コラム「政治なで斬り」 村山富市連立政権の「功と罪」 光当てられた戦後50年談話 腑に落ちない手のひら返しのような現実路線への転換 

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 村山富市元首相の死去の新聞やテレビの報道は、「戦後50年談話」に光が当てられていた。ただし、この自社さ連立政権を機に社会党は先細り、議会政治の監視役としての役割を失っていく。村山政治の「功」の面だけでなく、「罪」の部分の分析も大事だったように思われた。

 その村山政権が長く対立していた自民党に担がれたのも異例なら、憲法、自衛隊、原発などを大胆に現実路線に切り替えたのも異例だ。

 村山氏は「私の履歴書」に、「閣僚経験がなく首相官邸にもめったに行ったことがない。総理大臣になることなんか考えたこともなかった」と記している。

 「あれよあれよという間に自社の首相候補になり、国会で指名されると秘書官やSPに取り囲まれて、首相官邸の執務室に連れて行かれた。これが首相の椅子かと座ると、腹を決めてやらざるを得ない。歴史的な役割があるのだとすれば、自民党にできなかったこと、戦後50年の節目にけじめをつけることではないか。少しでもよこしまな気持ちや欲が出たら失敗すると、自分に言い聞かせた」と語っている。

 ただし自民党内では、細川政権の頃から密かに政権奪還作戦がねられている。それは社会党の村山委員長を担いで政権を奪還するという大胆構想で、村山氏がだめなら、土井たか子衆院議長を担ぐとされ、自民党の幹部が村山、土井両氏周辺と接触している。

 1989年に東西冷戦が終わると、自社の55年体制をはじめ内外情勢も大きく変革を迫られた。フランスやイタリアでは、共産党が社民党に代わるなど、何が起きてもおかしくない状況にあった。とはいえ長年、党の政策の柱だった憲法、自衛隊、原発容認などで現実路線化は唐突すぎた。熱心な支持者やフアンは離れ、党員党友はどんどん減る。党内で議論を尽くして納得し合うべきだったが、次の年は戦後50年目なので時間がなかったと説明されている。

 いずれも社会党とっていわば「心の御柱」みたいなもので、それぞれの時代の議論や先輩たちの思いも込められている。「野合だ」とか「自民党の復帰に手を貸した」などといわれ、連立離脱論も広がった。連立崩壊を一番心配したのが自民党で、「村山談話」では大きく譲歩することになる。

 「村山談話」の核心は、「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れた」。またどの内閣だったかは言及していないが、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えました」「あらためて「痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明いたします」とある。つまり第二次世界大戦中の日本の行為は、植民地支配と侵略であり、戦争に突き進んだのは国策の誤りだったと、はっきり反省を盛り込んでいる。

 談話は、小泉純一郎首相以後の政権に踏襲され、日本のアジア外交の原点ともされる。村山氏は新首相の外遊の定番だったワシントン詣でからではなく、まず韓国からスタートし、フィリピン、ベトナム、マレーシア、シンガポールなどをめぐった。

 「村山談話」は30年経った今日、どう評価されているか。17日夜のテレビ朝日の「報道ステーション」の10分間の特集は、視点を含め見応えがあった。とくに「戦後50年村山談話」の解説は丁寧だった。

 18日付の東京新聞は、「高市氏、首相選出の公算」を押しのけ「村山氏死去」が1面トップだった。他紙も解説・雑報、評伝、社説などで村山氏を偲んでいる。

 このように村山氏の顕彰は大事だが、腑に落ちないのは、手のひら返しのような現実路線への転換である。社会党は、自民党から連立攻勢を受ける一方だったが、攻勢に出るチャンスはなかったかである。例えば自民党のハト派議員などに積極的に連動を働きかけるなど攻勢に出てもよかった。受け身本位になり身動きができなくなっていた感じだ。社会党支持者の多くが失望し離れ急激に衰退していく。

 とくに消費税を3%から4%に引き上げ、村山政権はその後の選挙に惨敗する。社会党から「社民党」に党名を変更して再生を図ったが、東京三宅坂の社会党本部の若い員や地方の党員に離れる人が続出。党勢も先細りになり職場もなくなり、苦しむ姿を筆者は何人も目にした。

 村山連立政権の重要ポストに関係した人物が、再就職先に省庁関連の団体を紹介され、公務員の天下り禁止を主張してきたので、せっかくだが受けるわけにはいかないと断り、浪人生活を続けた人もいる。

 いまの日本の政治は野党ばかりか、自民党も多党化の時代に入っている。ますます幅広い合意形成が不可欠になっている。村山政権から教訓を汲み取り、高市早苗新政権に引き継いでもらいたいことは、コンセンサスを重視した熟議政治ではないか。