはロシア語の専門家だが、たぶん教条的、強圧的で峻厳な「ソ連的なもの」が肌に合わなかったのだろう。ただロシアの音楽や美術には造詣が深かった。政治や権力というものの汚さやからくりを本能的にかぎ分ける感性があった。ポーランド語を学び、帝国に支配される衛星国家の心情に寄り添う気持ちを持っていた。

 ソ連が崩壊する直前、山崎さんと私はリトアニアの首都ビリニュスで最高会議の中にいた。周囲にはバリケードが築かれ、ランズベルギス議長や議員たちが籠城していた。独立運動を弾圧するためソ連の特殊部隊が攻撃してくるかもしれないという緊迫感が張り詰めていた。やがて独立を達成したリトアニアは、その時に最高会議の中にいた内外の記者に勲章をくれた。私はすぐになくしてしまったが、山崎さんは思い出の品として大切にしていた。ソ連という帝国に支配されたバルトの小国の悲哀に深く共感していたのだと思う。

 モスクワ支局長時代は会計報告が大の苦手だった。本社の財務部がしびれを切らして乗り込んできた。海外支局の「ガサ入れ」という珍事は聞いたことがないが、押収した記録は完璧な内容で全く修正の必要がなかったというから、数字に弱かったり、金銭にいい加減であったりしたわけではないらしい。ただ会計報告という無粋な行為が山崎さんの美的関心を刺激しなかっただけだと思われる。

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       【謝辞】長男、山崎マイク晴樹さん

 人生の全てをかけて世界の人々に本質と真実を伝えようと尽力 物事に真剣・誠実・熱心に取り組む一方でユーモアを最も大事に 父親からもらった数えきれない笑い ファーストホームは大好きな共同通信 

 父は共同通信が大好きでした。自宅がセカンドホームで、共同通信は父のファーストホームでした。住民票を会社に移していたのではないかと思うくらいです。

 父が海外に興味を持ったきっかけは小学校の頃でした。生まれ育った千葉県の成田にアメリカのプロレスラーが来て、ショーが終わると父は積極的に英語で挨拶しにいき、『ハロー』と言ったら返事が返ってきたことに大きな喜びと感動を感じました。これが、父が海外との架け橋になった原点だと認識してます。

 高校や大学では多数の海外の方々と文通をしてました。チェコスロバキア、イギリス、フランスなど多数の国に渡り、異文化交流をしておりました。

 記者になりたいと思ったきっかけについても話したことがありました。(日中間の)15年戦争について意見を聞くと、父は日本が侵略戦争をしたと強調しました。戦争がなぜ始まったか考えたことがあるかと尋ねると、父は怒鳴るような口調で「もちろんだ。私がなぜ、記者になったと思っている」と答えました。

 真実と物事の本質を追求する父親の姿勢と、強い信念を人生で一番感じた瞬間でした。

 この場でこのような話をするのは不適切かも知れませんが、父は人生の全てをこの会社と、世界の人々に本質と真実を伝えようと尽力しました。結果としてプライベートな部分を犠牲にする結果となりました。離婚を経て生涯の半分以上は1人で生活し、孤独死という切ない運命となってしまいました。

 仕事以外にも、趣味や遊びが大好きでした。モーツァルトの音楽が好きなファンが集まると「モーツァルトファライン」、チェコ協会の会長を務めたり、絵や絵葉書を自ら描いたり、絵画にも深い愛情を感じてました。

 特に私に響いたのは藤田嗣治の絵画集が自宅に何冊もあったことです。父は秋田県立美術館所蔵の藤田の大壁画「秋田の行事」を見に行っていました。戦争画「アッツ島玉砕」を見た時の感動も共有してくれました。代表作の一つである、喫茶店に座る女性を描いた「カフェにて」はベッドの上に飾っていました。海外で大活躍した藤田でしたが、国内ではなかなか認められなかった藤田に父は親しみを感じていたのではないかと思っています。

 アートのみならず、父は美的感覚に非常にこだわっていました。特に服装、ネクタイ、靴、帽子です。

 父は非常に勉強熱心でした。好奇心は強く、物事の本質を追求し自分が納得するまで労力と時間を惜しまない傾向が強かったです。物事には真剣に、誠実に、熱心に、取り組み、責任感が非常に高い一方で、ユーモアを最も大事にしていたことも印象的でした。子どもの頃、父と遊ぶ時、父はふざけることが大好きでした。父からは数えきれない笑いをもらいましたし、皆さんもそうではないかと察してます。

 父が今年の7月に亡くなってから人生を見直してます。どんな人生を送りたいか日々考えてます。父の死は人生の転機になってると感じています。

 父の死が私に与えてくれた宝物、それは人生において「素直さ」を最も大事にして生きていきたいと気づいたことです。周りの人々に優しく丁寧に接して、感謝の気持ちを常に伝える重要さを再認識しました。

 素直さ、優しさ、感謝の気持ちが父から頂いた最も貴重な遺産です。それを私の心に永遠に刻み込みました。皆様にもなにか、心に永遠に残る父からの贈り物があることを、彼が私たちの心の中で永遠に生き続けることを切に願っております。

 <親父、今日は親父のことが大好きな人たちがたくさん来てくれたよ。みんなからの愛情をあの世での糧にしてね。たくさんの素晴らしい人たちに会わせてくれて、どうもありがとう>

 本日は父にお会いに来ていただき、父は非常に喜んでいるはずです。皆様に深く、深く、感謝申し上げます。

                                         (了)