✺神々の源流を歩く✺ 

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第55回 亀卜の中臣氏を対島にたどる  

 中臣という名前は、「神と人との中を執り持つ」という関係を意味といわれるので、どこまでいけるかわからないがたどってみた。神事を職業としていたことがうかがえる。

 「新撰氏族本系帳」に、「黒田大連公、二男を生む。中臣姓の始め、中臣常磐大連公。右の大連、初めて中臣連の姓を賜る。…欽明天皇の代、特に令誉を蒙る」とある。功績をあげたのであろう。このいわれは大中臣氏が朝廷に提出したものなので、この点について古代史家の横田健一氏は、卜部をたどることで、常陸の鹿島社を奉祭する卜部が中央に出て、宮廷の雨師的司祭者として立身して、中臣氏になったのではないかとみる。 

中臣氏と鹿島、香取神宮とかわり

 また仏教史に詳しい田村圓澄氏は、「大鏡」に「鎌足の大臣の生まれ給えるは、常陸の国なれば…」などとあるので、中臣鎌足は常陸出身とする。「続日本紀」には、「内大臣従二位・藤原朝臣良継、病めり。其の氏神、鹿嶋社を正三位、香取神を正四位上に叙す」という記事があり、同十一年十月条の「常陸国鹿嶋神社の祝(はふり)正六位上中臣鹿嶋連大宗(おおむね)に外従五位下を授く」とあり、鹿島、香取両神社がそろって昇格していることから、中臣氏と鹿島、香取神宮とかわりがあったことがうかえるとする。

亀朴通じ広いつながり

 中臣氏は鹿島神宮の氏子だったという研究もある。また大阪市の枚岡(ひらかた)神社も、中臣氏の氏神としており、中臣氏は神社祭祀に大事な亀朴を通じて、広いつながりを作っていったようである。
そこで対馬で生涯を終えた中臣烏賊津使主になるが、対馬に関する古代史研究家の座談会で、対馬出身の永留久恵氏が、中央から来た研究者から「『ナガトメ』さんは『ナカトミ(中臣)』がなまったのではないですか。何か伝承などはありませんか」と尋ねられたという記述があった。

亀卜の有力者として中臣一族に

 906(延喜6)年の「新撰氏族本系帳」では、天児屋根命の子孫の常磐大連が、欽明朝のときに中臣連となり、大和王権の祭祀機構を取り仕切ったが、鎌足の時代に中臣の系統は祭祀を継ぎ、鎌足の系譜は「藤原」を名乗って政治の舞台に出るが、烏賊津使主がいた時代にはまだ「中臣」と名乗っていなかったようだ。「中臣 烏賊津使主」は、中央の影響力が伸びてくるにしたがって、亀卜の有力者として中臣一族に組み入れられていったのかもしれない。

                                   (了)