戦後80年という節目に、さまざまな分野で戦後を振り返り、将来に思いはせる催しが開かれている。「片山哲」と言っても、知らない人が多いかもしれない。新憲法下で最初の首相を務めたのが、日本社会党委員長だった片山哲氏だった。片山氏の顕彰会も、11月初めに東京都内のホテルで開かれた。
「弱い立場から政治を見る」
顕彰会の趣旨について、片山氏の孫に当たる青池栄さん(片山哲記念財団代表理事)は「片山は貧しき者、弱き者の立場から政治を見つめ直し、真に国民のための政治とは何かということを常に問い続けた。その思想や業績を振り返りながら、明日につながるきっかけになれば」と述べた。社会党委員長を歴任し、先月101歳で亡くなった村山富市元首相が生前に寄せた「平和と民主主義を徹底して主張された。片山氏に、私も若き日に深く感銘し、政治の道に進んできた」とするメッセージも紹介された。
片山の出身地の和歌山県の宮﨑泉知事、真砂充敏田辺市長、黒岩祐治神奈川県知事、鈴木恒夫藤沢市長、小山雄希智紀伊民報社長らが発起人で、政界関係者ら100人近く集まった。
片山内閣は1947年5月に発足した。直前の選挙で社会党は143、自由党131、民主党124、協同党31、その他37の議席を獲得し、社会党が第一党になったからだ。同党首脳はせいぜい第3党だろうと予測して、政権の準備は全くしていなかった。第一党の連絡を受けた西尾末広氏(後の官房長官)は「本当かい、そいつはえらいこっちゃ」と叫んだというエピソードが、いまでも語り草だ。
食糧難で餓死者が出た
閣僚がそろわず、暫定的に片山氏が全閣僚を兼任する形で一人内閣としてスタートした。連合国軍最高司令部は「片山氏が新首相に選ばれたことは、日本の国政が"中道"を歩んでいることを示すものだ」と歓迎した。
当時の日本は、戦争で多くの犠牲者が出た直後で産業は壊滅状態で、国民生活はまひし餓死者が出て食料の輸入が大仕事だった。片山政権には戦後の復興をはじめ、戦前の制度や官僚機構の廃止や改革など、新時代に向け大きな課題が山ほどあった。政治、行政の態勢を整えることも緊急課題で、労働組合法の制定、国家公務員法の制定、内務省解体、失業保険法の創設、警察制度の改革など、矢継ぎ早に態勢を整えた。
現在は当時と政治、経済状況も生活環境も大きく異なるが、貧富の格差や物価高など国民生活は、当時と似たような困難な局面を迎えている。これを切り開いていくには、片山政治の気構えや真剣さ、手法などに学ぶ点が多いはずである。片山の仕事ぶりの特徴は、大きな問題意識をもって、政治全体の掌握に努めたことだ。まず新憲法下初の政権ということで「護憲と政治の浄化」を掲げた。男女平等や働く人の権利の尊重は、表現は異なるが、あらゆる分野で女性の参加を促すものだ。
党内や自由、民主両党との調整に腐心
片山氏の政治の進め方は、議論しながら着実に積み上げていく方式である。上からの目線で即断即決主義は取らなかった。当時の関係者によると、権力の抑制にはとりわけ心を砕いたという。それから片山氏で忘れてならないことは、日中国交回復にひと際、心を砕いていたことだ。首相を辞めてからも訪中して周恩来首相に会った。熱心なクリスチャンでもあったからか、清廉さは大いに受けたが、果敢さに欠くきらいがあり、「グズ哲」という異名をもらっている。
難題はおひざ元の党内や自由、民主両党との関係調整にあった。象徴的だったのは炭坑国家管理問題で、党内左右の対立のほかに保守陣営内での対立が加わった。結局、目玉だった政策が骨抜きになるなど混乱が続いた。
顕彰会の参加者から、「今や弱肉強食の空気が社会の広い分野に浸透してきた。政治や経済は社会的な弱者に目が向いていないのではないか」という声が聞かれた。「弱き者を助けるのが政治だ」という言葉は、かつて、政治記者駆け出しの頃、田中角栄首相番をやっていて田中首相からも聞いたことがある。
「政治は自己犠牲と献身にあり」
片山氏の伝記小説「「愚図(ぐず)の英断」を書いた小説家の鷹匠裕氏は、「わずか8カ月余りの短い政権だったが、片山が唱えた『政治は民主主義、経済は社会主義、世界は平和主義』こそ、ポピュリズムや独裁が台頭し、貧富の分断が広がる今、日本の政治を真剣に考えなければいけないのではないですか」と言っている。
人物像を書く場合、まず周辺にいる友人を知ることが大事だといわれる。片山氏の父は謹厳な弁護士、母は熱心なクリスチャンで、父は「己を律する性格」、母は「奉仕の精神」を大事にしたといわれる。首相就任時に「政治は自己犠牲、献身の崇高な一つの精神運動、道義高揚の運動」だと言っているが、両親の影響がうかがえる。知略や謀略が求められる舞台裏の駆け引きなどは苦手だったと言っていいる。
趣味で特筆されるのは、白楽天(白居易)を好み、著書が2冊もあることだ。白楽天は唐時代の官途に就きながら詩を読んだ。平易で分かりやすさが信条で、士大夫から子供にまで愛唱されたという。平安時代の清少納言や紫式部、菅原道真も大いに影響を受けている。片山は自らも詩をひねっている。
我年来好鶴清浄
黄鶴迎我登霊峰
真鶴飛舞姿景勝
清節守道愛鶴岬
特別にうまいとは思えないが、清楚な鶴を通して真鶴の自然や志を静かにうたっている。
(了)