検事長と新聞記者の賭けマージャンが提起した問題 新聞に読者の厳しい目が向けられている

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 黒川弘務前東京高検検事長と産経新聞記者や朝日新聞元記者が緊急事態宣言下で賭けマージャンをしていたとの週刊文春のスクープ報道。〃文春砲〃はいまやメディアで一番、威力がある。時の政権も一番気にせざるを得ないメディアであることは間違いない。新聞やテレビは何をしているのか、と言われても仕方がない。結局、黒川氏は文春砲で辞任に追い込まれた。検事の定年延長問題で厳しい政権批判報道を繰り広げながら、一方で現場の記者たちが検察幹部とズブズブの関係にあった、との新聞を中心とした記者クラブに所属し、取材をする「記者クラブメディア」に対し読者の厳しい目が向けられている。これらの声はもっともだと思う。また、当事者の産経や朝日だけでなく、記者クラブメディア全体でこの問題を自己検証すべきだと前回の記事で書いた。しかし、この問題では、何とも言えない違和感がどうしても残る。その違和感の在りかと、この問題が提起した取材対象とメディアとの距離の問題を40年以上前に共同通信社会部で検察担当記者を5年間やった経験から考えてみた。時代も変わり、記者の意識も変わってきているはずだ。だから、〃じじいの戯言〃として読んでいただいて結構である。

納得しがたい違和感

 私が感じる違和感とは、何か。
 週刊文春のスクープ記事(5月28日号)によると、新聞記者との賭けマージャン情報は4月下旬、「産経新聞関係者」からもたらされた。「今度の金曜日に、いつもの面子で黒川氏が賭けマージャンをする」という内容だった。文春側はこの情報に当初は「コロナ禍の最中に、”次期検事総長”がマージャンに興じるなど、あり得るだろうか」との疑問を持ったようだ。産経関係者が「産経の社会部に、元検察担当で黒川氏と近く、現在は裁判担当のAという記者がいます。彼が一人で暮らすマンションが集合場所です」とマージャンをする場所を明かした。産経関係者から文春側に時間や具体的な場所まで教えたのかは、記事からは分からない。

 とにかく、「今週の金曜日は5月1日」ということで文春側はこのマンションで張り込み、夕方以降に黒川氏や産経の別のB記者(元司法クラブキャップ)、朝日新聞の元検察担当記者(現在は同社経営企画室勤務)が入るところや、翌午前2時ごろ、産経が呼んだハイヤーで元司法クラブキャップと目黒の自宅に帰るところまで目撃している。さらに、別の産経関係者が5月13日にも黒川氏がA記者の自宅でマージャンをやったとの情報も文春にもたらされたという。

 問題はこの「産経関係者」だが、情報提供者は2人いるらしい。こんなことは、かなり近い身内でないと知り得ない。また、A記者や元司法クラブキャップを快く思っていない人でないと、こういう情報は普通、週刊誌に持ち込まないだろう。記事が情報源を「産経関係者」と明らかにしたことで、産経社内で文春に情報提供した人が絞られ、犯人捜しが行われる可能性もある。ジャーナリズムの原則の一つである文春側の「情報源の秘匿」の問題は、大丈夫なのか。一方で、産経や朝日も結果として、文春報道により取材対象である黒川氏という情報源を暴露されてしまった。ここにも「情報源の秘匿」の問題はある。「情報源の秘匿」が守られなければ、取材対象から情報を得られなくなるし、ジャーナリズムは信用を失う。情報源について、ジャーナリズム原則に忠実な文春がここまで特定して書くのは珍しい。

「産経関係者」の情報提供の意図は

 衝撃的な記事内容から見て、検察や政権など権力筋からのリークでないことを明らかにするため仕方のない手法だったと考える。しかし、産経と朝日のこの問題は深刻である。「賭けマージャン」という記者倫理の問題とは別に2社だけでなく、その影響は、記者クラブ取材全体の在り方ににまで及ぶ。だから、少なくとも司法記者クラブ各社の内部検証が必要なのだ。その結果を新聞は紙面で、放送は電波で明らかにすべきであろう。当然、新聞協会の編集委員会での検証もすべきである。徹底した内部検証がされなければ、読者や視聴者はとても納得しないだろう。マスメディアにとってそれだけ重大な問題なのである。

 しかし「産経関係者」が情報提供した理由や意図は不明で、この「産経関係者」が〃正義感〃からだけでなく、何らかの意図を持って情報提供した可能性も捨てきれない。というのは、もし私がA記者やB記者の立場であったなら 記者クラブの同僚にだけにしか、どこに行くかを漏らさないからだ。クラブの同僚が情報提供するなどは考えにくい。根本的な疑問は、いくらマージャン好きだったとしても、なぜ黒川氏は発覚すれば間違いなく辞任に追い込まれる〃自爆テロ〃のような賭けマージャンをやったのか。「脇が甘い」ということだけでは説明しにくい。

「黒川氏一人が悪い」の方向にすり替わる

 安倍政権は5月18日にあれだけこだわってきた検察庁法改正案の今国会成立を断念した。記事では、文春は黒川氏にはその前日の17日の日曜日午前に犬の散歩中に直撃、翌18日も2度にわたって事実関係の確認を申し入れている。文春がオンラインでこの問題を報道したのは20日。これより少し前だが、18日の「今国会断念」の理由は、市民のツイッターデモの広がりや元検事総長らの法案に対する反対意見書提出という動きも大きいが、政権が黒川氏をめぐるこのスキャンダルを事前につかんでいた可能性も高い。

 このスキャンダルで安倍政権は、窮地に立たされたことは事実である。しかし、このところ一部の新聞報道では、検察庁定年法案について「もともと安倍首相にこだわりはなかった。菅官房長官がこだわっていた」との論調がみられるようになってきた。さらに、安倍首相は、検察庁の定年延長だけでなく、国家公務員の定年一括法案の廃案まで国会で言及し始めた。

 法律違反の賭けマージャンや黒川氏への軽い訓戒処分について、懲戒処分でなかったことや6千万円を超えるといわれる退職金の多さなどメディアの批判は、テレビの情報番組を中心に政権の責任に向かう以上に黒川氏個人への批判が強まっている。新聞を中心とした〃検察ズブズブのメディア〃への批判的な番組も目立つ。本来は無理筋な法案を通そうとしたり、政権に都合のいい人物を検事総長に据えようとしたことこそが、最大の問題であるはずである。それなのに、問題が「黒川氏一人が悪い。賭けマージャンを一緒にした新聞記者が悪い」という方向に微妙にすり替わってきたようにみえる。これは一種の「トカゲの尻尾切り」ではないのか。

やはり当局との賭けマージャンは御法度

 週刊文春の記事は、「黒川氏は昔から、産経や朝日はもちろん、他メディアの記者ともしばしばマージャンに興じてきた。その際には必ず各社がハイヤーを用意する『接待マージャン』が通例だった」と書いている。メディアの取材が(とても取材とはいえないが)「接待マージャン」と言われるなんて、あまりにも情けなさすぎる。

 メディア各社の特ダネ競争は必要だと考えている。そのために、記者が取材対象と、酒を飲むこともあるだろう。しかし、現役時代のことを考えると、私も立派なことを言えるわけではないが、違法性が疑われることまでをやるのは、いまの時代、コンプライアンス上、アウトである。(昔も決してよかったわけではなく、社会が寛容だっただけである)。嫌な人は、酒を飲むのもやめたらいいし、まして、賭けマージャンは御法度である。そんなことをしなくとも、人間関係を深める方法はいくらでもある。取材の目的はあくまでも、役所だったら、当局が隠していることを明らかにするためであり、それを受け手に知らせるものでなくてはならない。それがメディアの「権力監視」の役割である。取材する側とされる側は、その置かれた立場が全く異なるはずである。きっとその自覚が足りないのだろう。私もこのことを新人のころは先輩から口を酸っぱくしてそう教えられた。そのことを学ぶために、新聞社や通信社、NHKでは、新人教育で権力の重要な一環である警察を担当させている。当局に癒着せずに、やってはいけない一線を超えないようにしながら、どのように人間的な取材で取材対象に迫るかを学ぶためである。ただこれは、今や死語に近い「国家権力」などと言う言葉が常識だったころの話で、いまはメディア幹部の中にも新人記者の「サツ回り(警察取材)」には弊害があるとする批判も聞く。これも、時代の遺物で、やめた方がいいのかもしれない。

 私が現役の記者だったころ、記者クラブ内での勤務中のマージャンは当たり前だった。いまからみると、おおらかな時代だった。検察担当のころ、ある幹部と1度だけ、事件が一段落したときの正月に幹部の自宅でマージャンをしたことがある。他社の記者も一緒だったし、いくらかけていたのかも覚えていない。正直言って罪悪感もなく、この幹部と賭けマージャンはいくらぐらいから違法性が生じるのかが、話題になったことをなぜか覚えている。口が堅く怖い人だった。だから、このとき「こんな人間的な面もあるのか」と思った。当時は定期的に当局の人とマージャンをやるほど余裕はなかった。決して、ネタを取るために、こちらが望んでも「ズブズブの関係」になどなりようがなかった。

 今も変わっていないのか、確かめていないが、私が検察担当だったロッキード事件のころは、夜回りや日中の庁内回りでも平検事への取材は許されなかった。その代わりに東京地検の次席検事が午前と午後、1日に2回、何もテーマがなくても定例の記者会見に応じた。夜回りも特捜部副部長以上の幹部はOKだが、平検事は禁止。記者がその約束を破ると、特捜部副部長に〃出入り禁止〃を申し渡された。地方勤務だった時に、よほど親しかった検事が特捜部にきたという以外は、平検事の取材は難しかった。この方法は、先輩から聞いた話だが、河井信太郎氏(元大阪高検検事長、故人)という造船疑獄で4人の代議士を逮捕、その後の特捜事件に大きな功績を残した「東京地検特捜部生みの親」といわれている伝説の〃鬼検事〃が始めたものだそうだ。「河井方式」は、私の担当以前から続く伝統となっていた。

 「河井方式」は、何か書ける材料は一般論だが、各社公平に提供する(それは決して具体的な内容ではない)が、1社だけ重大ニュースを落とす「特落ち」をさせないというものだった。その代わりに平検事は取材しない。「特落ち」をおそれる記者たちは、そんなおいしい話に飛びついたのだろう。これも「癒着」と批判されれば、そうなのだろう。しかし、本社にいる取材班が関係者など外回りでつかんできたネタを幹部にぶつけて確認を取り、書くことは黙認されていた。従ってロッキード事件の時は、検事総長、次長検事、高検検事長、高検次席、地検検事正、次席、特捜部長、主任検事である副部長のところには休み中も含め、毎日のように、それぞれの担当が夜回りした。最初は検察側が1社ごとに夜回りに応じていたが、途中からは各社同席で、事実上は、幹部の自宅での夜の記者会見といったところだった。副部長は帰りが遅いので、自宅近くの公園で待ち取材したことを思い出す。この苦労は、公務員の「守秘義務の壁」を破り、検察の動きを少しでも知るためには必要だった。ヒントはくれたが、当事者や弁護士からの「リーク批判」をおそれる検察が、「リーク」といわれるほどの内容のある情報を出すことはほとんどなかった。

黒川氏担当記者はなぜその肉声を書かないのか

 今回の問題は、政治部の官邸と法務省担当、社会部のOBを含めた検察担当が主に取材に当たっているはずである。社会部取材で東京高検検事長は取材対象の中心にいた。以前通りのルールならば、検事長は、夜回りを含めて各社の取材に応じる立場のはずだ。検事長とマージャンはしていたぐらいなので、記者たちは取材もしていたのだろう。検事長担当の記者は黒川氏への取材で何か記事にすることができたのか。記事にしていたならば申し訳ないが、残念ながら読んだ覚えがない。読者としては、黒川氏の肉声が聞こえる記事がほしかったはずだ。私も知りたい。いまからでも遅くはない。書いてほしい。

 週刊文春によると、産経のA記者は2月末「黒川氏はゴーン被告の逃亡事件の指揮という重要な役割を担っており、定年延長という形を取らざるを得なかった」などと黒川氏擁護ともとれる記事を書いている、と指摘している。これでは、やはり「ズブズブ」と言われても仕方がない。安倍政権になってから、政権に批判的な新聞と擁護する新聞に論調が割れていた。しかし、この問題について政権擁護派のはずの読売は終始批判的で、産経も当初は批判的だった。A記者の記事はそれを軌道修正するものだったのか。

 取材対象と親しくなれなければ、いいネタはとれない。親しくなること自体が悪いわけではない。しかし、今回はその一線を超えたと言われても仕方がない。今回の最大の問題点は、黒川氏の定年延長が違法だと国会で問題になっている中で、その違法性を免れない賭けマージャンをしていたことにある。どのように弁明しても読者を裏切る行為であり、その責任は免れない。新聞通信調査会が毎年実施しているメディアの信頼度調査(19年11月発表)では、新聞の信頼度が他のメディアよりも一番高い。そのような中で、読者の信頼を裏切った責任は重い。朝日新聞はこの問題で法務省の調査結果が「C記者」と書いていることに注文を付けている。今は記者職ではないということなのだろうが、「朝日新聞社員」と書いたからといって責任を免れるわけではない。むしろ注文は見苦しい。だからといって、長年の読者として言うが、朝日新聞はこのことで萎縮してはならない。