✺神々の源流を歩く✺

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第45回 古代神道引き継ぐ対馬の赤米神事
天孫族と海神族を結ぶ 

 対馬には古代神道を引き継いでいる赤米を使った「赤米神事」が千数百年続けられている。対馬の豆酘出身の郷土史家、城田吉六氏の「赤米伝承―対馬豆酘村の民族」によると、赤米の神事は、対馬の多久頭魂神社と鹿児島県の種子島の宝満(ほうまん)神社、それに岡山県総社市の国司(くにし)神社の3カ所で、それが「瀬戸内海を通り、他の文化とともに順次、畿内へと普及したのではないか」としている。


 赤米は米の野性的な種で、山間の冷たい水でも収穫できる。幹が太く丈夫で穂が長く赤褐色で洗っても落ちない。炊くと暖かいうちはおいしいが、冷えるとポロポロになる。米の最初の品種とされる。

「神様の田」で作る赤米

             
 神事に使われる赤米は、担当の農家が1年交代で「神様の田」で作られる。赤米づくりは種おろしから始まり、種籾漬け、田植え、新穀の収穫、初穂を炊き、神前に供え、締めくくりに直会の儀式で、新嘗祭の神事は完結する。最近では農家の高齢化が進んで担当する農家の確保が難しいという。

 
 対馬の「赤米神事」は、高御魂神社の大事な祭事になっているが、高御魂神社は対馬固有の天道信仰の聖地の多久頭魂神社の境内にあることから、多久頭魂神社の祭事にもなっている。

対馬と壱岐から祭神や神社などが奈良に

日本書紀には5世紀に、対馬と壱岐から祭神や神社や亀朴が奈良に移ったという記事が出ている。また同じ紀の「顕宗天皇3年春2月」の条には、対馬にある「日神」が「磐余(奈良)の田を以ちて、我が祖高皇産霊に献れ」と大和王朝に命じたという有名なくだりもある。この文脈からする限り対馬の日神はアマテルで、大和政権に対して対馬から奈良に移った高皇産霊に赤米神事をしなさいと命じているようにも思える。

 この神事の際、米俵にねずみ藻という海藻が差し込まれる。ねずみ藻は増えるのが早く、また藻には魚が多く集まってくるので、赤米神事の由来は天孫族と海人族の共存共栄の意味を込めた儀式だったのではないかとも思われる。

朝鮮半島から伝来の古代の赤米

                         
 書紀には「『又勅して(天照大神)曰はく、吾が高天原に御(きこ)しめす斎庭(ゆにわ、神聖な田)の穂を以ちて、亦吾が児)に御(まか)せまつるべし』とのたまふ」といっている。この斎庭で採れる米について、赤米とは書かれていないが、白い米はまだなかったと思われるから、赤米のことだと思われる。

                         
 かつて朝鮮半島の洛東江の流域ではジャポニカの赤米が造られ、日本に大量に輸入され、昭和20年ごろまで赤米が交じっていたという記憶を持っている人がいる。品種改良が進み多収穫の白い米に、順次入れ替えられたといわれるが、古代の赤米は半島の任那、新羅の地域から対馬、壱岐、北九州へと、古代の人々と一緒に伝来したとみられ、そうなると天孫族も同じ赤米を携えてきたであろうことが想像される。

赤米神事に古代神道、大陸や朝鮮半島とのかかわり

                             
 郷土史家の永留久恵氏は赤米神事について、高皇産霊尊を祭神とする高御魂神社と多久頭魂神社、亀甲の聖地である雷神社でも行われているので、対馬が天孫族と海人族の出会いと融合の地であったのではないかと指摘する。

 赤米神事には古代神道、それに大陸や朝鮮半島とのかかわりを抜きには考えられないところがある。農耕の種蒔きの時期とか収穫の成否など重要な行事は、すべて占いに頼っていた時代に、占いが専門だった中臣烏賊津使主が、対馬の県主であったということもどこか示唆的である。

                               (了)